君が嘘をつくというのなら Ⅴ

 あたしはキッチンで静かに笑っていた。千歳は商店街にいるから、この笑い声は誰にも届かない。

 栗山がここ数日姿を見せないからって、鍵を預かった千歳が代理で店を開けて、物資の仕分けを手伝ったりしている。千歳は本当に偉いと思う。三國の影に怯えながら、崩壊寸前のこの団地を、必死で保とうとしている。

 あたしは千歳みたいに偉くはなれない。どう考えても報われないことを頑張れるような余裕は無いから。もう無いのか、今は無いのか、分からないけど。多分もう無い。他人のことなんて、きっと死ぬまでどうでもいい。


 ぶっ壊れていくだけなんだよ。もう。何をやっても。あたしはそれを痛感していた。いや、この言い方は皮肉が効き過ぎか。

 なんてったって、痛覚が無くなってるんだから。全く無いとは言わないけど。何も感じない訳じゃない。ただ、あたしの身体はちょっと馬鹿になっていて、痛いのと気持ちいいのの区別が付かなくなってるみたいだ。


「やっば……こんなの、笑うしかないじゃん」


 だから笑ってた。

 自傷行為をするような人間はいくらでもいるだろうけど、それで直接的な快感を得ているのはあたしくらいだろう。もしくは重度の変態。いや、重度の変態だって始めに感じるのは痛みであるはずだ。そいつらはヤバいから痛いのが気持ちいいってだけで、あたしみたいに気持ちいいから気持ちいいんじゃない。


「……っはぁー」


 あたしは切ったばかりの手のひらの傷を、そこから湧き出る自分の血を見つめる。今すぐにでもこの信じられない事態に崩れ落ちたいところだけど、そうすると大量の血で床が汚れるので我慢してる。

 手のひらから響いてくる、少し乱暴な痺れは痛みなんかじゃない。確実に。口を開けて上を向く。鼻の前で傷口を傾けると、温い液体があたしの口の中にだらだらと落ちてくる。逸れた血液が頬や顎に付いても気にしない。

 ちょっと前は一滴たりとも無駄にしたくないって考えてたと思うけど、今のあたしは違う。好きなようにそれを味わえばいいし、足りないならまた肌を傷付ければいいって思ってる。

 血痕なんて残したら絶対に面倒なのに。だけど一人でシてるときのあたしにはその程度の判断力も残ってない。っていうか、まともでいられるならそもそもこんなことしてないし。


 舌の上で自らの血液を転がして飲み込む。くちゃくちゃとわざとらしい音を立てているのは多分、千歳がいないからだ。一種の解放感みたいなものがこんな要らない音を立てさせてる。

 手からこぼれた血液が肘の方へと伝う。床に落ちる前に、舌先で触れて口内に導く。服に血液が付くと面倒なので、自傷行為に耽るときはいつも上はブラしか身につけてない。最近痩せたのか、ブラの中に収まってる胸が減った気がする。まぁまともに食事もしないでこんな風に遊んでる奴が太れるワケないんだけど。

 舌先が垂れた血液を辿れるように腕を動かす。なんでこんなに美味しくて気持ちいいのか分かんないって思ってたけど、こないだ分かったんだよ。あたしら、多分寿命とか人生を引き換えにこれを貪ってるんだ。そりゃ気持ちいいはずだよね。これくらいじゃないとわりに合わない。


 あたしの唇が傷口に直接触れる。壊れてしまった痛みに、身体はまだ慣れていない。ゆっくり身体を慣らさないといけないような気はしてたし、分かってたんだけど。あたしは迷うことすら出来ずに、斬り裂いたばかりの傷口に舌を這わせた。何度も重ねるようにして切られたそこ。でこぼこしてて、全然綺麗じゃない。もし外に出られる希望が少しでもあるなら、こんなんじゃお嫁に行けないなんて騒ぎ立ててたかも。だけど、もうそれでも良かった。

 舌先が傷口を抉るように動いて、赤いのを催促する。これが千歳のあそこだったらいいのに。あたしの血なんかよりも、ずっと甘くて美味しいんだろうな。最近、あたしは自分のこういう妄想を、気持ち悪いと思わなくなってきた。だってキリがないし。四六時中自己嫌悪してるのはさすがにしんどい。


 ***


 目が覚めると空は赤く染まっていた。キッチンから窓の外は見えないけど、差し込む日差しが大体の時間を告げている。食卓テーブルの脚に捕まったりして、ふらふらの身体でなんとか立ち上がる。目眩と頭痛のような何かに額を押さえる姿は二日酔いみたいだ。

 千歳の部屋まで歩いていって時計を見ると、既に五時だった。時計を見たら一気に眠気がすっ飛んだ。仕分け当番は大体三時で終わる。鍵を持っている千歳が栗山の代わりに少しの間店番をさせられていたとしても、作業終了からもう二時間になる。いつ帰ってきてもおかしくない。適当に着れるようなものはないか、辺りを見渡しながら、手元を見ずに包帯を巻いていく。

 包帯をテープで止めると、近くにあった衣類を手に取る。昨日千歳が脱ぎ散らかしていた作業着だ。脱ぎ散らかしたっていうか、あとで洗濯するって言ってそのままになってたんだけど。包帯が外れないように気を付けて袖を通した。

 その場しのぎのためにとりあえず羽織ったけど、ダメだこれ。千歳の匂いがして、なんか変な気を起こしそうになる。早く着替えなきゃ。キッチンの椅子の上、鞄に入ったまま置きっぱなしになっていた自分の衣類を物色しようと脚を向けると、そこに千歳が帰ってきた。


「ただいまー……?」

「……おかえり」


 マジで最悪だ。死にたい。あたしが千歳の立場だったら。一緒に暮らしてる友達が前日自分が脱ぎ散らかした服を羽織ってたら。絶対引く。なんだコイツってなる。しかも、いっぱい汗かいたとか、そんな話してたのに。ド変態だって思う。

 千歳の匂いでくらくらするし恥ずかしいしで、頭が回らなくなってきた。言い訳するのも億劫で、あたしは覚束ない足取りでベッドまで歩いてった。そんで寝た。

 身体を横たえて、話しかけないでくれってアピールするように目を閉じた。ついさっきまでオナってトんでたんだから、全然眠くないんだけど。


「ゆ、由仁……?」


 具合が悪いとでも思われてるのかもしれない。ただの誤解、というか勘違いさせるような態度のあたしが悪いのに。元気だから安心してね、なんて言うのも白々しい気がして、結局千歳に背を向けて、眉間に皺を寄せることしかできなかった。


 千歳はしばらく私の名前を呼んだり、夕飯どうするなんて言ってたけど、反応がないことを確認するとやっと黙った。

 色々話し掛けられたのに、千歳の服を着てることに触れられないのが逆に辛い。気を遣われてるのをひしひしと感じて、いたたまれなくなる。そんな最中でも、身に纏う作業着からは甘ったるい匂いがあたしの内臓をくすぐるみたいに煽ってくる。じっとしていることすらしんどいし、瞼を動かすことすら億劫だ。


 あたしの肩に手を置いたまま、千歳はぽつりと呟いた。久方ぶりに聞いた気がする声。たった今まで続いていた沈黙が、一分にも一時間にも思えるような。不思議な感覚だ。もしかすると一瞬、本当に寝てたのかも。


「ねぇ、由仁。ここ。ずっと包帯してるよね」


 千歳は横を向いて寝ていたあたしの左手を取って言った。さっきすごく適当に包帯を巻き直したから、やらかしてる気しかしない。そういう意味でもそこには触らないで欲しかった。ちゃんと巻けているのか、いや、感触的には大分緩い気がする。でも目を開けて確認することもしたくない。

 千歳はしっかりとあたしの手首を掴んでいて、離す様子はなかった。あたしの言葉を待っている。それを察すると、あたしは観念して口を開いた。


「傷の治りが遅いんだよ」

「嘘だ」


 やけに強い口調で否定されて、咄嗟に振り返ってしまった。あたしが狸寝入りしていたことなんてお見通しで、そんなことは今はどうだっていいとでも言うように、その表情は淡々としている。

 沈黙に耐えきれなくなったあたしは千歳の名前をそっと零した。別に、返事をして欲しかったわけじゃない。ただ、殴られたら声が出るみたいに、この状況で身体が反射的にその名前を口にしただけだ。


「最近ね。妙に、由仁が色っぽいなぁって思う日が増えて」


 唐突に告げられた内容に心臓が高鳴って、絡められた指に肝が冷えた。何をしようとしているの。何が言いたいの。頭の中でそんな問いが駆け巡って、だけど息を飲むことしかできない。


「おかしいよね。だって私達、女同士なのに」


 千歳はあたしが死にそうになっているのを涼しい顔で見下ろして、まだまだ喋る。いつもと違う。いや、様子がおかしいというより、あたしが見た事のない一面を見せられている。そんな風に感じた。


「私、人にそういう目で見られるの嫌いなくせに、自分は由仁にって」


 言い淀んで、千歳は目を伏せる。罪悪感が作り出すその物憂げな表情が別人みたいに見えてはっとした。千歳の言葉があたしを頭を殴るように激しく揺さぶってくる。この子は、何を言おうとしてるんだ。

 聞きたい、けど。これを言わせたらきっと駄目だ。あたしはそれを聞いたら、流されてしまう。止めなきゃ。なんて言えばいいのか思い付かなかったけど、それでも声を発しようとした。

 あたしの手を握る千歳の手に力が込められて、間接的に圧迫された手の平に甘い痛みが走る。痛みっていうか、気持ち良いだけなんだけど。


「ある時はそう思ってたのも気の迷いだったかなって思えて。だけど由仁に触れたくて、頭がおかしくなりそうな時もあった」


 あたしに愛撫しながら千歳がこんなことを言う日が来るなんて、思ってもみなかった。まぁ、本人にはそんなつもりはないんだろうけど。ここ最近ずっと妄想していた内容が現実になりそうな予感に、あたしは声を奪われていた。


「ずっとね、これは私の葛藤だって思ってた。私の心が何かに優先順位を決めようとしていて、どっち付かずで適当だった私に、やっとそういった意志というか、強い感情が芽生えたのかなって。まぁそれが性欲ってちょっと恥ずかしいんだけどさ。でもそこまで悪い気はしなかったっていうか」


 目が合って呼吸が止まる。千歳の眼は昏くてあたしを責めるみたいで、理由を探すようにその眼を見つめ返してみたけど、何も分からない。

 ふいに千歳は力なく笑って、それはゆっくりになって、急に止まった。


「でもね、違うの。ぜぇんぶこれが。私を振り回してただけ」


 千歳はあたしの左手首を掴んで、患部である手のひらを、親指でぐりぐりと押した。本来痛みである甘い衝動に、身体が強張って思わず声が出る。


「多分、私の体は、由仁の体液を求めてる、ただそれだけだったんだ」


 あたしの身体が痛みを認識出来なくなりつつあることを、千歳は知らない。つまり彼女はあたしに意図的に痛いことをしてる、ということになる。実際に痛みを感じることはなくても、それが悲しかった。

 本来、千歳は誰かに八つ当たりをするような奴じゃない。自分を狂わせた罪を糾弾しているつもりなんだろうか。それとも、分かっていてもコントロールできないのだろうか。後者ならいい、それなら千歳はきっと、後でごめんって言ってくれる。


「こないだ、部屋に三國さんが来たとき。これでもかってくらい泣いて。それで気付いた。自分の涙、なんか甘いなって」

「……そう」


 そうか。千歳は、知ってしまったんだ。明日、あたしらはどんな顔をして朝を迎えるんだろう。二人の体臭がすっかり馴染んだこの布団の中で、目覚めた時に何を考えるんだろう。


「したっけ、全部わかった。由仁にくらくらしてると思い込んでたけど、そうじゃなくて。その包帯の下に傷が増えた時。由仁の血に、私の身体が反応してただけ」


 苦しそうにしている千歳に声を掛けることすらできない。あたしがこの子を追い詰めたんだ。千歳が血の匂いに無関心でいれる保証なんてどこにもなかったのに。その可能性に気付かずに、自分を慰める度に千歳を苦しめてた。あたしはバカだ。


「ごめん、あたし」

「もういいよ」


 千歳は包帯を解いた。やや性急に感じるその仕草に悪い予感がしたあたしは、慌ててその手を払い除けようとしたけど、もう遅かった。千歳はあたしの掌を横断するように付いた傷口に、そっと唇を落とした。


「ち、千歳! やめて!」

「切ったばっかでしょ。わかるよ」


 熱く滑った舌が、あたしの傷口に無遠慮に入り込んでくる。強い刺激に、あたしは千歳の頭を掴んで、押し除けようとしながら言った。だけど、上手く力が入らない。


「ねぇ、千歳はさ、千歳は違うじゃん。もっとしっかりしてて、あたしなんかより頑固で、ガスに負けたりしなくて、そんで」

「負けたんだよ」


 遮る言葉はあたしを静かに絶望させた。ゆっくりとこちらを見上げる千歳。聞こえた言葉を認められなかったあたしは、泣きそうになりながら聞き返した。

 千歳があっさりと降伏しちゃったら、あたしは、今まで、一体何の為に。


「負けたの、分かるしょ。だからこうしてる」


 千歳は、正しく有ろうとすることを止めた。そんな風に感じた。自分が向けられたくないという感情をあたしに平然とぶつけたり。そういう理不尽を厭わなくなった。まるで大人みたいだ。


「最近、ずっと栗山さんの代わりしてたの。別に正義感からとか、鍵を預かった義務感からじゃないよ。はっきり言って、由仁から離れる為の口実だった」


 あたしの中の千歳は、優しくて、責任感がある女の子だった。でも、本当は千歳なりに事情があって、そうせざるを得なかっただけで、その原因を作っていたのは他でもないあたしで……。


「だって、最近ずっと美味しそうな匂いさせてんだもん。一日中一緒にいたら、壊れちゃうよ」


 ずっと千歳とエッチしたいなんて浮かれたことを考えていたあたしだけど、血を舐めて恍惚とした表情を浮かべる彼女を見て強く思った。そんなこと、絶対にしちゃダメだって。

 栗山と三笠さん、あの二人が辿らなかった道を、あたしは千歳と探したい。あたしらなりの正解を。


「千歳、あたし」

「……何?」

「ぶっちゃっけ、千歳と、エッチしたいって、最近ずっと思ってた」

「……そっか」

「でも、今ので分かった。それじゃダメだ。あたしらがそれ以外のことを考えられなくなる前に、ちゃんと終わらせたい」

「由仁は、私とするの、嫌になったの?」

「……あのさぁ」


 千歳は、本当に馬鹿だ。したくないなんて言ってないし、したくないなんて言ってないなんてあたしは言いたくない。不機嫌そうに眉を顰めたあたしを見ると、千歳はすぐに「あぁ、いや」なんて言って言い訳を探し始めた。


 あたしが言いたかったのは、他人の体液のことしか考えられないゾンビになっちゃう前に、月形千歳と歌神由仁として死にたいって。それだけのことなんだけど。


「その気になった千歳には悪いけど、これで我慢して」


 千歳の作業着の襟を掴んで強引に引き寄せると、触れるだけのキスをした。目の前にある瞳が何度か瞬いて、それからばっと離れて千歳は膝を抱えた。顔は見えないけど、耳が赤いから、表情はなんとなく察せる。手のひら舐める方が恥ずかしいと思うんだけど。変なの。


「千歳。探そうよ。そんで、一緒に終わろう」

「……分かった」


 死に方を探すなんて聞いたら普通の人はびっくりするだろうけど、あたしらは死が確実に迫っている中でそれを探すんだ。それはつまり、生き方を探すと言い換えることもできると思う。

 三笠さんと栗山が辿るであろう結末を、あたしは馬鹿にしたりしない。だけど、悪いけど、あたしはそうはなりたくない。もっと何かをやらかしてから死にたいんだ。子供っぽいと思われるかもしれないけど、まぁあの二人よりは子供だしね。


「一緒に終わろうって、プロポーズみたいだね」

「別に、それでもいいよ」


 こうして、あたし達は馬鹿みたいな理由で繋がって、

 嘘みたいに離れられなくなった。

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