第26話 ヴァンデルン解放戦線の要求

 その日は眠れない夜になった。


 南方師団の人々はユディトに城へ帰るよう言ったが、ユディトは駐屯地から離れたくなかった。いつ何時次の情報が入ってくるか分からなかったからだ。

 事情があまりにも複雑だったので第一報は人を遣ったが、以後中央は伝書鳩を飛ばすつもりだという。南方師団はいつ来るか分からない鳩を待っていた。

 城に帰っても落ち着かない時間が続くに違いない。休めるわけがない。駐屯地にいればまだ何かをしている気になれた。

 実際には役に立てていない。中にはユディトがリヒテンゼー伯の娘であることやアルヴィンの婚約者であることを気に掛ける者もある。かえって邪魔ではないかというのもよぎった。だが誰も表立ってそうとは指摘しないでいてくれた。

 ユディトは無言で過ごした。日が暮れてからは邪魔にならないよう医務室で眠り続けるエルマに寄り添った。



 エルマが目を覚ましたのは、日没から少し経った頃のことだった。


 追加情報を求めて訪ねてきた数人の将校とともに事件当時の現場の話を聞いた。

 将校らは淡々と書き取りしていたが、ユディトは発狂しそうだった。仲間がそんな目に遭わされたことが悔しかったし、そういう状況をヒルダに見せてしまったことも悔しかったし、何よりその時王都にいなかったことが悔しかった。

 今ここに敵はいない。怒りをぶつける先はない。自分にそう言い聞かせて無言を貫いた。

 エルマは両手に包帯を巻いている。その下がどうなっているのかやっと分かった。どれだけ痛かっただろう。それでも手綱を握ってここまで来た。彼女が騎士団にいてくれてよかったと心から思った。

 襲撃者たちが彼女を辱めようとしたのも許せなかった。絶対に捕まえて性器をもいだ上で殺そうと思った。当人は顔色ひとつ変えずに南方師団の将校にその時のことを説明している。自分にその強さはない。


「まあ、大丈夫だと思い込みなよ」


 エルマが言う。


「あたしは長い付き合いだからあんたはどんなことがあってもヒルダ様をお助けするために全力を尽くすって分かってる。でもこの場にいる全員があんたがどんな人間か知っているわけじゃない。あんたが冷静さを欠いていると思ったら南方師団はあんたを外すだろうよ」


 エルマの言うとおりだった。ユディトは定期的に深呼吸をしつつ平気なふりを装った。



 その頃中央からの伝書鳩が到着した。


 どうやら宮殿にいる宰相のもとに犯行グループから手紙を預かったというヴァンデルンの少女が現れたらしい。

 手紙に書かれた要求は次の三つだ。

 第一に、女王ヘルミーネは帰国せずニーダーヴェルダー王国にとどまること。

 第二に、南方師団はヴァンデルン自治区を監視する部隊を解散させること。

 第三に、リヒテンゼーでこちら側の代表者とそちら側の代表者の会談の場を設けること。


 宰相はヒルダの身の安全を最優先に考えてひとまず要求を呑む恰好を見せた。ただし、王都からではニーダーヴェルダーの都もリヒテンゼーも距離があるので連絡を取るのに時間がかかる、と言って、時間稼ぎができるように設定した。第三の要求については、南方師団がすぐに応じるはずなので南方師団に言うように、と回答した。妥当な判断だった。


 その話をユディトに聞かせてくれたのはアルヴィンだった。それがまたユディトは嬉しかった。彼はユディトがずっとヒルダを気に掛けて情報を待っていることを忘れずにいてくれたのだ。ユディトを刺激しないようにという配慮からか南方師団の面々は何も言わなかった。




 夜が明けて少し経った頃のことだ。

 アルヴィンとロタールが医務室にやって来て、司令部の中にある食堂で朝食が振る舞われるので食べに来い、と言った。ユディトとエルマは、腹が減っては戦はできぬ、と言い合って彼らについていった。

 医務室から見ると、食堂は玄関を挟んで反対側の端に位置していた。四人で玄関ホールの方へ向かって歩いていった。


 玄関の方から声が聞こえてきた。


「こら! 待ちなさい! こら、言うことを聞きなさい!」


 若い男――おそらく玄関で門番をしている青年兵士――の声が響いている。それから何かを追い掛け回しているらしき足音だ。野生動物でも入ってきたのだろうか。


 玄関に出て、ユディトは目を丸くした。


 青年兵士が追い掛けているのは動物ではなかった。

 ヴァンデルンの子供だ。

 まだ細い髪を数本の三つ編みに結い、赤や黄色の端切れをつなぎ合わせて作った服を着た、まだ五歳くらいだと思われる幼子が走り回っていた。性別は分からない。ヴァンデルンは男も女も皆髪を長く伸ばすのだ。


 子供が顔を上げた。

 目が合った。


「あーっ!」


 こちらに向かって走ってきた。


「なんだなんだ?」


 エルマが前に出て「おいでおいで」と言いながら手を伸ばした。だが子供はその腕の下をくぐり抜けて一目散に突進してきた。

 最終的に、その子はアルヴィンに体当たりした。幼児の体当たりなど何でもないらしくアルヴィンは体こそ動かさなかったが、目を丸くして「何だ? どうした?」と上ずった声を出した。


 その子が勢いよく喋り出した。短母音ばかりが続く、母音の多い言葉だった。魔法の呪文に聞こえた。


「ヴァンデルン語ですね」


 ロタールが言う。なるほど聞き取れないわけである。

 子供はしばらく何かを話し続けていたが、やがてアルヴィンが自分の言葉を理解していないことに気がついたのだろう、下唇を噛んで黙った。その表情は悲しそうで、いとけなさがいじらしくて、見ていると胸が締め付けられた。

 アルヴィンも同じことを思ったのだろうか、彼はその子供の肩に腕を回して引き寄せるように抱き締めた。


「ごめんな、俺はヴァンデルン語が分からないんだ。分かりそうに見えたんだな」


 その子は大きな紫の瞳を涙で潤ませながらおずおずと頷いた。


「ぼく、むつかしいことば、わからない」


 こちら側の言葉がまったく分からないわけでもなさそうだが、意思の疎通は難しそうである。


 玄関にいた青年兵士が走ってきて、「申し訳ございません」と言った。アルヴィンは「いや、構わん」と答えた。


「一人で来たのか? 親は? お父さん、お母さん。分かるか?」

「おとうさん、いない。しごと、いく」

「仕事に行っていていない、ということか?」

「しごと。ぼく、しごと、いっしょ」


 突然、その子は自分の襟元に手を突っ込んだ。次の時、服の中からくしゃくしゃになった紙が出てきた。

 その場にいた全員が硬直した。

 子供が取り出したのは封筒だった。そしてその宛て名に、アルヴィン殿、と書かれていた。


「わたす。ぐんじん。ぼくらとおなじ。め、おなじ」


 単語を並べながら、アルヴィンの目を指差す。


「ぼく、しごと。えらい」

「……それ、貰ってもいいか?」

「あげる。あなた、わたす。いわれた」


 子供が手紙を差し出した。アルヴィンは片腕でその子の肩を抱いたままもう片方の手で手紙を受け取った。封蝋には当たり障りのないクローバーの模様だけが刻まれており、差出人はどこにも書かれていない。


「僕らと同じ目をした軍人、か」


 アルヴィンが呟く。ロタールが息を吐く。


「王国軍にはアルヴィン様しかいませんからね」


 南方師団にすら、ヴァンデルンは一人もいないのだ。


 アルヴィンは一度子供から手を離した。片手で封筒の端を持ち、もう片方の人差し指を封筒に突っ込んで強引に封蝋を割って開けた。

 中に入っていた便箋を広げた。

 しばらくの間無言で読んだ。

 ややして、ロタールに渡した。


「ご指名だ」


 ユディトはおずおずと「指名、とは?」と訊ねた。アルヴィンは眉間にしわを寄せ面白くなさそうな顔で答えた。


「ヴァンデルン解放戦線とやらは俺とおしゃべりしたいそうだ。ヒルダを返してほしかったら一人で指定の場所に来いと書かれていた」

「アルヴィン様を名指ししたのか」

「ああ」


 読み終わったらしく、ロタールは便箋をエルマに回した。エルマが「読んでいいの?」と問うたので、「どうぞ、お二人で」と答える。


「アルヴィン様がリヒテンゼーにいることを知ってるんですね」


 アルヴィンは「特に隠してもいなかったけどな」と言いつつ頷いた。


「どうして俺なんだろうな。まあ、本当にルパートが絡んでいるんだったら南方師団の手には負えないだろうからもともとしゃしゃり出るつもりではいたんだが」


 エルマが読み始めたのをユディトも脇から覗き込んで一緒に読んだ。

 教養のある人間特有の格調高い文面だが、要約すると、宰相が受け取ったという手紙にあった女王の帰国を拒否する件と南方師団の監視団を解散する件の繰り返し、そしてアルヴィンを呼び出す件、この三点が書かれている。

 最後に、ヴァンデルン解放戦線、と書かれていた。それが彼らの組織名なのだ。


「明日午前十時、青いユリの家……」


 アルヴィンが「それ、どこか知ってるか?」と訊ねてきた。ユディトは頷いた。


「旧市街にある空き家の屋号だ。壁に青いユリの絵が描かれている。昔貧しいヴァンデルンに施しをする篤志家が住んでいたのだが、ヴァンデルンと関わるのを嫌がった息子たちが相続を放棄して、空き家になってしまったのだ」

「旧市街か。リヒテンゼーの町のど真ん中でやらかす気だということだな」


 エルマとユディトも読み終わって便箋をロタールに戻した。


「ねえ、これ、偏見だったら申し訳ないんだけど。ヴァンデルンの人にこういう文章を書ける人ってどれくらいいるんだろ? あたしには相当身分の高い人が書いたように思えたんだけどさ」

「残念ですが僕もそう思いますね。やはりルパート殿下なのでは?」

「その可能性は高いな。ルパートの手書きかは分からんが――あいつと文書でやり取りする機会なんざなかったから筆跡が思い出せない」


 四人が四人とも全員の顔を順繰りに見た。


「師団長に報告して作戦会議をしましょう」


 ロタールの提案に全員が頷いた。


「――と、その前に」


 エルマが微笑み、ヴァンデルンの子供の頭を撫でる。


「みんなで朝ご飯を食べよう。坊やもお腹、空いてない?」


 幼子がぱっと笑みを作った。



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