第4章 いい加減外野が鬱陶しくなってきた夏の盛り

第20話 その頃ユディトはこんなことを考えていた

 六月はなかなか日が沈まない。午後七時をだいぶ回ってからようやく暮れ始めて、辺りは橙色に染まった。

 夕方のシュピーゲル城にピアノの音が響く。

 長閑な湖畔、可憐な古城、流麗な旋律がリヒテンゼーの夕方を彩る。

 椅子に座って音楽を聴きながら、ユディトは、世界とはこんなにも穏やかで優しいものだったのか、などと考えていた。ユディトの家系が先祖代々守ってきたこの森と湖の地方は、今、ユディトが過去に見てきたどんな地域よりも安らぎに満ちていた。


 ちらりと目をやる。

 一心不乱にピアノを弾き続けるアルヴィンの背中が見える。


 月曜から金曜までの五日間、彼は、朝食を取ってから南方師団駐屯地の指令部に出掛けて、夕方早い時間に城へ帰ってくる。そして夕飯までの時間ここでピアノを弾き続ける。


 王都の宮殿でヒルダと盗み聞きした時に怒られたことをよく憶えていたので、最初は、聞いていることを悟られないようにしなければならないと思っていた。初め三日ほどは、ユディトは、聞いていないふりをして、用事がある風を装って無駄に廊下をうろうろして漏れてくる音を聞いていたのだ。


 ところが、どこで何がどうなったのか、アルヴィンに知られてしまった。ある時突然呼び止められて、何をしているのかと問われてしまった。


 ユディトは嘘が下手だ。正直に、本当はアルヴィンのピアノに興味がある、と答えた。

 怒られることを覚悟したユディトだったが、意外にも、部屋の中に入ってもいい、と言われた。邪魔をせずにおとなしく黙っているなら、聞いていてもいい、と。

 それを聞き、ユディトは隣の部屋から椅子を二脚持ってきた。そして、一脚に座り、もう一脚を作業台にして、ある時は刺繍、ある時はレース編みと、黙々と手芸をして過ごすようにした。やはり、喜んでいることを悟られないように無表情を心掛けながら、だ。


 極力おとなしく振る舞った。声を掛けることはない。邪魔をしてはいけないのだ。


 そして今日も無言で彼は弾き続け自分は縫い続けて時間が過ぎていく。


 この時間が何よりも心地よかった。

 彼のすぐ近くにいられると感じていた。


 ピアノを聴いていると彼のことが分かる気がしていた。今日は音が優しい、いいことがあったのだろう。今日は音が荒々しい、面白くないことがあったのだろう。そんなことを考えながら布に針を刺す時間をユディトは愛しく思い始めていた。


 特別なことはなくてもいい。むしろ特別なことなどない方がいい。


 釣りに出掛けたあの日から、ほんの少し、彼が優しい。ほんの少し、近づくことを許された気がする。なぜだろう。多少会話できたからだろうか。自分は失礼なことを言ったと思うが、結果として湖に突き落とされて泣かされたわけなので、雨が降って地が固まったのだろうか。ユディトはどうもそういう機微に疎い。


 ただ、ユディトの側はひとつ確信を得ていた。

 彼はユディトのことを分かってくれる。

 ユディトを女の子扱いしないと言ってくれた。その言葉が何よりもユディトを安心させた。彼を誰よりも信頼できる存在だと思えた。


 彼の前ではお姫様でいなくてもいい。

 母親になるからといって、女性である必要はないのだ。

 それならもっと積極的に子供を産んでもいい、と思う。無理して妻でいなくてもいいなら一人や二人産んでもいい。

 しかしそれはそれで自分の方から言うのははしたなくて破廉恥なことのように思えてくる。


 エルマの言葉を思い出す。


 ――見分けるべき殿方のサイン、ベッドでの振る舞い、可愛がられるには――何も知らずにアルヴィン様とどう愛し合うって?


 そう、ユディトはどう振る舞ったらうまく子作りに至れるのか知らないのである。何をどう言うのが正解なのか見当がつかない。あけすけに言ったらきっと下品だ。

 こんなことならエルマを筆頭とする経験が豊富そうな同僚たちからあれこれ聞きかじっておけばよかった。

 毎日すぐ傍にいるのにアルヴィンと触れ合うことはない。


 あなたの子供を産んでもいい。

 馬鹿すぎる。言わない方がいい。


 母の言葉も脳裏をよぎっていった。

 曰く、女はベッドでの作法など知らない方がいい。世の殿方は何も知らぬ無垢な乙女を自分好みに育てるのが好きなのだ、とのことだ。

 母は最低限のことしかユディトに教えてくれなかった。詳しいことはベッドの中でアルヴィンに直接手取り足取り教えてもらえ、と言う。

 アルヴィンも処女が好きなのだろうか。だったらちょうどいい。ユディトはアルヴィンに好かれたかった。それが愛だの恋だのなのかはまったく分からないが、いい印象を持たれたいという気持ちは日増しに強くなっていく。


 今ならあなた好みに調教できます。

 馬鹿どころの話ではない。絶対言わない方がいい。


 とりあえず、アルヴィンがこの城に来てからもうすぐ三週間だ。ユディトの夏季休暇の方があと一週間で終わる。その間、土日は二回だ。

 土日は丸一日一緒にいられる。一緒に教会の塔をのぼったり、市場で買い食いしたり、山や湖畔を散策したりしている。

 今度の土日もそんな感じで過ごそう。少しでも距離を縮めよう。そうしたら、結婚する頃までにはいい感じになっているに違いない。


 ピアノを弾くアルヴィンの手を眺める。

 大きな手をしている。

 あの手で、からだに触れるのだろうか。どこを、どうやって、だろう。唇に――首に――胸に――腹に――

 破廉恥だ。考えなかったことにしよう。


 いつの間にか曲が終わっていた。


「おい」


 ユディトははっと我に返って「いかがなされた?」と返した。


「お前、この前からずっと何を作ってるんだ?」


 自分の手元を見た。

 赤子の肌着だ。

 言えなかった。圧が強すぎる。


「結婚したら入用になるかもしれないと思う小物類だ」


 自分にしては上等な言葉が出た。嘘はついていないが、重要なことはごまかせた。


「自分で使うのか?」

「まあ、そういうことになるな」

「お前、手先は器用なんだな」


 手先以外に器用ではないところがあると言われているような気がしたが、気づかなかったことにした。


「結婚したら、か」


 アルヴィンがピアノの蓋を閉めた。今日はもう終わりらしい。少しがっかりしたが、日がだいぶ傾いていて、西の山に触れようとしている。部屋の中もずいぶん暗くなった。もう灯りをともさないと鍵盤が見えないのかもしれなかった。


「――なあ」


 珍しく、ゆっくりとした語調で問い掛けてくる。


「結婚したら、ヘリオトロープ騎士団は、辞めないといけないんだろうか」


 先日ヒルダが女王に確認した件について思い出した。


「いや、必ずしもそういうわけではないらしい。結婚しても続けることを希望した先輩が過去には何人かいたようで、陛下も禁じたことはないとおおせだ」


 アルヴィンは一度「そうか」と頷いたが、ややして、「過去には、いた、か」と溜息をついた。


「今は、既婚者はいないんだな」


 ユディトは首肯した。


「結局のところ、家の切り盛りをしなければならなくて、忙しくなって辞めてしまうようだ。あと、やはり、子供を産んだら、だな。出産で体力を削られてそのまま戦えなくなる者、育児に時間を取られて家から離れられなくなる者。どう転んでも独身だった頃のようには働けないらしい」


 自分で言いながら、先ほどの、子供を産んでもいい、という気持ちが揺らぐのを感じた。ヘリオトロープの騎士でない自分というものが想像できないのだ。怖い。自分が自分でなくなる感覚だ。

 しかしこういう時、ユディトはいつも婚約お披露目パーティのことを思い出すようにしていた。

 騎士としての制服こそ正装であってほしかった、とこぼしたユディトに、彼は、こう告げたのだ。


 ――今度こういう機会があったら、その恰好で来い。一番自分らしいと思う恰好で出ろ。


 なんとかなる気がする。他の誰でもなく夫になるアルヴィンが騎士であることを肯定してくれるのだ、きっと何らかの手段で続けられるよう手伝ってくれるに違いない。

 とりあえず産んでから考えることにしよう。騎士団一体力がある自分なら乗り切れるかもしれない。

 唯一寂しいと思うことがあるとすれば、ヒルダのことだ。ヒルダに対する忠誠心が薄れたわけではないつもりだが、家庭と仕事を両立させようとするのは不誠実だろうか。

 とはいえ自分の場合は子供を産むのも仕事である。

 なんとかなる気がする。


「……そうか」


 アルヴィンが、またひとつ、息を吐いた。


「お前、明日暇か?」


 突然話題が変わった。ユディトは少し驚いたが、語りたいことがあったわけでもないので、素直に「ああ」と答えた。


「特に予定はない」

「一緒に来るか」

「どこへ?」

「南方師団の駐屯地」


 一緒にお出掛けだ。

 ユディトは嬉しくなってすぐ「行く」と返した。


「お供させていただく」


 明日が楽しみになった。今夜は眠れるか心配だ。



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