第28話 俺の25年間は彼女の愛で報われるんだ
青いユリの家は旧市街の中にある。
中世の頃町全体が円形の城壁に囲まれていたため、旧市街は今でも聖母教会を中心にした丸い形をしている。道路は同心円状になっており、その通りに面して木骨造りの家々が並んでいた。
青いユリの家も例外ではない。幅三メートルほどの弧を描く通りに建てられていて、通り側に正面玄関がある。ただ、周囲も三階建ての住宅で、道路は全体的に日陰になってしまっている。暗く湿気た空気が漂っている。観光客は寄りつかないところだ。
アルヴィンは一人で正面玄関の扉の前に立った。南方師団の人間もついて来てはいるが、家の中の人間に気づかれないよう通りの角の陰や隣の家の中に潜んでいる。アルヴィンが合図をするまで出てこない手筈になっていた。
時計塔の鐘が鳴った。一回、二回、三回――十回。午前十時だ。
約束の
ドアノブをつかみ、回し、押した。
入ってすぐは玄関ホールになっていた。広さは一〇平米ほどだ。正面奥にドアがある。同じ構造の隣家の間取りから察するにおそらく中庭へ続いているのだろう。右側の壁際に小さなテーブルと椅子が二脚あり、うちひとつに洋装のヴァンデルンの若い男が座っていた。左側の壁には上の階へ続く階段がある。
左手の階段から誰かが下りてきた。
アルヴィンはそちらに目をやった。
絹のシャツを纏った男だった。一切陽の光に当たっていないかのように白く滑らかな肌をした、線の細い、美しい青年だ。柔らかそうなバターブロンドの髪は少し伸びて前髪が目にかかっているが、その髪の合間から碧色の瞳が見えた。
「ルパート」
彼は――ホーエンバーデン王国第一王子ルパートは、従兄であり義兄であるアルヴィンの姿を、ガラス玉のような瞳で捉えた。感情の起伏のなさそうな、冷たい目だった。
「お久しぶりです、兄さん」
彼が階段を完全に下りたところで、壁際の椅子に座っていたヴァンデルンの男が立ち上がり、もう一脚の椅子を抱えて近づいてきた。まだ玄関扉の前に立ったままのアルヴィンの正面、少し距離を取ったところに椅子を置く。ルパートは当たり前のような顔をしてその椅子に座った。
「四ヶ月くらいぶりか? 変わりなさそうで何よりだ。本当に、表面的には何ひとつ変わっていないように見える」
「兄さんこそ。もっとお疲れなのではないかと思っていましたが、変わりなさそうですね」
ルパートが足を組んだ。
「母上に振り回されて、望まぬ女を宛がわれて、さぞかしつらい思いをなさっておいでだろうと思っていました」
「まあ、そういうことがなかったと言えば嘘になるが」
「母上は昔からそうでしたね。息子たちを人間だと思っていないんです。何でも自分の言うとおりにできると思っている。自分が与えたものを拒否する可能性は微塵も頭にないんですよ」
「訂正だ。お前は少し明るくなった。口数が増えたな。宮殿にいた時のお前はこんなによく喋る奴じゃなかった」
「ありがとうございます」
右手を開いて見せ、「解放感ですよ」と言う。
「母上の作った牢獄から抜け出せた。僕は今自由なんです」
アルヴィンは少し間を置いてから「目的は何だ」と問い掛けた。
「そのまま自由を追い求めてどこか遠くに行けばよかったものを。陛下はお前を追い掛けなかった。陛下が何をお考えでそうなさったのか想像できなかったか」
「自分の言うことを聞かなくなった僕がいらなくなったからでしょう」
「……まあいい、俺も別に陛下の味方じゃない。そう思われるような振る舞いをしてきたあのひとが悪いんだろう」
ルパートが「分かってくださるんですね」と言った。アルヴィンが「何がだ」と応じた。
「母上の味方でないのなら僕の味方をしてくださいませんか」
「お前の? 具体的に何をしたいんだ?」
「この地方の統一ですよ。いにしえの帝国を復活させるんです」
アルヴィンは顔をしかめて黙った。
「すべての民が皇帝の下で信仰の自由をもって暮らすんです。新教も旧教も異教も等しく認められる帝国です。そして巨大で強大な軍事力。大陸の覇者を目指せる帝国を」
ルパートは一人で語り続けた。
「偉大で崇高な理想です。しかし母上は絶対にお認めにならないでしょう。ご自分の利権が大切だからです。オストキュステを武力で下し、ニーダーヴェルダーを経済力で制圧している、ご自身で作り上げたそういう強いホーエンバーデンというものに強いこだわりがあります。ご自分の王位を、王権を、手放したくないんです」
手を振って、「醜いと思いませんか」と問う。
「帝国が出来上がったらヴァンデルンも自由になります。狭い自治区に閉じ込められて今の彼らは哀れだ。僕は彼らにも自由になってほしい。だから手を取り合って戦うことにした。ともに暗愚の王と戦うんです」
「お前本当によく喋るようになったな」
「兄さんだって母上についていくのはもうごめんでしょう? 母上、というより、ホーエンバーデン王家に、ですか」
そこで、ルパートは唇の端を吊り上げた。
「いつもおっしゃっていたではありませんか。王家はヴァンデルンを差別している。王に――僕らの祖父にまっとうな倫理観があったらずっと宮殿にいられたのに。何も我慢しなくてよかったし、何も捨てずに済んだ。瞳の色さえ王家の碧だったら。髪の色さえ王家のブロンドだったら。そうおっしゃっていたではありませんか」
「……まあ、言った記憶はなくもない」
「紫の瞳に生まれたばかりに兄さんはずっと苦労を強いられてきた。でも悪いのは瞳の色じゃない、瞳の色で権利を制限してきたホーエンバーデン側なんです。ホーエンバーデンを倒してヴァンデルンを解き放てば兄さんも自由になれる」
「なるほど」
ルパートは穏やかに微笑んでいる。
「うまくいけば、悪い話じゃないんだろうな」
「そう思ってくださいますか」
「うまくいけば、な」
アルヴィンは自分の首の後ろを掻いた。
「でもその帝国が出来た時皇帝はオストキュステ王がやるんだろう」
そう言うと、ルパートは笑みを消した。
「バカだなお前。利用されているぞ」
「偉大なお方です。僕を拾って、救ってくださった」
「洗脳されているみたいだな、可哀想に」
ルパートの胸の辺りを指差す。
「正義のオストキュステと悪のホーエンバーデンの二項対立で世界を単純化しやがって。まあ分からなくもない、勧善懲悪は気持ちがいいだろう、悪い魔女を倒して世界が平和になると思っているなら今の状況は痛快で爽快だろうな」
「僕はそんな幼稚な人間ではありません。理想があるだけです」
「その理想のために今まで何人殺した? これから何人殺す? 武力による革命は本当に正義か? お前、自分が悪いと思ったことは一度もないのかよ」
「仕方がないではありませんか、最大多数の幸福のためにはいくらかの犠牲は必要です」
「そのいくらかの犠牲の中にひっそり暮らしている多数のヴァンデルンとヴァンデルンのことを何も知らない大勢のホーエンバーデン市民がたっぷり含まれている」
「何も言わない、何も知ろうとしないことは罪ですよ」
「その言葉そっくりそのままお前に返すぞ」
大股で近づいた。
危険を感じたらしくルパートは立ち上がった。
壁際の椅子に座っていたヴァンデルンの男が立ち上がり、腰の剣を抜こうとした。
アルヴィンは止まらなかった。
腕を伸ばした。
ルパートの胸倉をつかんだ。
軽く揺すった。
「壮大な親子喧嘩にどれだけの人が巻き込まれて傷ついてるのか想像しろ」
「親子喧嘩だなんて――僕は母上に思い知らせてやりたくて――」
「本音が出たな」
強く引き寄せた。
「ようは自分の母親が憎いんだ」
ルパートが顔を引きつらせる。
「兄さんだって、嫌いでしょう? だからホーエンバーデンを滅ぼしましょう」
右の拳を振りかぶった。
ルパートもヴァンデルンの男も対応が遅れた。
ルパートの頬にアルヴィンの拳がめり込んだ。
華奢なルパートの体が吹っ飛んだ。
「嫌いな人間一人葬るために国一個滅ぼしたいと思うわけがないだろ……!!」
腰のサーベルを抜いた。剣を抜いて向かってきた男を斬った。男の腹が裂ける。傷が浅かったようで致命傷にはならなかったが、男はその場にうずくまった。男の剣を蹴り飛ばして遠くに転がす。
階段の上から物々しい音が聞こえてきた。複数の人間が走ってくる音だ。
アルヴィンはルパートの顔のすぐ傍、床にサーベルの先を突き立てた。ルパートが目を丸くして硬直した。
剣を抜いたヴァンデルンの男たちが下りてこようとした。しかし狭い階段では一度に何人もの人間が下りることはできない。
ルパートを抱え起こし、後ろから羽交い締めにして、最終的に右腕で首を絞めた。
左手でポケットから警笛を取り出した。
吹くと甲高い音が辺りに響き渡った。
「突入っ!!」
玄関の扉が蹴り破られた。私服姿の南方師団の兵士たちが銃を構えて突撃してきた。
アルヴィンはルパートを抱えたまま右の壁に背をつけた。
銃声が響く。玄関から左手の階段に向かって銃弾が飛ぶ。
「どうして……っ」
うめくルパートに、アルヴィンは言った。
「お前の言うとおりだ」
苦笑して、頷く。
「俺は二十五年間ずっと王家を恨んでいた。俺が不幸なのは王家のせいだと思っていた」
「ではなぜ王家の味方をするんです?」
「王家の味方じゃない、お前の敵だ」
「意味が分からない」
「可哀想な俺を愛してくれる人間が現れたから、俺はもう自分が不幸だと思うのをやめた。どうすれば心底幸せになれるのか真面目に考えた。結論として、そいつの生きるこの国を守るために全力を尽くすことを誓った」
ルパートは目を丸くした。
「王家は人間だからいくらでも変わる。いや、変えられる。でも国はなくなったらそうはいかないんだ」
兵士たちが階段にいた男たちを階下に叩きつけた。
南方師団の幹部たちも家の中に押し入ってくる。彼らはルパートの顔を見て一瞬驚いた様子を見せたが、生粋の軍人である彼らはすぐに冷静さを取り戻した。
「なあ、ルパート」
ルパートの表情が歪んだ。
「お前もずっと寂しかったんだな」
それ以上、ルパートもアルヴィンも何も言わなかった。
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