第17話 男にできて女にできないこと?
「本当に、こればっかりはさすがに俺が悪かった。すまん」
岸辺の砂利の上にそっと下ろされた。
言葉が出なかった。
怒っているからではない。もともとそんなに怒っていない、自分が彼のプライドを傷つけることを言ったせいだと認識しているからだ。
湖に投げ出されてもがいていたユディトを、アルヴィンが、抱えて水面に運んだ。足がつくところまで移動すると、今度はユディトを抱き上げた。片腕を膝の裏に回して、もう片方の手で腰を支え――いわゆるお姫様抱っこである。五、六歳の時父にされて以来だった。
水から上がって浮力を失っても、彼は平気な顔で陸に上がった。その間ユディトはずっと黙って彼の首に腕を回していた。
そして絶望するのだ。
自分はヘリオトロープ騎士団ではおそらく一番筋肉量があって重いはずだが、男のアルヴィンからすると軽い。
だから、こんな、お姫様のような扱いを受けてしまった。
恥ずかしさと悲しさと悔しさとでどうにかなってしまいそうだ。
岸で呆然としているユディトに背を向け、彼は転覆したまま舟底を見せて浮いている小舟に泳いで近づいていった。舟をひっくり返し、元に戻してから、岸辺の桟橋に引っ張っていき、縄で杭に固定した。
そのうち、桟橋に上がり、岸辺を迂回して、ユディトのところに戻ってきた。
「お前、泳げないんだな」
「アルヴィン様は、どこで泳ぎを?」
「士官幼年学校で」
泣きたくなった。彼が軍事教練の一環で泳ぎを習っていた頃、自分はもうすでにヘリオトロープ騎士団に加入していたはずだが、さて、何をやっていただろう。王女のお供として夜会に出てもいいよう行儀作法を習っていたのではなかろうか。
これが、男と女の差だ。
「寒いな」
アルヴィンがろくにユディトの顔を見ることもなく呟く。
「水が冷たかった」
ユディトは慌てて取り繕って「雪解け水だから」と言った。何かどうでもいいことを喋らないと自我が保てない気がした。ここで癇癪を起こしてまた揉めるのは得策ではないということは学習している。
「山の中腹に泉が湧いていて……川が……途中に滝があって――」
「寒いか? 声が震えている」
下唇を噛んだ。
「急いで城に戻って人を呼んでくる。着替えとか拭くものとか、いろいろ要るだろ」
一度大きく深呼吸をしてから、立ち上がった。
ここで動揺して余計なことをしてはならない。優雅で品格のある大人の女性でなければならない。
「城まで少し距離がある。すぐそこに釣り小屋があるから、そこで、火を焚いて、温まって、服を軽く乾かした方がいいと思う」
言いながら桟橋の向こうを指した。
数十メートル先に、岸辺に何十本もの杭を打って柱にした小屋が立っている。簡単な木の板でできた小屋で、三匹の子ブタの狼がやってきたら吹き飛ばされそうなつくりだが、一応中には暖炉があって煙突がついている。
「そうだな、城まで往復している間に冷えるよな。行くか」
そう言って、アルヴィンが歩き出した。
ユディトはその後ろをとぼとぼとついていった。
この釣り小屋はシュテルンバッハ家の使用人たちが共用しているもので、定期的に誰かが使っては去る前に掃除をしていく。したがって中はきれいに片づけられていて、床は板敷だったが腰を下ろすことに抵抗はなかった。
水に濡れたせいか、それとも感情がひどく揺さぶられたせいか、ユディトは暖炉の前で力尽きてしまった。その場に座り込んだまま何もせずに黙っていた。
初めて来るはずのアルヴィンの方が機敏に動き回っていて、出入り口付近の壁際に積み上げられた薪を暖炉に放り込み、棚から火打ち石を探し出し、火をつけてくれた。
それもまた、ユディトを打ちのめした。水に濡れたくらいで動けなくなる人間にヒルダを守れるのか、と思うと、情けなかった。
火はじわじわと燃えていく。一気に暖かくはならないが、じきに温度が上がっていくだろう。それに今は六月で時刻はまだ午前だ。服さえ乾けばどうにでもなる。
突如後ろから頭に何か布状のものが飛んできた。具合よく広がってユディトの頭を覆い隠した。
「タオルを見つけた。それで体を拭け」
ユディトはのろのろと立ち上がった。彼の言うとおり、体を拭かなければならない。それから、濡れた服をどうにかして乾かさなければならない。
頭のタオルを足元に置いてから、服の首元、襟の下を留めていたリボンをほどいた。そして、服の裾をつかんで、一気にまくり上げようとした。
「待て待て待て待て」
後ろから羽交い締めにするように腕を回された。大きなたくましい手に手首を握り締められた。
「そんな豪快に脱ぐな、せめて脱ぐ前に何か言え」
彼の手を見る。
自分の手より大きい。
とても悲しい。
「……脱ぎます」
「……なんか、俺が何か言えと言ったのに悪いが、そういう宣言の仕方をして脱がれるのも、微妙な気持ちだな」
手が離れた。
「後ろを向いていてやるから、脱いだらタオルで隠せよ。あと、下は脱ぐな、冷たくても我慢しろ」
振り向きつつ、「隠すとは何を?」と訊ねた。アルヴィンが怖い顔をして「胸とか腹とか胸とかだろ」と答えた。そこでようやく、同性だらけのヘリオトロープ騎士団の更衣室とは違うのだ、というのを認識した。
ユディトが頷くと、彼は後ろを――窓の方を向いた。
彼自身も服を脱ぎ始めた。濡れて張りついていたシャツを引き剥がした。
窓を開け、窓から両手を出して服を搾る。窓の外、湖の上に大量の水滴が落ち、びちゃびちゃという音がする。
筋肉の隆起した肩、それから背中を眺める。背中が広く胸板が厚い。腕も筋肉で太かった。
「……なに見てるんだ」
「うらやましい」
とうとう、言葉が口から出てしまった。
「男だったら裸になっても問題はないのかと思うと」
「いや、俺は今お前に見つめられてかなり恥ずかしい思いをしているが」
「だが女の私だと急いで胸を隠さなければならない」
「それは……、まあ、そうだな」
窓から片腕を出し、服を振ってぱんぱんと鳴らす。
「ちょっと見えたくらいでは何もしない。そこは約束する。でも一応節度としてだな――」
「本当にうらやましい」
次の時、視界が滲んだ。
恥ずかしかったが、止まらなかった。
次から次へと液体が溢れて、頬を流れていく。
「私はずっと弟がうらやましかった。男に生まれていたらもっとたくさんできることがあっただろうにと。今、あなた様を見て同じことを考えている」
アルヴィンが手を止め、息を吐いた。
「俺、何か、特別なことをしたか?」
「泳いだり」
「軍の学校に行けば嫌でもやらされる」
「私を姫抱きにしたり」
「あれはコツがあるんだ、教えてやるからお前も帰ったら騎士団の同僚で試してみろ」
「裸になっても恥ずかしくない」
「何度でも言うが俺は今恥ずかしい」
窓枠に濡れた服を引っ掛け、こちらを向く。
床に置いたタオルを拾い上げる。両手で広げる。
タオル越しに、右手でユディトの左頬に、左手でユディトの右頬に触れた。
「拭いてやる」
「いい。私はそこまでお嬢さんではない」
「いいから。お前今顔真っ青だぞ」
抵抗する隙を与えず、頬だけでなく髪も拭き始めた。犬の毛を乾かすように思い切り、力任せに、振るように拭いた。
「だんだんお前が何が好きで何が嫌いか分かってきたぞ。思っていたより単純だな」
「私を馬鹿になさっておいでだ」
「言い方が悪かった。お前は素直で筋が通っている」
思い切り拭かれてぼさぼさになった頭を、手櫛で整える。男の太い指が髪の間をすり抜けていく。
「俺は、お前に女であることを押し付けるつもりはないし、自分が男だから女のお前よりよくできると言いたいわけじゃない。俺にもできることとできないことがあって、お前にもできることとできないことがある」
「そういうことは、ご自身が男だから言えるのだ」
「体が冷えて考え方が後ろ向きになっているんだろう」
「では脱いでもいいか? 服が冷たいのが良くないに違いない」
少し間が開いた。
ややしてから、アルヴィンは、「ああ」と頷いた。
服の裾をつかんだ。今度こそ、思い切り頭の方へ引き上げた。下着として着ていた中のシャツごと、だ。そうすると白い肌が、なだらかに膨らむ胸が、引き締まり筋の入った腹があらわになる。
今度こそ、アルヴィンは何も言わなかった。無言で、頬を拭いたように首や肩を拭いたのち、タオルで上半身全体を包んだ。
そして、そのまま、抱き締めた。
タオル越しに裸の胸と胸が触れる。
「元気出せ」
「無茶なことをおおせになるな」
大きな手が、ぽんぽんと、後頭部を優しく叩く。
「なあ、ユディト」
耳元で優しく囁くように問い掛けられた。
「思うんだが。子供を作ったら、お前はもっと、自分が女であることを考えさせられるぞ。その状態で、妊娠したり出産したりして、大丈夫なのか?」
アルヴィンの肩に頭をもたれつつ、ユディトは、頷いた。
「女であることが嫌なわけではない。女であることを人に思い知らされるのが嫌なのだ。騎士団にいれば、私より小さくてふわふわした生き物ばかりだから、思い知らされることはなかった」
「なるほど、なるほど。よく分かった」
優しく、撫でるように叩く。
「俺はもうお前のことを女の子だとは思わない」
その言葉が、優しく、胸に染み込んでくる。
「ただ、人間はそれぞれ、できることとできないことがある。お前にできないことがあってそれが俺にはできることだった場合俺は手を出し続けるぞ。それは、覚悟しておけよ」
「あなた様にできないことがあってそれが私にはできることだった場合は、私が手を出してもいいのだろうか」
「もちろんだ」
「それならいい」
目を、固く、つぶる。
「話をすると、分かることもあるんだなあ」
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