誰も叱ったりしないというのに Ⅱ

 幾さんを説得した私は、彼女と自分の気が変わる前に、飴を手に取った。包装を取り払って、丸くてピンク色のそれを口に含む。甘い。やっぱり、甘いものは好きじゃない。そんなことを考えていると、異変はすぐに現れた。

 耳鳴りがして、どんどん視界がぼやけていく。頭の中もふわふわして、何かを考えること自体が億劫になる。


「七枝さん!?」


 いくつかフィルターを通しているような声が遠くに聞こえた。私はその声に懐かしさを覚えたけど、懐かしいと思えるほど旧知の仲ではなかったかも、とすぐに考え直す。

 全てのピントが合ってないような視界には、必死に私の名前を呼ぶ人だけがぼんやりと映っていた。肩を抱いてくれているこの人のことを、私はすごいなって思ってた。幾さん。煙草をくわえて、スコップで土を掘る彼女の姿が、頭の中でやけに鮮明に浮かぶ。


 女の身でありながら男性の仕事を一人前にこなして、しかもったりしない。寡黙で素敵な人。皆は彼女が男性だったらなんて言うけど、彼女はだからこそ素晴らしさが際立つんじゃないかってずっと思ってた。

 だって幾さんが男性だったら、顔が良くて仕事が出来るだけの静かな男じゃない。ううん、それも悪くないけど。でも、ここにだってそんな男は幾らか居る。だけど同じような振る舞いができる女性は、幾さんしか居ない。彼女は唯一無二で、特別。団地にとっても、私にとっても。


 幾さんと過ごす時間が好きだった。彼女は私の知らない夫の話をしてくれるし、彼女自身も誠実な人で信頼できる。私のことを陰で噂したりしない。

 自分が陰で色々言われてるのは知ってた。言われて当然だと思う。夫が亡くなってから、急に着飾るようになった女。こっそりと若い男を連れ込んでいるところを見たとか、色目を使っているとか。俺に気があるなんて言いふらしてる人までいる。

 もちろん全部嘘。美に目覚めたなんて言い方をされているけど、逆。あんまり綺麗にしてると、どこに出かけるだの、誰が来るだの、いらない詮索をされるから。あえて手抜きに見えるようにしていただけだ。はっきり言って、私はこの団地での暮らしが嫌いだった。


 都会の出身だから、なんて鼻にかけるつもりは一切ないけど、ここは人と人の距離が近過ぎる。フレンドリーとか家族のようなとか、そういう言い方もできるのかもしれないけど、図々しくて鬱陶しくて、たまらなかった。

 度を超えたおせっかいは特に嫌いだ。土足で踏み入るような真似を平気でしてくるくせに、こちらが驚いたり拒絶したりすれば、まるで被害者のような顔をして傷付く。周囲に”よかれと思って”と同情を誘うように噂を広げる。みんながみんなそうじゃないけど、ここにはそういう人達が多かった。

 誰となら友達になれそうかなんて、考えるのはやめにした。そしてその判断は正しかった。私もまさか、ここでこんな事故が起こるとは思ってなかったけど。


 めんどくさい。私がこの団地の生活を一言で言い表せと言われたらそう言う。

 だから、この件については夫の死とか、そういったものは一切関係が無い。夫があの日非番で生きていたって、私はこうしてた。

 もうどうせ死ぬのだから。あんなつまらない人達の視線を気にして、自分を偽り続けるのはやめよう。そう思っただけだ。


 別に、孤立してもいいと思った。私が作業をこなせる以上は当番には呼ばれるだろうし、当番に呼ばれさえすれば、義務を果たしている者としてリターンが望める。心の行き来なんて今更どうだっていい。労力や物品で利害が一致するなら。

 久々にセットする髪も、選ぶ服も、つけるアクセサリーも香水も何もかも。全てが楽しかった。遅ればせながら、やっと自分の為に生きられるようになったんだと思うと嬉しかった。


 我ながら、見る目があると思う。幾さんは面白がって人の悪口を言うような人じゃないし、秘密を言いふらすような人でもない。夫もそうだった。私はどうやら、少し不器用で心根の優しい人に弱いらしい。


「……幾、さん?」

「良かった……大丈夫ですか?」

「はい」


 ただ思考に耽っているだけのつもりだったけど、実際はそうじゃなかったみたい。上から私の顔を覗き込む幾さんの表情と、いつの間にか布団で横になっている自分の体勢からすぐに察した。


「私、なにを?」

「飴を舐めたと思ったら、少しして倒れちゃって。慌てて布団に寝かせたんです」


 倒れた。幾さんはそう言った。私は椅子に座っていたのに。崩れ落ちるように脱力でもしたのだろうか。

 痛むところはないことから、幾さんが寸でのところで私を保護してくれたのだと思うことにした。


「あれ、私、まだ舐めてる」

「そうなんですよ。取ろうとしても、全然口を開けてくれなくて。そうこうしてる間に、七枝さんが目覚めて……とにかく、本当に良かった」

「ごめんなさい……私、また幾さんに迷惑をかけて」

「七枝さん軽いので、これくらいどうってことないですよ。……本当に、目を覚ましてよかった」


 飴が歯に当たる音が頭の中で響く。微睡むような心地は抜けないままで、このまま眠れたら、きっと幸せだと思う。強烈な違和感さえなければ、私はきっと幾さんを抱き枕にして寝ていた。


「美味しいですか?」

「……吐きそう」

「まだ美味しく思えないってことは、七枝さんはしばらくは」

「違うんです。美味しくて。それが気持ち悪くて。吐きそう」


 私の舌は小さくなった飴を転がすのに忙しい。せわしなく動く舌が気持ち悪くて、自分の理性が何かに負けているようでムカムカする。


「幾さんみたいにね。”好きじゃない”なんてものじゃないんです。父がね。子供にはお菓子を与えとけば喜ぶだろって適当な人でね。年に数回しか帰ってこなくて。いつも甘いものをお土産に買って帰ってきて……」


 今ならわかる。彼もまた、家庭を維持するのに必死だったんだろうって。自分の子供の気を手軽に引けそうな何かに縋ろうとしたのかもしれないって。

 だけど、幼い私にはそれを理解できなかったし、理解できるようになってからも、苦手意識は拭えないままだった。


「それでね、甘いものが、全部、嫌いになっちゃって。嫌だったの」


 考えが上手くまとまらない。上手く話せてない気がするけど、溢れる記憶や感情を理路整然と誰かに伝えることは、今の私にはかなり難しい。ただ、そもそも人にするような話ではなかったのかもしれない、という気は、少しする。


「ご、ごめんなさい、こんな話」

「いえ、話して」


 幾さんは、そっと私の手を握った。飴を舐めた影響か、視力が落ちたみたいに視界は悪いし、声もあんまり聞こえないけど。多分、私の顔の横で胡座でもかいてるんだと思う。


「それに、敬語を使わない方がいいなら、そうしてくれていい」

「幾さん……」

「私もそうする。慣れないけど」

「甘い匂いを嗅ぐと、それだけで嫌な気持ちになった。父が近くにいるみたいで……なんで気付かなかったんだろう。最近、甘ったるい匂いのこと、全然疎ましく思わなかった」

「七枝さんの症状が悪化すると、今度は疎ましく思わないどころか、美味しそうに感じるんだろうな」

「えぇ。はー……」


 美味しくて、気持ち悪い。頭がおかしくなりそう。忌々しい記憶を塗り潰すように、襲ってくる感覚。甘味を求める暴力的な衝動と言い換えてもいい。

 体を作り変えられてしまったみたいで、気持ち悪いのに。どうやったって、舌の上で飴を転がすことを止められない。


「幾さん」


 私は枕に頭を付けたまま、天井に手を伸ばす。何かと気にしてくれた幾さんの顔が近付いてきたから、首に腕を回して抱き寄せた。

 彼女はされるがままで、私に覆い被さって上擦った声を上げている。幾さんも人並みに動揺したりするらしい。考えてみれば当たり前だけど。新鮮な反応を目の当たりにすると、もう少しだけ困らせてみたくなった。


「……七枝さん、苦し」


 幾さんの重みが苦しくて心地いい。彼女の呼吸を左に聞きながら、私は目の前にある耳に囁いた。七枝って呼んで、って。

 その夜、私は幾さんを差し置いて、彼女の布団の真ん中で眠りに就いた。


 あんまりたくさんのことは覚えていない。

 分かるのはただ一つだけ。

 幾さんは私を呼び捨てでは呼んでくれなかった。

 それだけ。

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