第10話 お兄ちゃんらしいところを見せたつもり
ヒルダに導かれるまま、宮殿の一階、南西の端の部屋に向かった。
ヒルダは目的の部屋に何があるのか説明しなかった。「黙ってついてきなさい」と言ってユディトの三歩前を歩いていった。ヒルダがどこに行こうともお供をしなければならない。さして深く考えることなく大きな広間や扉がなく通路状になっている部屋を通り抜けていった。
目的の部屋が近づいてくると、ピアノの音が聞こえてきた。
初めは、穏やかな、優しい曲調だった。ユディトは初めて聴く曲だったが、繊細な長調で、聴き心地がいいと感じた。子守唄にも似た緩やかさで音程の上下が少ない。
さぞかし温厚な人物が弾いているのだろうと思ったが――途中で一曲が終わり、次の曲に移った。
その途端だ。
先ほどとはまったく異なる、力強い、鍵盤を激しく行き来する旋律が響いてきた。
勇壮で、荘厳で、胸を衝かれるような勢いがある。
今度の曲はユディトも知っていた。最近の作曲家が作ったピアノソナタだ。手が大きくて指の力が強くないといけないし、非常に高度な技術を要する曲だった。
目的の部屋の前に辿り着いた。
ピアノは中から聞こえてきていた。
その部屋には扉がなかった。
戸口に当たる部分で、ヒルダが、桃色の唇の前に人差し指を立てた。それから、「しぃ」と言いながら部屋に一歩を踏み入れた。ユディトも、ヒルダに続いて、部屋の中を覗き込んだ。
広い部屋の中にグランドピアノが一つ置かれている。他には家具調度が一切ない。部屋の東側にいるユディトたちから見て正面、西に面した壁は全面が窓になっていて、午後になって太陽が傾いた今、部屋の中は自然光だけでも明るく眩しかった。
グランドピアノが北の壁に向かって置かれていたため、弾いている人物の横顔が見えた。
アルヴィンだ。
黒髪を揺らして、正面の楽譜を見たり見なかったりしながら、一心不乱に弾き続けている。
ユディトは心底驚いた。ぶっきらぼうなところのある彼にこんな器用な演奏ができるとは思っていなかったのだ。
アルヴィンの大きな筋張った手が、鍵盤の上を、ある時は滑るように、またある時は跳ねるように動く。たくましい、若干太いと感じるような、武骨な彼らしい指が、なぞるように、押さえるように、繊細な動きを見せる。
ほう、と息を吐いた。
剣を握る手でも、こんなに美しい音楽を奏でることができる。
激しく勇ましい曲調は彼らしくもあった。
胸が、震える。
ヒルダが少し背伸びをして、ユディトの耳に顔を近づけてきた。
「いかがですか。ちょっとは惚れ直しますか」
思わず大きな声を出してしまった。
「そもそも惚れていません」
ピアノの音がぴたりと止まった。
何が起こったのだろう。慌てて前を向いた。
アルヴィンが手を止めてこちらを見ていた。
「お前ら何をしているんだ! 勝手に入ってくるなと言ってあるだろうが!」
いつになく怒っている。
ユディトは盗み見ていた気分だったので少し申し訳なくなって委縮した。何も言わずにただ彼の様子を眺めた。
ヒルダはまったくひるまなかった。彼女は、少々乱暴な足取りで部屋の中央、グランドピアノの傍に寄っていき、「いいではありませんか、減るものでもなし!」と言った。
「むしろ、どうしてこそこそなさるのです? せっかくの腕なのですからもっと大々的に大勢の人に聞かせるべきです! 兄様が人前で弾かないから皆兄様が弾けることを知りませんよ」
「それでいいんだ。俺は人に聞かせるために弾いてるわけじゃない」
「わたくしが嫌なのです! 兄様がわたくしたち兄弟の一員であることを示さなければ!」
その言葉を聞いてユディトははっとした。
ヘルミーネの子供たちは皆音楽をやっている。ヘルミーネが好きだからだ。
彼女は自分の子供たちだけで合奏ができることを心からの自慢にしており、定期的に宮殿の中にあるホールで演奏会を催す。王女たちは声楽とピアノとヴァイオリンをみっちりと仕込まれており、消えたルパートもヴァイオリンの名手だった。
養子にした以上アルヴィンもヘルミーネに楽器をやらされているはずだ。だがアルヴィンが演奏会で登壇したことはいまだかつて一度もない。したがってユディトも彼にも音楽家並みの技術があることを知らなかった。
アルヴィンは溜息をついてかぶりを振った。そして譜面板にある楽譜をたたんでしまった。
「今日はもう終わりだ」
背もたれのない椅子に、横向きに座り直す。ピアノのすぐ傍に立ち悲しげな顔をしているヒルダに向き合う。
「そんなにお嫌なのですか」
その声が泣きそうに震えている。
「わたくしたち兄弟が兄弟であることを。兄様は、受け入れてはくださらないのですか」
ヒルダの母親譲りの長いバターブロンドの髪は緩く波打っている。
アルヴィンのおそらく父親から受け継いだのであろう黒髪は直毛だ。
ヒルダの母親譲りの瞳は碧色だ。
アルヴィンのおそらく父親から受け継いだのであろう瞳は、かつては邪眼と呼ばれて忌み嫌われていた、何百年とこの国で迫害されてきた少数民族ヴァンデルンの紫色だ。
アルヴィンはしばらくの間何も言わずにヒルダを見つめていた。彼も言葉に悩んでいるようだった。さすがに十四歳の少女に冷たい言葉を投げつけるほど分別のない男ではないらしい。けれどきっと本音を言えば否定したいのであろうことがユディトには伝わってきていた。
ややしてから、ヒルダの方が折れた。彼女はむりやり笑顔を作って見せ、「ユディトに聞かせてあげたかったのですよ」と言った。その笑顔が痛々しい。
「だって、兄様とユディトったら、まったく婚約者同士のようにならないのですもの。ユディトに兄様のいろんな面を見せて少しでも気に入っていただかなければならないと思ったのです」
アルヴィンが「別にいいだろ見せなくて」とつっけんどんに答える。
「俺がどんなだろうがこいつは陛下に言われたら俺と結婚して子作りするんだろ」
暗に何も考えていないと言われたように思えたので、ユディトは少しむっときてわざと「ああそうだ、そういう職務だからな」と答えた。ヒルダが「すぐそういうことを言う!」と拳を握り締める。
「どうして歩み寄ろうとしないのです? いずれにしても生涯をともにするパートナーになるのですから、仲が良い方がいいとは思いませんか?」
アルヴィンが口を開く前に、ユディトが言ってしまった。
「いえ、仕事ですので」
するとアルヴィンも頷いて「そういうことだ」と言った。
「こいつは俺の人間性にはまったく興味がない」
ヒルダがユディトの顔を見上げて「そんなことないですよね」と問うてくる。
正直に言えば、興味がないわけではない。犬に優しく、ピアノが上手で、妹想いのところのあるアルヴィンが、まったく魅力的ではないわけではなかったからだ。
だがそう言うことができなかった。
ヒルダに、男に興味関心を持っていると思われたくなかったのだ。
アルヴィンが「まあ、俺もない」と言った。
その言葉が刺さった。
彼の方は、きっと、本当に、ユディトの人間性に興味がない。彼こそ、養母たる女王に言われたから、自分を抱くのだ。
しかし興味があると言わない自分にも非があるので、ユディトは反発しなかった。
一番悲しそうな顔をしたのはヒルダだ。
「きっと、きっと、仲良くなってくださると思っていたのに」
ともすれば泣いてしまうのではないかと思った。
「ヒルダ様――」
だが何を言うのだろう。何を言えば彼女を慰められるのだろう。一時しのぎであっても仲が良さそうに振る舞った方がいいのか。でも、どうやってだろう。
ヒルダの碧眼が潤む。
アルヴィンが前を向いた。
一瞬、ここで無視するのか、と怒りが湧いてきたが、
「弾いてやる。何が聴きたい?」
そう言って、鍵盤の上に手を置いた。
ヒルダがぱっと笑顔を作った。今度こそ本当に嬉しそうな顔だった。
「では、教会音楽が聴きたいです! 何か教会で弾くような合唱曲を弾いてくださいませんか」
するとアルヴィンはすぐに弾き出した。
優しい単音が連なっていく。明るい長調のしらべ、階段をのぼるように神へ近づく音。穏やかな前奏、そしてここが教会であればコーラスが乗る部分の静けさ。
先ほどまで激しく荒々しいソナタを弾いていたとは思えない指の動きに、ユディトも感嘆の息を吐いた。
黒髪が揺れる。
その横顔は端正で、混血児特有のエキゾチックさもあいまって、美しい、と思った。
さほど長い曲ではない。ややして手が止まった。
ヒルダが嬉しそうに手を叩いた。
「あのですね、兄様。ユディトも音楽をやるのですよ」
突然話を振られて、ユディトは心臓が跳ね上がるのを感じた。
「歌がとてもうまいのです」
驚いたことに、アルヴィンは「知っている」と言った。
「というか、ヘリオトロープ騎士団は演奏会の時に出るんだからみんな歌がうまいだろ」
音楽好きの女王の好みでえりすぐられた女騎士たちは女声三部の合唱団にもなる。もともとそういう条件で入団するし、幼少期に教養として声楽を習わされている良家の子女が多いので、抵抗感のある人間は少ない。あのクリスでさえ美しいソプラノで歌う。
ヒルダが無邪気に言う。
「兄様のピアノでユディトが歌ってくれたら素敵、と思って。今、少しいかがですか?」
突然の提案に驚いた。どう断ろうか悩んだ。だがそれも職務の一環であると言われたら拒めない。ヘリオトロープの騎士は歌うのである。
ユディトが戸惑っている一方で、アルヴィンが言った。
「お前だったら、いきなり、芸を見せろ、と言われたらどう思う? 予定もなく。練習もなく。ネタもなく。今まで一度も合わせたこともないのに。……どう思う?」
ヒルダがうつむいた。
「ごめんなさい……わたくしが考えなしでした」
ほっと胸を撫で下ろした。
そしてアルヴィンに感謝する。
アルヴィンはヒルダの兄なのだ。ヒルダに言って聞かせることのできる存在なのだ。
そう思うと頼もしくて、ユディトは安心するのだった。
「申し訳ございません、ヒルダ様。いつか機会ができましたら」
本音を言うとその気はまったくなかったが、ユディトはそう言ってヒルダをなだめようとした。ヒルダがちょっと笑って「そうですね、いつか機会ができましたら」と繰り返した。
「ごめんなさい。少しでも兄様とユディトが近づいてくれたら、と思ったのですけれど。むしろ、二人とも、わたくしに付き合ってくださって、ありがとうございます」
ユディトの「構いません」と言う声とアルヴィンの「別にいい」と言う声が重なった。
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