第9話 犬たちの方がずっとうまくやっている

 宮殿の正面は公園になっていて、公序良俗に反しない限りは誰が何をしてもいいことになっている。もちろん衛兵の目はあるが、普段は一般市民が談笑しながら散歩をしたり大道芸人がパフォーマンスを披露したりしている。


 四角い公園の東西の端、人工の小川が流れる岸辺に、赤い石畳の歩道がある。

 その歩道を、二人の青年が歩いている。

 彼らはそれぞれ一頭ずつ大型の犬を連れていた。耳が三角形に立った狼のような猟犬だ。ヒルダのように華奢で可憐な少女では引きずられてしまうだろう。しかし青年らはいずれも背が高く体格はそこそこ良かった。

 一人は、短く切られた黒髪に紫の瞳の、筋骨隆々として勇ましい風貌の男――アルヴィンだ。

 もう一人は、肩の辺りまでと少し長い栗色の髪をひとつに束ね、髪と同じく栗色の瞳をした、優しげな雰囲気の男だ。名前は忘れたが顔はよく見掛けるので覚えている。アルヴィンの乳兄弟で金魚のフンだ。


 ユディトが歩道の先で仁王立ちになっているのに気づいたようだ。二人が足を止めた。


「待て。おすわり」


 二人がそれぞれに犬のリードを引く。犬たちは素直に止まってその場にしゃがみ込んだ。


「何をしているんだ、そんなところで」


 アルヴィンに問い掛けられ、ユディトは一人で腕組みをしていたのを解いて二人に歩み寄った。


「ヒルダ様が、アルヴィン様が犬の散歩に出たから、一緒に行って、二人で歩いて語らってこい、とおおせになった」

「語らう? 何を?」

「さあ」


 アルヴィンの隣で、アルヴィンの乳兄弟が吹き出した。


「これはこれは申し訳ございません、僕としたことが、気が利きませんでした! ユディト様がおいでになるなら喜んでお譲りしますよ!」


 予想外の対応にユディトはひるんだ。


「いや、別に、私も語らいたいことがあるわけではなく、今は本来ならヒルダ様のお傍にお控えしているべき時間で、ヒルダ様が行けとおっしゃらなかったら微塵も思いつかなかったことなので……」


 アルヴィンに「俺にはまったく興味がなさそうだな」と言われた。何と回答したらいいのか分からなかった。

 悩んでいるうちに片割れが口を開いた。


「ご挨拶が遅れてたいへん失礼しました。僕はロタールと申します。ロタール・エッケマンです」


 平民のようだが、彼――ロタールは図々しくもアルヴィンに無言で犬のリードを押し付けてユディトに歩み寄ってきた。

 優雅な流れでその場にひざまずく。ユディトの手を取り、その甲に軽く口づけをするそぶりを見せる。

 背中にぞわりと鳥肌が立つのを感じた。

 今の挨拶は、貴族の姫君に対しては、当然の儀礼だ。本来は伯爵令嬢であるユディトはそういう挨拶を受けるべき身分だ。

 でも、気持ちが悪い。

 お姫様扱いされるのがこの上なく嫌だ。

 すぐ手を離して、「そういう挨拶は不要だ」と言った。ロタールはさして気にしていない様子で微笑み、「そうですか」と言いながら立ち上がった。


「僕の母がアルヴィン様の乳母をさせていただいたご縁で、アルヴィン様とは十歳まで同じ家で育ちまして。父も軍人なのですが、土地なし貴族の男爵ですし、僕が三男なので爵位は相続できず。まあ、そういう堅苦しいのは苦手なので構わないんですが」

「知っている。アルヴィン様と士官学校で一緒だということも聞き及んでいる」

「そうでしたか。ありがとうございます」

「私はユディト・マリオン・フォン・シュテルンバッハだ」

「存じ上げておりますよ、シュテルンバッハ卿の自慢の姫君」


 また悪寒が走ったが、


「ヘリオトロープ騎士団では並ぶ者のない剛の者とのことで」


 そう言われると胸の奥がすかっと晴れた。

 ロタールはこういう人の機微には敏いようだ。ユディトの顔色が変わったのに気づいて、ユディトがこの手の話題が好きであることを察したらしい。軽く首を垂れ、「アルヴィン様に劣らぬ腕の方がお傍にいてくださると思うと心強いです」と言った。

 ユディトはつい、こいつはいいやつだ、と思ってしまった。


「ぜひ僕とも一度お手合わせを。こう見えて僕も騎士の家系の男で軍人ですので、ユディト様のお相手として不足のない剣技をご覧に入れられると思います」

「そうか。とても楽しみにしている。よろしく頼む」


 アルヴィンが「完全に戦士の挨拶だな」と呟いた。


「では、僕は犬たちを連れて帰りますね」


 先ほどはアルヴィンに押し付けたくせに、今度は強引にリードを奪って「お二人でごゆっくり」などと言う。アルヴィンもユディトも動揺して「えっ」と漏らした。


「一人で帰るのか?」

「せっかくヒルダ様がお膳立てしてくださったんですもん、少しは会話をなさってください。婚約お披露目パーティまでにちょっとでもお近づきになってくださいよ」


 ロタールに「放っておいたらぜんぜん夫婦らしくならなさそうで」と言われてしまった。ヒルダも同じことを思ったからこんなことを言い出したのだろう。


「まずは知ることから! 頑張ってください!」

「ちょっと、ロタール――」

「では、また!」


 彼は明るく朗らかな声で「行っくよー!」と言って犬たちを引っ張った。犬たちは尻尾を振って彼とともに駆け出した。一人と二頭の後ろ姿が宮殿の方に消えていく。


 公園の隅に二人で残され、ユディトもアルヴィンもしばし呆然としてしまった。


 春になってずいぶんと日が伸びた。太陽は傾いていたが沈むには早い。王家の晩餐までまだ時間がある。ヒルダは夕食までの間頑張るようにと言っていた。


「……まあ、とりあえず、座るか」


 そう言って、アルヴィンが歩き出した。彼の歩幅の半分ほどしかない人工の小川をまたいで、植えられた木々の下、等間隔に並ぶベンチのうちのひとつを目指す。

 ユディトは無言でついていったが――アルヴィンがベンチに腰を下ろしてから、気づいた。


「隣に座るのか……!?」


 しばらくためらった。夕方の公園のベンチに、二人で並んで座る――これは完全に男女の逢引きだ。

 人目はないも同然だ。小川の向こうに散歩をする人々の姿はあるが、こちらの存在には気づいていない。衛兵たちの目もこちらを向いてはいなかった。

 だが無理だ。心臓が爆発する。

 男と二人きりでベンチに並ぶ。

 破廉恥だ。


「――そんなに嫌か」


 言われて、はっとした。


「どうしても俺が嫌なら帰ってヒルダや陛下にそう言え」


 アルヴィンは不機嫌そうだ。

 冷静に考えたら当たり前だ。自分の隣に座るのが嫌なのだと思ったら、普通の人間は不愉快ではないだろうか。

 アルヴィンだから嫌なわけではないのだ。男と二人きりというのが、気まずくて、収まりが悪くて、恥ずかしいのだ。

 しかしそう説明することすら自分の弱さをさらけ出すことにつながる気がして、口に出せない。


 勇気を振り絞って、足を踏み出した。

 アルヴィンの隣に座る。

 ぎこちない動きになってしまった。

 自分の膝の上に置いた手も固い。


 小川がさらさらと流れていく。普段ならそのせせらぎに心が休まるものだったが、今のユディトにそんな余裕はなかった。


 距離が近い。


「やめていいんだぞ」


 アルヴィンが唐突にそう言った。


「何を?」

「結婚を」


 顔を上げ、アルヴィンの方を見た。

 彼は小川を睨むように見つめていた。


「そんなに嫌なら陛下に訴え出ろ」

「そういうわけでは――」


 言いかけて、ではどういうわけだろう、と自問自答を始めてしまった。

 少し間を置いてから、「アルヴィン様は」と問い掛けた。


「アルヴィン様は、お嫌ではなく?」


 母の言葉を思い出した。


 ――アルヴィン殿下がお前をと望まれたのでしょう。胸を張ってお受けしなさい。


 真相は違う。


「俺は、一から十まで陛下の言いなりだからな。陛下がそうとお決めになったことに異論はない」


 分かっていたはずなのに、なぜか少しだけがっかりした。

 この結婚は、女王が決めたものであり、自分たちの意思は何も反映されていない。

 アルヴィンも、女王の言うとおり。ユディトも、女王の言うとおり。


「俺に期待するな。俺は陛下に逆らわない。陛下が命じれば犬の散歩だってする」


 そこまで聞いて、ユディトは少し心が緩むのを感じた。


「アルヴィン様が犬たちの散歩をなさっているのだな。なんだか少し――」


 微笑ましい、と言いかけてやめた。成人男性に対して使う言葉ではない気がしたのだ。しかしあの獰猛そうな猟犬たちがアルヴィンの言うことをおとなしく聞く様子は心和むもので、彼らの間には信頼関係があるように思われた。

 犬を愛し、犬に愛される者に、悪いやつはいない。


「他にいないからな」


 アルヴィンはそっけなく答えた。


「もともとはルパートの仕事だったんだが、あいつがいなくなってから俺がやっている。姫たちにはさせられないだろう」


 女王ヘルミーネの子供は現在六人生き残っているが、長女は西国に嫁ぎ、次女は修道女になったため、今宮殿にいる一番大きい実子は三女で十四歳のヒルダになってしまった。下は六歳の第五王女と四歳の第六王女だ。犬たちがどんなに賢くても、あの大きさの獣を六歳と四歳の幼女に託すのは危険だ。


「だがアルヴィン様に懐いているようにお見受けした」

「犬ははっきり命令してくれる人間が好きなんだ」

「さようか。犬に少し共感する。私もはっきり命令されるのが好きだ」


 なぜかそこでアルヴィンが動揺した様子で「男の前ではそういうことは言わない方がいいと思う」と言ってきた。何が引っ掛かったのかよく分からない。


「ロタール殿もいつも一緒にいらっしゃるのか?」

「いや、あいつも一応軍人で仕事があるからな、四六時中一緒にいられるわけじゃない。暇な時はこうしてついてくるが、毎日ではない」

「さようか」


 特に深い理由はないつもりだったが、


「……一緒の方がいいか?」


 思わず「えっ」と呟いてしまった。


「あいつの方が、口がうまくて、人当たりが良くて、付き合いやすいだろう」


 誰と比べているのだろう。アルヴィンだろうか。

 確かに、アルヴィンよりロタールの方が明るい。柔和な笑顔、穏やかな物腰、それなりに整った顔立ちで、女には人気がありそうだ。


「まあ……、そうだな……」


 だがユディトはそういう男と好んで付き合いたいわけではない。優しい言葉でおだてられるよりきっぱりすっぱり応酬できる方が気楽だ。そういう意味では言葉を飾らないアルヴィンの方が話しやすい気もする。彼の無駄に笑ったりしないところはユディトの目には良く映った。

 しかしそれをはっきり言ってしまうのはどうだろう。アルヴィンにとっては実の兄弟と思うくらい近しい存在のロタールだ。ユディトからすれば義理の兄になるのではないか。それなのに、興味がない、と言ってしまうのは冷たいかもしれない。


 結局、ユディトは何も言わなかった。


 そんな感じで、今日もろくに会話をせず日が暮れてしまった。




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