おまけ

第35話 あなたのハッピーな結婚を祝福します(ヒルダ視点)

 ヒルダは両目をぱっちりと開けた。


 深い眠りに落ちる前に、傍からユディトの気配が消えた。ユディトが部屋を出ていったのだ。


 部屋にひとりになってしまった。これでは熟睡できない。


 あの事件以来ヒルダはひとりで眠るのが恐ろしくなっていた。

 ここは宮殿の中で、安全で、安心で、心配することは何もない。頭ではそうと分かっているのに、ふとした瞬間に足元の床が消えるような不安を覚える。


 その不安をユディトが掻き消してくれる。


 ユディトはいつでもヒルダを力強く抱き締めてくれるし、いつまでも根気強く待っていてくれる。自分でも幼く馬鹿馬鹿しいと思ったひとりで寝るのが恐ろしいという訴えを笑わずに聞いてくれて、完全に眠りにつくまで毎晩寄り添ってくれている。


 彼女を永遠に束縛できるわけではない。ヒルダが望めばそうできるのかもしれなかったが、自分がまとわりつくことで彼女の幸福な人生を台無しにしたくなかった。


 そうはいっても、そもそも幸福な人生とは何だろう。


 ヒルダはついロマンチックな生活を夢見て彼女に婚約を押し付けてしまったが、それすら別の形での束縛ではないかと思えてきて時々怖い。彼女は自分の結婚を夜ここでヒルダと過ごすのと同じに考えていやしないか。


 ベッドから起き上がった。


 もう婚約は取り消せないだろう。彼女の意思は固い。結婚すると言ったら結婚するはずだ。


 せめて少しでも独身生活を楽しんでほしい。


 今夜で終わりにしようとヒルダは思った。ユディトに、もう来なくてもいいと、ひとりでも大丈夫だと、心配しないでほしいと言おうと思った。


 彼女の背中を追い掛けて部屋から出た。


 廊下に出ると、向かって右の奥へ歩いていくユディトの姿が見えた。

 誰かと一緒だ。

 背の高い、筋肉質の男性だった。見覚えのある背中だ。


 アルヴィンだ。


 ヒルダは舌打ちした。


 アルヴィンは婚約者であるのをいいことにユディトを困らせていないだろうか。

 ユディトは単独行動を好むタイプではないが、それにしてもべったり張り付いている気がする。

 彼女がもっと気楽に過ごせるよう、彼女の主君であり彼の妹である自分が毅然とした態度で臨まなければならない。


 後ろをついて歩く。注意深くタイミングを窺う。


 どうやらほとんどアルヴィンがひとりで喋り続けているようだ。アルヴィンひとりが楽しそうにユディトに話し掛けている。彼女はおしゃべりが得意ではない。これはきっと彼女を困らせている。


 アルヴィンが時々隣のユディトの方を向く。ユディトは無反応で歩き続けている。


 一見したところ、仲が良さそうには思えなかったが――


 王族の居住空間を抜けて中庭に出た。


 今日も月が輝いていて明るい。アルヴィンとユディトの後ろ姿がはっきりと見える。


 アルヴィンが噴水の前で立ち止まると、ようやくユディトも立ち止まり、アルヴィンの方を向いた。


 次の時だ。

 ヒルダは目を丸くした。


 ユディトがアルヴィンに向かって左手を伸ばした。


 アルヴィンもユディトに向かって右手を伸ばした。


 二人の手が重なり合う。


 指と指とを組み合わせる。

 つなぎ合わせる。

 絡ませる。

 手の平と手の平が触れ合う。


 二人はただ、手を重ねた。


 たったそれだけのことなのに、不思議な光景だった。月明かりに照らされて二人きり、と思うと、艶やかで、かつ神秘的だ。


 けして離れまいとするかのように。

 まるで世界の何者も二人を引き離すことなどできないかのように。


 一歩分の距離を開けていたのが、ほんの少しずつ近づき合う。


 アルヴィンが何かを語り掛けた。その表情は穏やかで、目を細めてユディトを見つめる紫の瞳の様子まで優しそうに見えた。

 あんな表情は妹のヒルダには見せたことがない。


 今度こそ、ユディトが何かを答えた。


 思わず息を吐いた。


 ユディトの表情も優しかった。頬から力が抜け、わずかに唇の端を持ち上げて、かすかな笑みを浮かべていた。

 こんなユディトの表情も、ヒルダにとっては初めて見るものだった。彼女はもともと愛想のない方だと思っていたが、もしかしたら騎士としての職務についている間は多少緊張しているのかもしれない。それくらい、今の彼女の表情は寛いでいる。


 声を掛けるのはやめよう、と思った。


 二人とも、二人でいることで、安らいでいる。きっと強固な信頼関係があって、そこにヒルダが口を差し挟む余地などない。

 ヒルダの知らない二人がいる。二人だけの関係で、二人だけの空間で、すでに完成された世界がある。


 心配することは何もなかった。


 二人ともあんな優しい顔をしているのに、引き裂いてはいけない。


 二人はすぐ手を離し、また、距離を置いた。

 ほんのわずかな時間のことだった。


 ユディトは騎士団の宿舎へ、アルヴィンは宮殿の寝室へ戻るのだろう。


 ちょっとおかしかった。二人とも真面目なので、結婚するまで不埒なことはするなとヒルダが怒ったのを真剣に捉えていて、夜に二人きりで過ごすことを遠慮しているに違いない。


 無理に押し付けた婚約だと思っていたが、二人にとってはいい結果になったようだ。


 おそらく、その信頼関係を、ひとは愛と呼ぶのだろう。


 ヒルダも無言で立ち去ろうとした。


 ところが、だった。


「ヒルダ様?」


 踵を返したところで名前を呼ばれた。


 背中を震え上がらせながら振り向いた。

 アルヴィンとユディトがこちらを見ていた。


 失敗した、と思った。もっと早くこの場から立ち去っておくべきだった。見とれて眺めているうちに、野生の獣のように敏感なユディトがヒルダの気配を察してしまったのだ。


「ごめんなさい。盗み見するつもりはなかったのです」


 慌てて答えた。

 それを聞いた瞬間、月夜の中でも分かるくらい、ユディトの顔色が変わった。きっと赤く染まっている。


「ご覧になっていたのか」


 その反応を見てヒルダは心から申し訳なくなった。二人だけの世界を覗き見てしまった罪悪感で胸がいっぱいになった。


 アルヴィンだけに許された、普段は見られないユディトの特別な姿を見てしまった。


 ユディトの隣でアルヴィンが笑った。


「何にもしていないだろう。ヒルダが妄想しているような変なことなんて何にもないぞ」

「まあ、失礼な! わたくし変なことなど妄想していませんわよ!」


 うつむき、唇を尖らせる。


「アルヴィン兄様がユディトを困らせていてはいけないと思ったのです」


 するとユディトが答えた。


「困ってはいません」


 ヒルダまで頬が熱くなってきた。


「ヒルダ様。ユディトは、何も、後ろめたいことはしておりません」


 次の言葉に悩んだ。感動で喉の奥が詰まったのだ。

 あのユディトがこの状況を受け入れている。

 きっとこれが幸せというものなのだ。


 二人がこのままずっと幸せでいられますように。


 今夜は心安らかに眠れる気がした。もしかしたら明日も明後日ももうひとりで眠れるようになっているのかもしれない。

 ヒルダはもう何も怖くない。

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男装の女騎士は職務を全うしたい! 俺様王子とおてんば令嬢の訳アリ婚【旧題:子作りも職務に含まれますかっ!?〜男装の騎士と訳アリ王子のハッピーな結婚〜】 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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