第25話 ヒルダの心が切り裂かれる音

 悪路のせいで激しく揺れていた馬車が止まった。

 ヒルダは顔を上げた。やっと移動が終わったのではないかと思ったのだ。これで目眩と吐き気から解放される。目的地に着いたからと言って自由になれるわけではないが、体調が安定すればできることが増えるのではないか。


 横を見た。

 ヒルダの肩にもたれて、クリスが荒い息をしている。

 彼女は昨夜から高熱を出していて自力では起き上がっていることもできなくなっていた。ヒルダには医療の知識がないので断言はできないが、おそらく、傷が膿んでいるのだろう。普段は清らかな百合の香りのする彼女の体が今は生臭い。制服の肩には黄色い体液の染みが広がりつつあった。


 クリスの腹に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せる。

 自分が守らなければならない。いつも守ってもらっていた分、今度は自分が頑張らないといけない。


 クリスのことを考えるとヒルダは強くなれた。クリスを守ろうという意識がヒルダを奮い立たせた。ユディトやエルマのことも思い出せた。もう少し我慢すれば助けに来てくれるはずだ。そう思えば、ヒルダは耐えられる気がした。

 クリスがいてくれてよかったと心から思う。もしも自分一人だったらとっくの昔に気が触れていただろう。たとえば、もう三日も入浴させてもらえなくて恥ずかしかったり、一食につき硬いパン一個しか与えられず肉も野菜も食べられなくて悔しかったり、そういうようなことに負けてしまっていたと思う。

 自分の中から何かがぽろぽろとこぼれ落ちていく。

 歯を食いしばった。

 絶対、絶対絶対、泣かない。


 戸が開いた。窓に板が打ち付けられていて暗い馬車の中に、眩しい光が差し込んできた。

 外を見た。ここがどこか確認しようとした。けれど外に見えるのは森の木々ばかりで、場所を特定できるものは何もなかった。

 戸を開けたのはバターブロンドの髪に碧の瞳をした青年だった。


「兄様……」


 人形のように美しい面の青年は、ヒルダの兄である――兄であったルパートだ。

 ヒルダはルパートを睨んだ。

 こんな奴はもう兄ではない。


 ルパートは無言で馬車の中に乗り込んできた。追い出したいが何もできない。腕力では当然勝てないし、口で歯向かってもあしらわれる。それに、少しでも気力体力を温存しておかなければならない。怒りで震える心を抑えつけ、黙ってルパートを睨み続けた。

 彼はヒルダの正面に座った。


「出して」


 彼がそう言うと、馬車はふたたび動き始めた。まともな通りに出たのか、揺れは先ほどより小さくなった。


「クリス、死んだ?」


 名前を呼ばれたのが分かったのだろうか、クリスが目を開けた。アイスブルーの瞳でルパートの方を見る。

 ヒルダは手で彼女の目を覆ってルパートを見せないようにした。クリスにこれ以上の刺激を与えてはいけない気がしたのだ。


「なんだ、まだ生きているのか。そろそろ捨てていきたいのにな」


 ヒルダは怒りでおかしくなりそうだった。実の兄がこんな物言いをする男だったとは思っていなかった。しかし冷静に振り返ると、ヒルダとルパートはもともと仲良くはなく、特にここ二、三年は大して口を利いていなかった。兄がどんな人間だったのかヒルダはよく知らなかった。

 それでも、もう少しまともな人間だと思っていたかった。


「――よくも」


 我慢できなくなってしまった。恨みのこもった声が出た。


「よりによって、お父様の命日に、王家の教会を。お父様の冥福を祈りこそすれ、教会の中で銃を撃つことを許可するなど。どうかしていますわよ」


 ルパートは落ち着いていた。もともと感情がどこか欠落しているところのある人だったが、ここまでだったとは思っていなかった。


「それを言うなら、父上の命日があるのに外遊の予定を組む母上もどうかしているよね。前倒しにすることも先送りにすることも可能だったのに。父上を悼む気持ちがかけらもないからできることだ」


 痛い指摘だった。ルパートの言うとおり、母はおそらく、父の命日を忘れているか、覚えていてもさほど重要視していない。

 父を軽んじてきたのは他ならぬ母だ。母のそういう態度を見てきたから子供たちも父を重んじなかった。ヒルダがあの日教会に行ったのも、父が恋しかったからではなく、子供たちのうちの誰かは行ってやらないといけないという使命感からだった。


「母上は基本的に男を種馬だとしか思っていないから」


 ルパートが淡々と言う。


「アルヴィン兄さんとユディトが婚約したそうだね。いかにも母上の考えそうなことだ。自分にとって都合のいい人間と同じく自分にとって都合のいい人間を掛け合わせて自分にとって都合のいい子供を得ようとしている」


 ヒルダは言い返せなかった。


 少しの間、二人は無言で向き合っていた。ヒルダは下品な罵詈雑言が出てしまいそうな気がして口を開けなかった。王女として失態を見せずにいたかったし、今の衰弱しているクリスに汚い言葉を聞かせたくなかった。


「――今後のことだけど」


 ルパートが語り始めた。


「お前にしてもらわないといけないことがあるから説明するよ」

「わたくしに?」

「そう。小さい妹たちにしようか迷ったけど、小さすぎてまず世話をするのが面倒だからね」


 細く息を吐いた。六歳と四歳の妹たちではなくてよかったとは思うが、理由があまりにも身勝手だ。


「あのねヒルダ」


 窓から差し入るほんのわずかな光が、ルパートの暗く冷たい瞳を照らしている。


「お前に女王になってもらいたい」


 一瞬何を言われたのか分からなかった。思わず「は?」と聞き返してしまった。


「この国の最後の女王になってもらう」


 目を丸く見開いた。


「母上の時のようにはうまくいかないよ。みんながお前を引きずり下ろそうとするだろう。それがいい。お前は戦争なんかできないからね、放っておいたらホーエンバーデンは四方八方からむしり取られる」

「そんなことさせるものですか! だいたい今の国際関係をご存知ないのですか!? ホーエンバーデンがあるからこそ保たれている均衡だってあるのに――ニーダーヴェルダーだって黙ってはいませんよ!」

「大丈夫だよ。最終的にはオストキュステが丸ごと貰ってくれる」


 怒りで脳味噌が沸騰しそうだ。


「オストキュステとホーエンバーデンがひとつになる。ニーダーヴェルダーなんて弱小国は問題にならない。この地方はすぐにオストキュステの下に統一されるだろう」

「ですがわたくしが女王になったら絶対国を譲り渡したりなど――」

「お前が実権を握ることはない」


 予期していなかった言葉が飛び出した。


「オストキュステの王子と結婚させて、オストキュステの王子を共同統治者にするから。政治は全部彼がやるよ」


 愕然とした。


「わたくしが結婚ですって……!?」


 今までまったく考えたこともなかった、顔も知らない男と、だ。それも、この国を脅かす敵国の王子と、だ。


「お前はオストキュステの王子の子供を産む。その子供がホーエンバーデン王になる。そうしたらオストキュステ王は誰からも非難されることなくホーエンバーデン王の親族としてホーエンバーデンの政治に口を出せるようになる――」


 鳥肌が立った。おぞましい計画だった。だがオストキュステから見たら現実的かもしれない。うまくいけば戦争せずにホーエンバーデンを併合できる。


「まずはお前に女王になってもらわないと。母上にお前を後継者として指名してもらわなければ」


 それでも、ルパートは落ち着いた顔をしていた。


「母上にはこのままホーエンバーデンに帰ってこないように言おう。このまま退位してもらって、ニーダーヴェルダー辺りで静かな余生を過ごしてもらおう。年内には、お前は女王になって結婚するんだよ」


 その次の時、ルパートの口元が、少しだけ歪んだ。


「母上はお前が一番可愛いから、お前に何かあると思ったら言うことを聞くんじゃないかな」


 ヒルダは少し笑った。


「何をおっしゃいますか。お母様は狂ってしまうほどお兄様を愛しておいでですよ。世界で一番、何よりも、最初の息子であるお兄様を」

「それは僕が母上に逆らわない都合のいいお人形さんだったからだよ」


 ざっと、血の気が引いた。


「母上は僕の考えなんて一度も聞いてくれなかった」


 その言葉を吐く瞬間、兄の目は血走って、先ほどにはなかった激しい憎悪が滲んだ。


「僕に意思や感情があるとは思っていなかったんだ」


 怖い、と思った。

 誰よりも、母を、怖い、と思った。一人の青年にこんな顔をさせる母を、恐ろしいと思った。


「でもね、ヒルダ」


 ルパートが身を乗り出す。ヒルダはクリスを抱え直して背もたれに背中を押し付けた。


「母上はヒルダの話は聞くよ。ヒルダには意思や感情があると思っている。母上にとってのヒルダは少女時代の自分だからだ。自分の分身であるヒルダをひとりの人間として見ているんだ」


 兄の言うとおりかもしれなかった。

 生まれて初めて、この家はおかしい、と思った。


 ルパートが御者に向かって「止めて」と言った。馬車が止まった。

 彼は馬車から出ていった。さも、ヒルダと一緒にいるのが不潔で不快なことであるかのようだった。

 ヒルダは自分がからからに乾いてしまってもう涙も出てこないと思った。



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