夜と煙とヘルメット Ⅳ

 私は今日も、不味いとしか思えなくなった煙草をくわえて地面を掘っていた。野生動物に掘り起こされないようにする為、人を埋めるにしてはかなり深く掘っている。疲れはするが、時間ならたっぷりある。いや、むしろ私に残されたものなど、時間くらいしかない。

 煙が目に入りそうになり、反射的に顔をあげる。紫煙とため息を吐き出すと、背後に感じた気配に背筋が凍った。こんなところに人が来る用事はない筈だ。どこぞの親切な人がわざわざ私の手間を省く為に、遺体をここまで移動させるというのも考えにくい。

 リスか何か、対処する必要のない小動物だといいと考えてから振り返る。そこに居たのは、紛れもなく人だった。視線を上げてみても顔は逆光で見えないが、私はこのひとを知っている。


「赤平さん……!?」

「あ、ごめんなさい、驚かせるつもりは」

「いや、すみません。作業中に人が来たのなんて、初めてだったんで」


 長方形に掘っていた穴から出て、適当なところにスコップを刺すと、彼女へと歩み寄った。こんなに近くに立ったのは初めてだ。想像していたよりも小柄で、彼女には気取られないように再び驚く。

 わざわざこんなところに、何をしに。まさか今から埋めようとしている人と親しかったのだろうか。横たわる男の遺体を見やって逡巡する。

 外界と私達を遮断するようにそびえ立つ壁に向き、彼女に見せても平気な状態かどうかは、一目見ても分からなかった。いくら大人とはいえ、遺体の一部が欠けたり傷付いたりしていればショックだろう。せめて一言、対面する前に声をかける必要があると思ったのだ。

 しかし、どんな状態かも分からない遺体を埋めようとしていたなんて。こちらに背を向ける男性の後ろ姿を見ても、全くピンとこない。忘れてしまったのではなく、初めから見ていなかった。それに気付くとぞっとした。自分は、人の心を失い始めているのかもしれない。

 あれこれ考えて一人で心臓が凍るような思いに見舞われている私を他所に、彼女は手に持った袋を見えるように掲げて、柔らかく微笑んだ。ご迷惑じゃなければ、一緒にお昼にしませんか、と。それまでの思考とのギャップの激しさに目眩がする。


「え……?」

「あ、嫌でした?」

「いえ……嫌というか……」


 理解が追いつかない。こんなことなら、誰かが新たな遺体を運んできたという方が、遥かに現実的だ。というか、墓地、それも遺体の側で食事なんて、随分と肝が据わっている。

 ここにはパイプ椅子を運び込んではいるが、ほとんど座らずに野ざらしになっているので、とにかく汚い。こんなところに彼女を座らせてもいいものかと悩みながらも、気付けば体が動いていた。

 椅子を赤平さんの近くまで運び、遺体に背を向けるように設置する。首からかけていたタオルで座面を拭こうとすると、その前に彼女は座ってしまった。


「それは、雨竜さんの体を拭くタオルですよね?」

「すみません、これしかなかったので」

「あ、いえ、そういう意味ではなくて……急に押し掛けて、椅子まで譲ってもらって、こちらこそすみませんでした」


 そう言って、彼女は私にラップに包まれたおにぎりを手渡した。この作業をしながら昼食を摂るのは初めてだったから、握り飯を持ったままあの団地を眺めるのはなんだか妙な気分だ。


「お口に合うといいんだけどって言いたいところだけど、ただの塩にぎりだから、格好つかないですよね」

「好きですよ、赤平さんの手料理」

「え?」

「旦那さんが、美味いから食えって、お弁当を一口分けてくれることがあったので」

「そうだったんですか」


 形よく握られた米を頬張って視線を遠くに向ける。しっかりした塩加減が絶妙だ。肉体労働者への配慮が感じられる味だった。


「美味しい」

「良かった」


 あっという間に平らげてしまった。ごちそうさまと言いながら、ラップを丸めてポケットにしまう。すぐに出すように言われてそれを渡すと、新しいおにぎりと引き換えられた。

 至れり尽くせりで、逆に居心地が悪い。彼女が私にここまでする理由なんてないはずだ。元々問おうと思っていたことを口にしてみると、彼女は神妙な面持ちで俯いていた。


「……で、どうされたんですか」


 彼女は私の真似をするように、団地を眺めてみせる。透き通った横顔は、私とは似ても似つかなかったけど。美しい人だ。改めて思った。

 が言うように、彼女は地味、と言っては失礼だけど、控えめな化粧と格好でいた。たまに見かけるその姿は、いつも髪をひっつめてエプロンをしていたのだ。その下の服装だって、かなりラフな格好だったはずだ。

 ところが、今は手入れの行き届いていそうな綺麗な黒髪を、風に靡かせて目を細めている。可愛らしい人だと思っていたけど、どちらかと言うと美しいという言葉が似合いだ。化粧だっていかにもよそ行きに見える。これから札幌にでも行くみたいに。ロングスカートから見える足首は、私と同じ生き物とは思えないほどに華奢だった。

 だから昨日、一目見て彼女だと気付けなかったのだ。記憶の中や、から与えられたイメージと、随分とかけ離れていた。


「あの事故が起こった直後、私、一度だけ、遺体を埋める当番をしたこと、あるんです」


 独り言のように語り出されたそれを、零さないように拾っていく。風向きが少し変わっただけでも流されていってしまいそうな、儚い声だった。


「あのときはまだ混沌としてたし、今ほどしっかりとそういう分担もなかったけど。誰かがやらなきゃ駄目だろうって、思って。たまたま第一発見者だった私が」


 そこまで言うと、彼女は膝の上で手を固く握った。何か怖い思いでもしたのだろうか。私は過去の彼女を慮って、息を詰まらせた。


「結局その場にいた四人でやることになったんですけど。遺体を触るのは怖いし、手は豆だらけになるし。女性だけとはいえ、四人も居ればなんとかなるだろうって高を括ってたんです。でも、終わる頃には体も心もボロボロになっていました」


 震える肩を見て、彼女の体を強張らせていたのは恐怖ではなく、不甲斐ない自分に対する怒りなんだと察した。彼女が気に病む必要など、これっぽっちもないというのに。こういうのは私のような、冷徹で愚直で、他にできることがないような奴がすべきなんだ。


「雨竜さんは、辛くないですか?」


 その問いの意味を測りかねて、私は黙った。椅子の横に立ったまま、彼女を見下ろす。視線が合うと、彼女は続けた。


「今朝、食事の当番をしながら、雨竜さんの話をしたんです」

「私の?」

「はい。主人の知人と話せて良かった。そういえば最近姿を見かけなかったけど、って」

「……そうですか」


 何を言おうとしているのか、彼女に何を知られてしまったのかを察すると、私は誤摩化すように煙草に火を点けた。相変わらず不味い。


「当番で一緒になっても良かったのに、どうして昨日までお話できなかったんだろうって言ったら、森岡さんが……」


 彼女は言葉を切って、私は煙を吐き出す。口の中に残っていた昼食の余韻がかき消されてしまったことを残念に思いながら、それでも視線は逸らさない。


「大切な役割の為だって、真面目な顔して、言ったんです」


 彼女の目には軽蔑や嘲りの色はなかった。まずはそのことに安堵して、煙草でも誤摩化しきれなかった何かを、笑ってやり過ごそうとした。


「遺体の当番ばかりされてるんですよね。それも、全部の棟の分を」

「……そうですね」


 団地の長には、私がこの役回りを買って出たことを、できる限り口外しないで欲しいと伝えている。遺体を埋めたがるなんて変なヤツだと思われるだろうし、歪曲して献身的な人だと思われるのも嫌だ。私は私一人で役割をこなしたかっただけだ。コミュニケーションから逃れる為に、この役を買って出たに過ぎない。私の為でもあるし、周りの為でもある。適材適所だと思ったまでだ。

 だけど、こんな真摯な理由で私を労ってくれる人がいるとは思えなかった。彼女の言うように、線の細い女性が四人集まったところで重労働には変わりないだろう。それを、私ならこなせる。毎日でも。

 今までずっと、心のどこかでは、逃げているような気持ちがあったらしい。私は彼女の謝意に救われたようだ。


「私、明日も来ていいですか。邪魔、しないので」

「駄目です」


 私は間髪入れずに言った。彼女ははっと顔をあげて私を見る。だけど、本当に明日は都合が悪いのだ。それは彼女がいくら懇願したところで、変更できるものではない。というか私にだって無理だ。


「明日は、雨が降るらしいので。私の仕事は雨天中止です」

「……ふふ」


 冗談のような言い回しに目を見開いた彼女だったが、すぐに安心したように笑う。ころころと移り変わるその表情のせいか、あまりにも穏やかな笑顔のせいか、気付けば私もつられて笑っていた。


 何年ぶりにこんな穏やかな気持ちになれただろう。

 そう自問して、すぐに気付いた。きっとこれが初めてだと。


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