第19話 ヒルデガルト王女拉致事件 2
床の上に投げ出されたが、ヒルダは声を上げることもできなかった。痛いと言うことすら許されないと感じていた。
恐怖、だった。
彼らは一度も殺すとは言っていないが、彼らの意に反することをしたら殺される気がしていた。ずっと命が危機に晒されている気がする。
ヒルダに続いて、部屋にエルマも押し込まれた。それから、意識のないクリスたち三人が放り入れられた。まるで人形でも投げるかのような乱暴な扱いだ。下手すればそれだけで怪我をしかねない。
男たちが近づいてくる。
ヒルダは本能的に尻で後ずさった。立ち上がることはできなかった。
背中が壁についた。
これ以上逃げられない。
男たちはそれ以上近づいてこなかった。
ヒルダと男たちの間にエルマが入ってきたからだ。
「王女殿下に近づくな」
膝立ちになり、両手を広げて言った。いつもはへらへらとしているエルマの態度とは思えず、ヒルダはそれだけでいろんな感情が込み上げてきて泣きそうになった。
男のうちの一人が思い切り蹴り上げた。
硬そうな靴の切っ先がエルマの頬にめり込んだ。
エルマの体が横に倒れる。
口の中を切ったらしく、エルマの唇の端から血が垂れてきた。
ヒルダは今度こそ悲鳴を上げた。
けれどエルマは一切動揺しなかった。
「あんたたちの望みは何? どうしたらあたしたちは解放される?」
彼女は冷静にそう問い掛けた。男たちはまともに応じなかった。一人が彼女の赤毛をつかみ、上に引っ張り上げて強引に顔を持ち上げさせた。
「ヒルデガルト王女は傷つけずに連れてこいと言われているが、あんたたち女騎士のことは何も言われてない」
「そうかい。あたしらもナメられたもんだね」
男の、髪をつかんでいるのとはもう片方の手が、エルマの服の上から彼女の乳房をわしづかみにする。
「あんた結構胸がでかいな」
男の手指が食い込む。ややして、性急な動きで揉みしだき始める。
「殺す前に一発ヤらせてくれや」
見ていられなくなってヒルダは顔を背けた。手の動きも息遣いも下卑た表情も何もかも気持ちが悪かった。背中が震える。吐き気がする。
エルマはなおも冷静だ。
「いいよ。その代わり王女殿下には手を出さないと約束してくれるね?」
消えてしまいたかった。
目の前で何が起ころうとしているのか考えたくなかった。
ただただこの場からいなくなりたい。
ボタンが弾け飛ぶ音がした。男がエルマの服の前身ごろを引き裂いたのだ。
同時に足音が聞こえてきた。部屋の中にいる男たちが一斉に動いている。きっとエルマに群がっているのだ。
両手で耳をふさいだ。
突然肩を抱かれた。
目を見開いて腕の主を見ると、別の男がヒルダの肩に手を回していた。
ヒルダの細い手首をつかむ。
「よく見な、お姫様」
独特の体臭が漂ってくる。何かで香りづけしているようだが、ヒルダの知っている香水ではない。臭い、と感じた。嫌悪感しかない。
「健気なことだね。あのコは、今から、お姫様を守るために、俺たちに犯されるんだ。なんて美しい忠誠心だろう」
気持ちが悪い。
そう思った時だった。
ドアが開いた。
「おい」
また別のヴァンデルンの男が二人ほど入ってきた。
「あの方が全員集まれって言ってる。お前らも来い」
男たちが体を離して舌打ちをした。
「いいところで邪魔しやがって!」
「悪かったな。まあ、後でまたゆっくりできるだろ」
「そうだ、これがうまくいったら、ホーエンバーデンの女なんていくらでも抱ける。でも今は言うことを聞かないと、ほら、あれだろ」
全員がぞろぞろと出ていった。
助かった。
全身から力が抜けた。ヒルダはその場に倒れ伏した。
そんなヒルダをエルマが抱え起こした。
「大丈夫ですよ、あたしは何ともないですからね」
彼女はいつもと変わらぬ笑顔で微笑んでいた。それが嬉しくもあり悲しくもあって、ヒルダは声を上げて泣いた。
間一髪で助かったようだ。ジャケットとシャツは破れていたが、下はまだ脱がされていなかった。
ヒルダを起こして壁にもたれ掛けさせると、エルマはすぐに行動を開始した。
部屋の中を検分する。広さはおよそ一〇平米で、家具はない。正面にドアがひとつ、後方に窓がひとつ。ドアには鍵がかかっており、窓は縁に糊のようなものがべったりとついていて開閉できない。
床に倒れている仲間たちの様子を見る。まず一人目、手首を持って脈を取り、口元に手を当てて呼吸を確認する。
「だめだ、死んでるわ」
二人目の首筋に手を当てる。
「こっちもだめだ。死んでる」
三人目――クリスの手に触れた。
「まだ温かいな」
口元に手をかざす。
「息してる。しぶとい奴」
ヒルダは安堵のあまりまた泣いた。
「クリス、起きな。クリス!」
肩をつかんで強く揺さぶる。
クリスを安静にさせなければならないと思ったヒルダは慌てて止めようとした。
「やめてください! 眠っているのならばそのままにしてあげてください」
「だめです。生きているなら戦わないと」
「でも、傷にふれます」
「いいんですよちょっとぐらい」
エルマの緑の瞳がいつになく厳しい。
「あたしらヘリオトロープの騎士はね、死ぬまで姫様のために戦うんです。血の一滴まで、生きている限り、振り絞るんです」
エルマに縋って泣いた。
ほどなくして、クリスが目を開けた。意識が朦朧としているようでなかなか目の焦点が合わなかったが、エルマが「ヒルダ様の前だよ、しゃんとしな」と言うと、彼女は「ヒルダ様……」と呟いて上半身を起こした。
「あんたたくましいね。腹と肩に穴開いてるよ」
「大したことではありません」
かすれた声で、「ヒルダ様は」と問い掛けてくる。ヒルダは必死で「無事よ、大丈夫」と答えた。
「ここは……?」
「まだ王都の中だ。貧民窟の集合住宅の一室だよ」
「まだ……?」
かぶりを振る。
「そういえば、リヒテンゼーに連れていくというようなことを言っていましたね。ヴァンデルン自治区に行きたいのでしょう」
「どう見る?」
「ただの誘拐にしては大掛かりで派手です。内戦でもしたいように見えました。ヒルダ様を人質にして女王陛下を脅迫したいのではないでしょうか。何らかの政治的要求を突きつけてくる可能性が高いです――たとえば、独立したいとか」
「まずいね」
ヒルダとしてはどうでもよかった。目の前の彼女たちを守るためなら多少の要求は呑んでもいいと思えた。だが口には出さなかった。自分が独断でそんなことを言い出したらエルマとクリスに迷惑がかかることは分かっていた。
「でもそれなら移動の間は時間稼ぎができるかな?」
「ヒルダ様のご無事が保証されるようでしたらリヒテンゼーに行ってもいいでしょう。馬車で三日かかりますし、これだけやらかせば軍も出動しますし、リヒテンゼーにはヴァンデルンとの戦いに慣れた南方師団がおりますので。ついでにユディトとアルヴィン殿下も」
「そうだった。ユディトめ、あいつがいりゃここまで大事にならなかっただろうに」
「問題は――」
珍しく、クリスが長い銀色の睫毛を伏せ、少し弱気な表情を見せた。
「彼らの銃です」
「銃?」
「下半身が魚のドラゴンが彫り込まれています」
ざっと血の気が引いた。
「オストキュステ……!」
東の仮想敵国の紋章だ。
「裏にオストキュステがついているならまずいです。ひとつ間違えれば、また、戦争です」
「こっちはもう軍隊が出動してると思うよ」
「ヴァンデルンが蜂起したというだけで済ませたいですね、そうすれば国内だけで片づけられますから」
エルマが、大きく、息を吐いた。
「どうにかして各所と連絡を取ろう」
「どうします?」
「まずはここを抜け出す」
「どうやって」
「あの窓をぶち破るしかないな」
親指を立てて窓を指した。
ヒルダが「開きませんし三階です」と言うと、エルマはこともなげに「何とかします」と言った。
「三階ですか。ヒルダ様や怪我人の私には難しいですね」
「あたしが一人で行くよ。あたしが状況を軍に説明する」
「承知しました。行ってください」
まず、エルマは死んだ同僚から服を引き剥がした。自分の破れた制服を脱ぎ捨て、新しく手に入れた一部血に染まっている服を着た。
それから、破れたジャケットを二つに裂いて、自分の両手に巻き付けた。
「せーのっ」
両手の指と指とを組み合わせ、思い切り振りかぶり、掛け声をつけて、手の小指側の側面を窓に叩きつける。
ガラスが割れた。
砕けたガラスでエルマの手が裂けた。服の手首が赤い血で濡れた。
ヒルダは震え上がったが、エルマは気にも留めず、砕けてはいるがまだ窓枠に残っているガラスを手で引っ張って折った。手の平からも出血する。
「じゃあね。ヒルダ様をよろしく」
窓からある程度ガラスを取り除くと、彼女は身を乗り上げ、窓の外に下半身を出した。
クリスが「任せてください」と応じた。
エルマが片目をつぶり、親指を立てて微笑んだ。
それから彼女は上を見た。どうやら地上に降りるのではなく屋上を目指す気らしい。
エルマの姿が、消えた。
ちょうどその直後、外からドアを開けられた。
「何だ今の音は!?」
ヴァンデルンの男たちが乱暴な足取りで入ってくる。
クリスが這いずってきてヒルダに身を寄せた。
「一人消えた?」
「窓からだ。なんてこった」
男たちは互いに「お前のせいだ」「いやお前のせいだ」と押し付け合った。
「追え、まだそんなに遠くには行ってないだろ」
一人が言うと、何人かが廊下の方へ出ていった。
「クソが」
「でも殺すなとのお達しだ」
「そう、殺すな」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
ヒルダは、目を、丸くした。
廊下から、ヴァンデルンの男たちを掻き分けるようにして、一人の青年が出てきた。
「僕たちには大義名分がある。むやみやたらに死体を出すな。母上に本気を出す口実を与えたらいけない」
ヒルダはこの世の終わりが来たかのような絶望を感じた。
男たちの間から出てきた青年が、自分と同じバターブロンドに碧の瞳をしていたからだ。
「ルパート兄様……」
彼は――ルパートは応じなかった。ただ、「移動する支度を」とだけ言い残して、部屋を出ていった。
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