誰も叱ったりしないというのに Ⅴ

 失敗した。端的に言うとそう思っていた。包み隠さずに言えば後悔していた。そんな気持ちを表情に滲ませながら、私は幾さんの隣に座ってあやすように広い背中を撫でている。


 彼女が飲まない人なのは知っていた。寄り合いで集まったときも、お茶やジュースを飲んでいたから。騒がしい輪に混ざりたくなくて、あの場では飲まないようにしているのだと思ってた。本人も「私は酒は強い」なんて言うから、それを信じ込んでいた。この人は、なんていうか、本当に自分のことを知らなすぎると思う。


「春は私が殺したようなものだ」

「どうして?」

「私がここで働いているから、妹もじゃあ私もとりあえずと言い出したんだ」

「それは妹さんの判断でしょ」


 幾さんはブランデーの入ったグラスを握って、大きな背中を丸めて項垂れていた。メソメソと今更どうにもならないことを悔いて、自分のせいじゃないことまで抱え込んで震えている。年下の女の子だと思うと可愛げもあるけど、これまでの全てが彼女をそんな風に庇護すべき対象として認識することを拒んでいるようで、私は為す術もなく、毒にも薬にもならないようなどうでもいい言葉をかけることしかできなかった。


「でも」

「失礼でしょ、彼女の決断まで勝手に背負い込んで」


 たまには年上らしく振る舞うべきなのかもしれない。そもそも私はきっと全然頼りないんだから。力仕事では彼女を手助けできないけど、こういうときくらいはせめて背中を預けて貰えるようになりたい。


「悲しい。ただそれだけで、いいんじゃないですか」


 私は、彼女とどうなりたいんだろう。気の合う人を見つけた。ただそれだけだと思っていた。だけど、甘味に狂っていたとはいえ、彼女となら、なんて考えてしまったのだ。

 実を言うとそれを自覚したあの日から、どう接するべきか悩んでいた。食べたいと告げられた意味が知りたくて、酔わせれば口が軽くなるかもしれないと、食後に酒を出してみたらこの様だ。時刻は既に十二時を回っているというのに、彼女はずっとこの調子で管を巻いている。


「自分を責めて辛くなって、それで少しだけ楽になれるの。分かりますよ」


 私達はこうして、結局敬語を交えて会話をする仲でいることを選んだ。この関係を壊そうと思えば、多分いつでも壊せる。だけどそれはそれで勿体無い気がするので、現状維持を望んでいる幾さんの選択を尊重した。

 彼女が着ている半袖のシャツは恐らく配給のものだろう。サイズが合っていないのか少し小さそうだ。首から肩、肩から二の腕と、身体のラインが浮き彫りになっている。贅肉が無く、引き締まって見えるそれ。間違いなく多くの女性が憧れるボディラインだ。見れば見るほど、狡い人だと思う。着飾ることをしなくても映える身体に、美貌までをも持ち合わせていて、自分のそれに気付いていない。私が彼女ならもっとスタイルを見せびらかすような格好をしていただろうに。

 そんな容姿でいながら、私に弱さを曝け出す彼女に、思うところがないと言えば嘘になる。でも、きっと彼女はこれ以上の何かを望んでいない。というよりも、望みたがっていない。食べたいという欲求も、本来の性癖や趣味なんかじゃないんだろうから。


「でもそれって勝手です」


 私はたっぷりと間を空けてから、幾さんの懺悔を切り捨てた。幾さんの顔の下、テーブルの下の液体が彼女の涙なのか、グラスがかいた汗なのかは分からない。後で拭いておいてあげようと考えていると、ある光景がフラッシュバックした。


 思い出さなきゃよかった。栗山さんのことなんて。あの時の光景は、私にとって衝撃だった。女性同士のそれを目の当たりにしたのは生まれて初めてだったから余計に驚いたけど、それだけじゃない。

 栗山さんは桂沢さんの涙を執拗に舐めていた。申し訳ないと思いつつもそういう類の変態なのかと思ったけど、流石に面と向かって確認したりはしていない。どんな顔であの時のことを切り出せばいいのか、分からないし。


 滅多に人前で泣く事のない彼女が、次に私に涙を見せるのはいつだろう。酒を飲ませればそんな機会はすぐに訪れるのかもしれないけど、生憎毎回これに付き合わされるのは少し面倒だ。本当に、幾さんには悪いけど。

 いまチャンスを逃したら……。目の前の光景と、脳裏に焼き付いた栗山さん達の理解不能な営みが交互に私を誘う。少しだけ。本当に、少しだけ。


 私は好奇心に負けて、テーブルに肘を付いて俯く幾さんの頬に手を伸ばした。指先で透明の液体を掬って、ゆっくりと口に運ぶ。


「あっま……え……?」


 頬に触れられたことなど気付かない様子でいる幾さんの横顔と、自分の指先を何度も見る。同時に、私の身体が欲していたものはこれだったんだ、と確信してしまう。

 自分でも不思議だった。止せばいいのに、甘いものを試したがって。その度に前後不覚になって、幾さんに迷惑をかけて。そうして遂に答えを見つけてしまった。


 彼女の涙は、チョコレートなんて比較にならないほど甘かった。昔からの好物だったように、身体はそれを易々と受け入れ、欲している。

 布団まで移動したい。横になって、今日はもうそのまま眠ってしまいたい。足に力を込めようとして、全然力が入らないことに気付いた。


 過去に甘味による症状を体験して、少しだけ耐性ができていたのかもしれない。いきなりこれを経験していたら、きっと私は壊れていた。そんな確信を胸に、半分這うような格好で布団まで向かった。彼女の隣にいたら、もう一度それに手を伸ばしてしまえば、自分がどうなるのか分からない。とにかく離れないと。


「七枝さん、どこいくんですか」


 既に泥酔している幾さんは、別人のような情けない声を上げて私に付いてくる。彼女の酔いが醒めたら今のことを伝えて、二度と「私は酒はそこそこ強い」なんて言わせないつもりだ。

 なんとか布団に潜ることには成功したけど、息つく間もなく、幾さんがくっついてきた。朝になったら絶対に、「泣き上戸の甘えん坊になる」と伝えてあげないと。私は呆れながら、抱きついて離そうとしない幾さんに腕枕をしてあげた。多分、逆なんだけど。ビジュアル的に。


 幾さんは私の首に顔を埋めて、そこを安住の地としたようだ。どうしてよりによって、私の顔の近くに顔を置くのだろう。もう嫌がらせとしか思えない。私が、あなたの涙を口に運んでどうなったと思ってるの。

 顔の横から甘ったるい匂いが漂ってくる。これはおそらく、酒の臭いではなく、彼女の涙から発せられるものだ。涙というか、体臭というか。分からないけど。少し顔を向けると、頭皮からも似たような匂いがする。汗だろうか。

 それを確認すると、私は心の何処かで、強引に桂沢さんを辱めた栗山さんに対する軽蔑のような感情を改めることになった。


「あー……栗山さん、これを……これは、ああなるのも、仕方ないわ……」


 いや、桂沢さんが炭坑作業員だったとは思えないし、幾さんよりも症状が進行しているようには見えなかった。ガスの影響で体液が甘くなるとしたら、おそらく幾さんのそれは桂沢さんのそれよりも甘ったるいんだろう。

 つまり、私は栗山さんより過酷な我慢を強いられていると言える。だけど、幾さんの晩酌に付き合っていたお陰で、かなり眠い。私は眠ることによって、この衝動を回避することを決めると、できる限り彼女から顔を背けて目を瞑った。



 翌日、雨の音で目が覚めた。多分まだ午前中だろう。幾さんの仕事は休みだし、私は夕飯の当番だから慌てることはない。だけど、私の腕の上で目を覚ました彼女はそうもいかなかったようだ。


「私……えっ」

「あぁ、おはようございます」

「あの……え……」

「どうしたんですか」

「昨日、あんまり覚えてなくて。その、七枝さん、無事ですか」

「……さぁ。どうでしょう」


 幾さんが私に問うたのは別の事柄な気がしたけど、わざと意味深に答えてみせた。昨晩の記憶を引っ張り出そうと落ち着かない様子の彼女を見るのは、思っていたよりも面白い。


 無事かって。幾さんの聞きたい意味で言うなら無事だけど、私は無事ではない。

 だって気付いてしまったんだから。

 私達はお互いに喉から手が出るほど欲しい物をぶらさげながら、

 欲求なんて持ち合わせていない顔をして寄り添っているって。

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