第8話 愛し合い方を説明できるほどの経験の有無
「あっはっはっは」
笑ったせいで、エルマの手を離れた矢はあらぬ方向に飛んでいった。教練場の的の前なので矢の回収はさほど大変ではないが、笑われたユディトは腹立ちまぎれに「矢を無駄にするな」と怒った。
「いや、いいんじゃん? 実家帰れば?」
エルマが軽いノリで言う。あまりにも簡単だ。
ユディトは「だが――」と反論しようとした。
しかし今度はクリスが「こちらとしては問題ありません」と言ってきた。
「どうぞお帰りください」
いつもと変わらぬ涼しい顔だ。
「……お前ら、私を帰そう帰そうとしていないか?」
「そりゃ被害妄想だね」
もう一本、新しい矢を弓にセットする。
「とりあえず寄宿舎を出るってだけでしょ? さすがに今すぐ騎士団を辞めるって言われたらビビるけどさぁ、ユディトの実家、近いじゃん。通勤圏内じゃん」
ユディトの生家であるシュテルンバッハ家本宅は、旧市街の郊外、大昔に城塞があった丘のふもとにある。宮殿の近くにあるヘリオトロープ騎士団の寄宿舎とは、馬に乗れば片道一時間弱の距離だ。馬車で三日かかるリヒテンゼーから通うわけではない。リヒテンゼー伯はリヒテンゼーが領地というだけでリヒテンゼーに住んでいるわけではないのである。
「夜勤くらい、あたしらで何とか回すよ。実際今シフトがちゃんと回ってるからあたしら三人がここでおしゃべりしてられるわけだし」
エルマの言うとおりだ。ヒルダ付き専属護衛官は全部で六人おり、平時は二人ずつ三交代制で勤めている。もちろんイベントがあれば全員出ずっぱりだが、ユディトは普段丸一日ヒルダに張りついているわけではなかった。
「おしゃべりではありません。弓の鍛錬です」
「はいスミマセン。そうでした。真面目にやります」
クリスが矢を放った。ヘリオトロープ騎士団随一の名人である彼女の矢は、的の真ん中に突き刺さった。
「私はユディトは実家に帰るべきだと思います。そう考える理由は大別して二つ」
鋭い目つき、冷静な表情で的を見つめるクリスの横顔は端正で、美しい。
「ひとつ。王家の一員になる以上はそれ相応のマナーの習得が必要です。私はあなたにはそれらのものが欠如していると考えます。あなたは少し雄々しすぎます。伯爵夫人からふさわしい教育を受けるべきです。まずは歩き方から矯正することをおすすめします」
「手厳しいな」
「ふたつ。王族になればひととの交流が制限されます。ご成婚後あなたとアルヴィン殿下がどちらにお住まいになるかは存じませんが、気軽にご実家に戻られる機会はなくなるかと」
クリスのアイスブルーの瞳が、ユディトの方を向いた。
「あなたの場合、ご両親があなたのことを気に掛けています。しかしひとはいつ死ぬか分かりません。いわゆる親孝行というものを、今のうちにしておいた方がよいのではないでしょうか」
彼女の氷色の瞳や一切変化しない表情に感情の揺れ動きは見えない。けれどこういう時、ユディトはいつも、本当はクリスも血の通った人間であることを思い出す。
エルマが第二射を放った。
「クリスの言うとおりだよ。会って喋れる親がいるんだったら、会っておいた方がいいんじゃない?」
その横顔は普段明るく能天気な彼女とは打って変わって背筋が寒くなるほど冷たい。彼女も心の奥に底知れぬ何かを抱えているのを想像させられる。自分には考えられないほどの逆境を乗り越えてきたエルマの深さを感じるのだ。
「それにさ、ユディトの場合、結婚する前にまっとうな人からまっとうな形でそういうことを教わった方がいいんじゃないの」
ぼかした表現で言われたので、どういう意味か分からなかったユディトは、「そういうこと、とは?」と訊ねた。
エルマがこちらを向き、にたりと笑う。
「
「ねや……?」
「性教育だよ、性教育。夫婦の夜の営みって何をしたらいいのかとかだよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
夜の営み。
「見分けるべき殿方のサイン、ベッドでの振る舞い、可愛がられるには――総合すると子供の作り方ってことよ。何も知らずにアルヴィン様とどう愛し合うって?」
頬が熱い。今おそらく顔が真っ赤になっている。
本当にまったく知識がないわけではない。大雑把な子供の作り方は分かっている。だが、エルマの言うようなことについては、確かに、分からない。
そういうことを話す耳年増の同僚も多いが、ユディトは意図的に避けてきた。下品で不潔なことだと思っていたからだ。清らかなヒルダの耳に入れるわけにはいかない。それに自分とは一生縁のないことだ。その場に居合わせたら時として発信源の同僚を叱ることもあった。ヘリオトロープ騎士団の人間として高潔でいるためには遠ざけておくべきことのはずだ。
ところがそれが明日は我が身になってしまった。
「いや、あたしが教えてあげてもいいんだけどさ?」
クリスが「やめておくことをおすすめします」と言いながら次の矢を引き絞った。
「ユディトの性格上あなたがそういう話をすると嫌悪する可能性があります」
クリスのその言葉を聞いてから、ユディトは眉間にしわを寄せた。
「エルマには説明できるほどの経験があるのか……!?」
ユディトに言われて気がついたらしい。肩をすくめて頬を引きつらせる。
「いや、みんな、ないの?」
矢を放ったのち、非常に落ち着いた顔でクリスが「ございません」と答えた。
「ヘリオトロープの騎士たる者、王女様方の手本となるよう、清純かつ貞潔な乙女であるべきだと考えています」
「そ……そうだよね! あはは! そういうことにしよ!」
「待てエルマ! 貴様どういうことだ!? いつどこで誰と何を!?」
「ちょっと、ちょっと待って、念のため確認しておくけど、別にそういう規則なかったよね!? バレたら除名とかないよね、あったらあたしいつ首が飛んでもいいように荷物まとめなきゃだし!?」
笑ってごまかそうとするエルマが許せなくて、ユディトは彼女の胸倉をつかんだ。その隣で、相変わらず涼しい顔をしたクリスが、「禁止はされていませんが非推奨です」と冷静な回答をした。
「貴様ヒルダ様のお耳に入れられないようなことをしでかし――」
「わたくしが何ですって?」
はっとして声のした方を向いた。
ヒルダが建物の中から歩み出てきたところだった。少し困った顔をしている。
「おやめなさい、ユディト。あなたという人はどうしてそう腕力に訴えようとするのです」
慌てて手を離して、「申し訳ございません」と言いながら片膝をついた。エルマとクリスも弓を置き、ユディトの左右に控えてひざまずいた。
ヒルダの後ろからさらにもう一人がこちらに向かって歩いてきていた。黒髪に紫の瞳の、背の高い男――アルヴィンだ。
アルヴィンと目が合った。
日に焼けた肌、厚みのある胸、大きな手、厚い唇をしている。黙っていればそこそこの美丈夫だと言えた。
彼を見ていると、エルマの、どう愛し合うのか、という言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
どのように触れるのだろう。可愛がられるとは、いったい何をどうすることを指すのか。
あの唇が、あの手が、あの体が――
顔が熱い。
「ユディト、どうかしましたか?」
「いっそ殺してください」
「何を言いますか」
エルマが「こいつ今ちょっとおかしいので真に受けないでください」と言った。助け船にしては乱暴だが、いつもエルマの軽口に助けられているので仕方がない。
「そうですね、結婚が決まったばかりでふわふわしているのでしょう。構いませんよ」
「たいへん申し訳ございません……!」
「むしろ、その話をしに来たのです」
そして、首だけで振り返って「ねえアルヴィン兄様」と微笑む。
アルヴィンが溜息をついた。
「陛下が、婚約お披露目パーティの日取りを決めろ、とのことだ」
額から後頭部に何かが抜けていくようなショックを受けた。
「婚約お披露目パーティとは……!?」
「俺が聞きたい」
間にいるヒルダだけが楽しそうに笑っている。
「兄様とユディトの婚約を国中に祝福していただこうと思いまして! 盛大なパーティをしましょう!」
硬直しているユディトの両脇で、エルマが「さすが陛下、親のみならず国民全部を巻き込んできた」と、クリスが「堀が埋まり始めましたね」と呟いている。
「そ……、そのようなこと、ご無用です。このユディト、いまさら逃げたりなど致しません」
逃げようと思って親に会いに行ったことはなかったことにした。
「さすがにお披露目は、恥ずかしく……っ」
アルヴィンが言う。
「陛下のご命令だしヒルダもノリノリだから、諦めろ」
女王の命令である上に、ヒルダが楽しんでいる――この二人が本気なのにユディトが逃げられるわけがない。実はこの男こそ誰よりもユディトのことを理解しているのではないかと思えてきた。
「よかったです、ヒルダ様」
クリスが口を開く。
「実は、ユディトはご母堂の伯爵夫人に花嫁修業のため寄宿舎を離れ実家から通勤するように求められているとのことです。これからヒルダ様のご決裁を仰ごうと思っておりましたが、もしご許可をいただけるのであれば、これまでのように夜いつでも姫様のお供ができるという状況ではなくなります。もしそのお披露目パーティが夜になるようでしたら、早めに予定を押さえてくださった方が四方丸く収まるかと」
ヒルダが目を丸くして「それは大切ね」と言った。
「そうね、わたくし、いつもいつでもユディトはわたくしの傍にいてくれるものだとばかり思っていましたけれど、その思い上がりを正さなければなりませんね」
ユディトは慌てて立ち上がった。ヒルダを見つめて「そのようなこと!」と少し大きな声を出した。
自分は、いつもいつでもヒルダの傍にいたい。どんなことがあってもヒルダを最優先にして、彼女を守って戦って生きていたい。
それをなぜか皆が邪魔しようとする。
ともすれば泣きそうになってしまったが――
「別に正さなくてもいいんじゃないのか」
言ったのは、アルヴィンだった。
「結婚したら生き別れるわけじゃない」
その言葉に、こんなにも安心する。
「それとも、ヘリオトロープ騎士団って、結婚したら除名処分なのか?」
「そういえば、皆結婚することになったら辞めてしまいますね。なぜかしら? お母様に確認します」
そして「大丈夫ですよ」と微笑む。
「もし、お母様が、だめ、とおっしゃっても。わたくしが、大丈夫なように変えてさしあげますからね」
この美しい天使こそ、ユディトの世界に光をもたらす存在なのだ。
感動したユディトだったが――ヒルダはすぐに現実に引き戻した。
「で、パーティはいつがいいかしら?」
この後、結局、ユディトとアルヴィンはヒルダに強引に翌月のパーティの日取りを決めさせられることになる。
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