夜と煙とベルベット Ⅳ

 私は腰の上に彼女を座らせたまま、その身体を抱き寄せて首元に顔を埋めていた。甘い匂いがする。首筋に噛み付きたくなる衝動を宥め賺して細く息を吐く。くすぐったそうに身を捩る七枝さんを逃がすまいと腕に力を込めると、華奢な身体が私を受け入れるように少し軋んだ。こんなに優しい身体で全てを拒まない七枝さんと、全てをぶつけようとしてる私がいて。他には、誰も居ない。

 幾さんの我が侭ならなんでも叶えてあげられる気がする、と。七枝さんはそう言った。私は、もう末期だ。それくらい自分でも分かる。だけど、そんな状態でこれまで踏ん張ってきたという自負もある。一人でここまで持ち堪えることはできなかっただろう。心の中には常に春の存在があった。そして側には七枝さんが居た。だから成し得た。ようやく思うままに振る舞おうとする自分を許せそうだ。

 命が潰えようとしている時に、余計な問答は無用だ。私に残された時間ほどではないが、きっと七枝さんの時間だって、そう長くはないのだから。だから端的に述べた。私の望みを。


「私は、あなたと一緒に居たい。あなたの体液が、血が欲しいし、出来ることなら私よりも後に死んで欲しい。そして何より、あなたに幸せになってもらいたい」


 言ってることは滅茶苦茶だが、口にしてみると少しだけ楽になれた気がした。何一つ嘘を言わなかったからだと気付いたのは、一呼吸置いてからだった。彼女に体調を気遣われていることを察してからは、気丈に振る舞っていたから。ずっと小さな嘘を吐いていたんだと、今更になって思い知った。

 もうダメだ、でも側に居たい。ついでに汚い欲望もまとめて吐き出して、やっと彼女と対等になれた気さえした。

 私の望みを解決する方法が頭にあった訳じゃない。それはきっと彼女が考えてくれる。少なくとも彼女はそのつもりだろう。そうじゃないと、我が侭を受け入れるだなんて、易々と言えない筈だ。浅慮な女性ではないことを、私は誰よりも深く知っている。思い知っていると言ってもいいくらいに。


「やっと言ってくれた」

「……こんなこと、普通は恥ずかしくて言えない」


 もう仕事に行くなんて言わないでしょ。そう言って彼女は私の上から降りた。その足取りが覚束ないことを私は見逃さなかった。

 布団に戻るように促され、みっともなく這って動き出す。やっと自分の布団の上まで戻って視線を落とすと、枕元に果物ナイフが転がっていることに気付いてぎょっとした。私が持っていたのだろうか。


「いや……」


 不意に、こいつを蹴り飛ばした記憶が舞い戻ってくる。そうだ、あの時確かに遠ざけた筈なのに。どうして。硬直している私の背中に、七枝さんは淡々と語りかける。それは私が拾ってきたの、と。


「なっ」

「でも、そのあとすぐに幾さんは寝ちゃって、使わなかったけど」


 ゆっくりと凶器に手を伸ばしながら、私は確信した。きっと、七枝さんは、昨日終わってもいいと思っていた。そうじゃないと、自我を失くした人間に刃物を持たせようとなんてしない。断片的に頭を過る記憶の中でも、私は彼女に酷いことを繰り返していた。

 彼女の体の状態なんか、一切気遣っていなかった。好きなように傷付けて、思うままに貪った。数時間前の自分が情けなくて恨めしくて、羨ましくて殺してやりたくなる。


 その怒りを小さな凶器にぶつけるように、私は掴んだナイフを遠くに放った。壁に刺さったのを見て、大家が居たら大目玉だな、なんて有りもしないことを考える。

 だけど、私を叱りつける人間は存在した。


「……何してるんですか」

「要らないでしょう。あんなもの」

「昨日泣きながら私を傷付けた人が、道具も無しにどうするつもりですか」


 布団の上で体勢を落ち着けながら、真剣な顔でこちらを睨み付ける七枝さんの声に応じる。緩慢な動作でなんとか胡座をかくと、すぐ隣で正座していた彼女の背に腕を回して、少し強引に抱き寄せた。


「今更後悔なんて、しないで下さいよ」


 私を焚き付けたのは間違いなく彼女だ。彼女をそうさせたのは私だが。

 無骨な右手が七枝さんの耳のすぐ横を通り過ぎて、綺麗な黒髪を梳く。頭を手前に引き寄せると、私はその首元に顔を埋めた。


「後悔させるくらい、本気で求めてみてよ」


 彼女は私を煽ると小さく笑った。これから行われる全ての行為が許されている。それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。

 こちらが何を求めているのか、彼女には手に取るように分かるらしい。私の頭を逃さないように抱くと、耳元で早くと囁く。そうして惚けた私を弄ぶように、ゆっくりと自身のシャツのボタンを外した。


「全部脱いだ方がいい?」

「……いえ」


 徐に彼女のシャツの襟を掴んで少し下ろす。そうして素肌を露にさせると、薄い肩に歯を立てた。痛みに耐える吐息を聞きながら、角度を変えて何度か噛んでいると、彼女は私の耳の外郭をなぞるように撫でた。それが引き金だった。

 柔肌に歯が食い込んでいくのが分かる。それでも私は顎に込める力を抜かなかった。むしろ、足りないと言うように強く、強く噛んだ。彼女の骨が軋んで、肌と肉を挟んで歯と骨がぶつかり合う。

 堪えきれなくなった七枝さんの声が静かな部屋に響いた。それでも彼女は私を遠ざけようとはしない。ただ細い腕を回して、痛みに耐えるように私の身体を抱くだけだ。


 普段の私なら、こんなことは絶対に出来なかった。無意識の内にセーブされて然るべき力だ。それをしないと死ぬと言われても、なかなか到達できない領域だろう。つまり、今の私には歯止めになる理性がカケラも残っていないということになる。

 苦痛に喘ぐ声に申し訳なく思いつつも止まれない。遂に私の歯が彼女の肌を貫き、犬歯がじわじわと埋まっていく。口を離すと、そこから止め処なく血が溢れた。

 渇望していた赤い体液を口に含んだせいか、七枝さんの乱れた吐息が掠めたせいか、途端に耳が熱くなった気がした。

 血液が私の口の中に広がると、何よりも先に頭が痺れた。その衝撃に耐えると、少し冷静さを取り戻した頭がやっとそれを甘いんだと認識する。


 彼女の体液は私を内側から壊していく。分かっていても、飢えを満たすのと同意義と化してしまった行為は止まらない。この世に存在するどんな行為よりも深い快楽を齎すそれを何度か繰り返すと、顎を持ち上げられた。

 彼女の口が近付いてきたけど、抵抗は無かった。これを独り占めするのは流石に強欲が過ぎるというものだろう。私は彼女を受け入れると深い口付けを交わした。


「幾さん、案外慣れてるんですね」

「気のせいですよ」


 口を離して睦言を交わすと、また貪り合うように舌を絡める。いつの間にか私の上に乗っていた彼女に覆い被さるように押し倒すと、今度は首に噛み付いた。

 肩と同じように首を傷付けてしまえば取り返しのつかないことになるかもしれない。そんなこと、馬鹿な私にも分かる。しかし、ここで辞めても幸せを感じる人間は、きっと一人も居ないのだ。

 七枝さんの首を噛んだまま肩を掴むと、滑った血液が私の手のひらに纏わりついた。舌で触れるだけで身体が反応していた患部をぞんざいに扱われ、彼女の意思とは関係なく身体は反応する。それがほんの些末な事のように感じる自分を恐ろしく思いながらも、彼女の体を布団に押し付けて逃げ場を奪った。

 まるで吸血鬼だと思った。当然そんなものはこの世に存在しない。存在するのはガスに狂わされた人間だけだ。そしてもうじき、それも存在しなくなる。そこに生きたという痕跡をありありと残したまま死んでいく。私も七枝さんも。


 彼女の肌を貫くと共に、肉を食むような奇妙な感触が口内に広がる。口を離して見ると、肩とは比べ物にならない量の血液が流れ出て、寝具を染めていた。申し訳ないとはもう思わない。ただもったいないと思った。口の周りを赤茶けさせて醜く貪るそれは、彼女の命そのものだ。

 体から湧き起こる衝動の前では何もかもがくだらなく映った。自分はもちろん、私の為にその身を捧げようとする彼女すらも。呼吸を乱して、極上の甘味を口に含んではまた次を欲しがる。手に付いた彼女の血を舐めながら、ゆっくりと七枝さんを見下ろすと、もうじき全てが終わってしまうことを理解した。


「私……まだ、後悔してません、よ……」


 馬鹿な人だ。私も、貴女も。

 私が真っ赤に染まった首を一瞥すると、

 七枝さんは差し出すように噛み跡をこちらに向ける。


 それを固辞するように彼女の顎を掴んだ。

 そして、触れるだけのキスをする。

 この瞬間、私はを裏切ったんだと自覚した。

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