第21話 一方アルヴィンはこんなことを考えていた

 六月はなかなか日が沈まない。午後七時をだいぶ回ってからようやく暮れ始めて、辺りは橙色に染まった。

 譜面台に西日が反射してひどく読みにくい。まぶしくてむしろ邪魔だ。アルヴィンはとっくの昔に暗譜している曲しか弾けなくなっていた。


 それでも弾き続けるのは雑念を振り切りたいからだ。


 ここで弾くことは、精神的修養であり、同時に鬱憤の発散でもあった。弦が切れたらどうしようかと思うほど力が入っている。こんな乱暴な音ばかり重ねて、ヘルミーネが聞いたらさぞかし嘆くことだろう。しかしここにいる人間は良くも悪くも大雑把で、音楽の素養がないのかと思うほど何も言わない。


 後ろに人の気配を感じる。

 壁際にいるユディトが、少しだけ、動いた。

 そんなことを感じ取ってしまうほど今の自分は神経質だ。


 どうしてこんなことになってしまったのかというと、話は二週間前の金曜日までさかのぼる。


 月曜から金曜までの五日間、アルヴィンは、朝食を取ってから南方師団駐屯地の司令部に出勤するようにしている。誰かに直接週五日来てくれと言われたわけではない。しかしそれくらいの頻度で通わなければ片づかないと思っていた。


 想像以上にやることがある。

 南方師団の人間は中央の趨勢を知りたがっていたし、同時に、自分たちの主張を中央に伝えたがっていた。

 女王ヘルミーネはめったにリヒテンゼーまで来ない。王太子ルパートも積極的に外出しようとはしなかった。ルパートの下は十四歳のヒルダだ。

 南方師団はアルヴィンが来たことでようやく自分たちが王族とつながったと思いアルヴィンに過大な期待を寄せてきた。


 しかしこの人と人とのつながりを作るということがアルヴィンにとっては大の苦手分野だ。


 来る日も来る日も要人との会談や昼餐会でアルヴィンの心は死にかけていた。自分が本当に笑えているか心配になる――本当にまったく笑えていなかったら傍について回っているロタールが何か言ってくれるものと信じる。

 逃げるわけにはいかない。本当に、存在意義がなくなってしまう。


 王都にいた頃はよかったと、たった数日で思わされた。アルヴィンは王都ではひとりの尉官でしかなく王族として形ばかりの部下を与えられて不遇の立ち位置に追いやられたと思い込んでいたが、ヘルミーネの取り巻きである軍上層部はちゃんとアルヴィンを理解していたということだ。

 向き合うべき現実は宙ぶらりんの王都ではなく不平不満をぶつけられるリヒテンゼーの方だ。


 これが王族として自分の活動に責任を持つということか。


 有能なロタールのおかげで、アルヴィンは時計塔の鐘が五回鳴ったらシュピーゲル城に帰っていいことになっている。


 城に戻ると、アルヴィンは必ずピアノのある部屋に向かった。そこでピアノを弾いていれば誰も話し掛けてこないからだ。ユディトがそう仕向けたらしい。彼女はきっと自分が盗み聞きするヒルダに怒った時のことを憶えているのだろう。


 ところが、二週間前の木曜日の夜、ロタールが密かに部屋を訪ねてきた。曰く、他ならぬ彼女が興味を示してピアノの部屋近辺の廊下をうろついているらしい。


 翌日の金曜日、アルヴィンは現行犯を押さえた。

 だが――アルヴィンには少しずつ分かるようになっていた。

 ユディトは朴訥としていて表情の変化に乏しいが、その金にも見える不思議な色合いの瞳を見ていると、実に多彩な感情が見えてくる。

 目が合った時、彼女はご主人様にいたずらが見つかった時の子犬のような目をした。


 可愛かった。


 アルヴィンは即行許した。邪魔をしないなら部屋に入ってもいいと告げた。

 以来、ユディトはどこからともなく椅子を二脚持ってきて、一脚に座り、一脚を作業台にして、ひたすら手芸を続けている。


 そして今日も無言で自分は弾き続け彼女は縫い続けて時間が過ぎていく。


 落ち着かない。

 彼女の存在が気になる。

 彼女は気づいていないのだろうか――この部屋に二人きりで、しかも城の人間は誰一人近づきもしない。

 おとなしく黙って座っている。時々その瞳でこちらを眺めている。それが男を煽るとは思わないのだろうか。


 釣りに出掛けたあの日からアルヴィンは変なことばかり考えるようになっていた。

 少年のような倒錯的な美しさをもつ娘、さらさらの金の髪、近づくと柑橘類に似た甘酸っぱく爽やかな香りがする。おとなしく自分の後ろをついてくる、髪と同じ色をした瞳でこちらを見つめている。自分からはほとんど喋らない、何でも疑問を持たずに受け入れる。

 濡れた白い肌には傷がなく滑らかで、胸はなだらかに甘く緩く膨らみ、引き締まった腹には形の良い縦長の臍がある。

 自分は、この娘を、好きに扱ってもいいと言われている。いつどこで何をしてもけして非難されることはない。


 最低だ。


 男に女として扱われたくないと泣く彼女に、そんなに嫌なら女性扱いはしない、と言った手前、いまさら女として意識するようになったから抱きたいとは言えない。それは重大な裏切り行為ではないか。

 アルヴィンはいつの間にか恐ろしくなっていた。彼女が自分から離れていくことが、だ。彼女はこんなに自分に懐いている。この状況を自分の凶悪で乱暴な欲望のために失いたくない。ずっとここにいて尻尾を振っていてほしい。


 でもスケベなことをしたい。しても許されるはずなのだ。


 いや、だめだ。結婚して完全に逃げられないようにしてからだ。

 いやいや、それもどうか。彼女も人格のあるひとりの人間だ。逃げる権利も認めてやらないで何が大人の男性だ。

 いやいやいや、自分に理性がなかったら今頃この場でむりやり抱いていた。自分はえらい。そう、とてもえらいのである。

 いやいやいやいや――どうするのが正解か分からない。


 もう限界だ。

 手を止めて振り向いた。


「おい」


 声を掛けられて驚いたのか、ユディトが目を真ん丸にして「いかがなされた?」と返してきた。

 特に用はない。無言に耐え切れなくなっただけだ。だがそうと言うのもおかしい気がする。必死に話題を探して、質問を捻り出した。


「お前、この前からずっと何を作ってるんだ?」

「結婚したら入用になるかもしれないと思う小物類だ」

「自分で使うのか?」

「まあ、そういうことになるな」

「お前、手先は器用なんだな」


 生き方は不器用なのに、と思ってしまったが、何かを感じ取ったらしい彼女が一瞬嫌そうな目をしたので口には出さなかった。


 それにしても、余計なことを訊いてしまった。こんなことなら変な質問をするのではなかった。


「結婚したら、か」


 その時が楽しみなような怖いような――心の中がひっくり返る。


 思い切ってピアノの蓋を閉めた。今日はもう集中できない。無様な曲を聞かせたくない。


 どちらかと言えば、怖い、の方が強いかもしれない。


 釣り小屋で泣いた彼女のことを思い出す。

 結婚したら、彼女から一番大事なもの――ヘリオトロープの騎士としての仕事、もっといえば、騎士としての誇りを奪ってしまうかもしれない。そうしたらまた泣くかもしれない。

 つらい。


「なあ、結婚したら、ヘリオトロープ騎士団は、辞めないといけないんだろうか」


 ヒルダがうらやましい。ヒルダになりたい。そうすればユディトの愛情を無限に搾取できる。気分は略奪愛だ。自分はヒルダから彼女を奪おうとしているのだ。


「いや、必ずしもそういうわけではないらしい。結婚しても続けることを希望した先輩が過去には何人かいたようで、陛下も禁じたことはないとおおせだ」

「そうか」


 思わず溜息をついてしまった。


「過去には、いた、か。今は、既婚者はいないんだな」


 彼女は首肯した。


「結局のところ、家の切り盛りをしなければならなくて、忙しくなって辞めてしまうようだ。あと、やはり、子供を産んだら、だな。出産で体力を削られてそのまま戦えなくなる者、育児に時間を取られて家から離れられなくなる者。どう転んでも独身だった頃のようには働けないらしい」


 どうにもならない。代わりに産んでやることはできないのだ。それに自分も軍人を辞める気はなかった。南方師団の例を鑑みると王族としての仕事も山ほどある。彼女に手伝ってもらわなければならないことも出てくるだろう。

 どうしたら彼女を傷つけずに済むのか。正確には、どうしたら、彼女に嫌われずに済むのか。

 ロタールの言葉を思い出す。


 ――世界で一番不幸そうとでも言いますか――一周回って不幸な自分がお好きなんですよね?


 傷つきたくないのは自分だ。自分は可哀想な自分が大好きで、可哀想な自分を愛してほしくてたまらないのだ。ユディトにこのまま何もかも受け入れ続けてほしい。

 あまりにも幼稚だ。


「……そうか」


 言葉が出なかった。


 しばらくの間沈黙が続いた。よくあることだ。彼女は自分からはあまり話さない。アルヴィンが次の行動を取るまでこのままだろう。それが少し重い。責任を問われるように思う。

 彼女はいろいろと無頓着すぎる。アルヴィンが何かをするまでひたすら待ってしまう。

 とはいえ、彼女が激しい自己主張を始めたらそれはそれで寂しいに違いない。結局のところアルヴィンは彼女に依存されることを望んでいて、彼女を支配してめちゃくちゃにしたいという醜い感情を心の中に飼っている。


 このままではいけない。なんとかしなければならない。


 この時、アルヴィンの中にひとつのひらめきが下りてきた。


 アルヴィン自身にはどうにもならない。誰かにどうにかしてもらいたい。ただしアルヴィンの従者たちはそういうアルヴィンの性格を熟知しているからこそ手を出してこないし、シュピーゲル城の人間は主人たちに干渉することを徹底的に避けていた。他にいないのか。

 いる。南方師団の連中だ。


「お前、明日暇か?」


 一瞬きょとんとした目を向けられた。唐突すぎたかと不安になった。だが、


「特に予定はない」


 ほっと胸を撫で下ろした。


「一緒に来るか」

「どこへ?」

「南方師団の駐屯地」


 ユディトは「行く」と即答した。


「お供させていただく」


 明日のための策を練らなければならない。今夜は眠れるか心配だ。



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