第16話 釣りデートを選択するという痛恨のミス
正直なところ、ユディトも最初は戸惑っていた。
もともとヘリオトロープ騎士団には交代制の夏季休暇制度があり、たまたまユディトが身内で一番早く休みを取っただけだ。先祖の墓廟のあるリヒテンゼー聖母教会に行きたかったのも本当だ――何せ結婚したらリヒテンゼーではなく王都の王家の教会に葬られることになる。
したがってユディトは本当に何も考えずもともとリヒテンゼーにいた。
そこに後からアルヴィンが送り込まれてきたのだ。
父がわざとアルヴィンに南方師団の仕事を振ったに違いない。父もまた軍の高官なのでそれくらいのことは造作ない。まして裏で女王とつながっている。
ヘリオトロープ騎士団に所属する者は皆良家の子女だが、中には地方の大きな土豪の娘もいて、田舎のおかしな風習について話を聞くことがある。
曰く、旅行中の貴人が来たら積極的に宿を提供する。夜、我が子の中で一等美人の娘を侍らせる。そして既成事実を作る。最終的には、責任を取らせて嫁がせる。
そういうのを、ユディトの身内もやろうとしているのではないか。
そんなことをしなくても結婚は決まっている。時が来たらユディトはおとなしく嫁に行く。女王が望んでいる以上それは絶対のことであり、ユディトの中では動かぬ宿命なのだ。
しかしここでひとつ問題がある。
なんとなく、アルヴィンに嫌われている気がする。正面を切って嫌いだと言われたわけではないが、微妙な距離を感じる。
最初は男など皆そんなものかと思っていたが、ここ数日アルヴィンの連れてきた従者たちと話をする機会があって、彼らの態度を見ているうちに、アルヴィンだけが特別ユディトと距離を置きたがっているのだと悟ってしまった。
どうせなら、仲良くしたい。一生付き合うのだから。
だが、ユディトにはそれを直接本人に言えるほどの勇気はない。だいたい女からそういうことを言うのははしたなくないだろうか。
時々、最初に決闘を申し込んでしまったのを思い出す。第一印象が悪過ぎる。すぐ腕力に訴える乱暴な女だと思われたのではないだろうか――事実そうなのだがどうしよう。
もうちょっと二人の時間をもって、交流をして、互いのことを知る時間が必要なのではないか。
そう思うと、父にちょっぴり感謝である。
というわけで、ユディトは土曜日の朝アルヴィンを湖に連れ出すことにした。二人で出掛けたらちょっとした会話もあるのではないかと思ったのだ。
「――なあ、ユディト」
小舟の端に座ったアルヴィンが、気難しそうな顔をして声を掛けてくる。
「好きなのか?」
「何が?」
「釣り」
ユディトは、「ああ、こっちに来るたびにしている」と答えた。小舟の、アルヴィンとは反対側の端に座って釣り竿を振り、湖に釣り針を投げ込みながら、だ。
朝の湖は静かだった。夏になって南方から帰ってきた水鳥たちが岸辺近くで泳いでいるが、人間はアルヴィンとユディトしかいない。
二人はしばらく無言で釣り糸を垂らしていた。
「……いや、ユディト」
「何だ」
「普通男女が出掛けるのに釣りはなくないか?」
「えっ。そうなのか?」
「童話の国リヒテンゼーで、美しい山や森があって中世さながらの木骨造りの家々が並ぶ町もあるのに、湖で釣り……とは……」
ちなみに木骨造りとは木材を筋交いとして斜めに組む建築方法のことである。漆喰の塗られた白壁に黒い斜め十字の柱が浮き出ているように見えるので、見た目は愛らしく美しくなる。絵本にもよく出てくる古き良きデザインの家だ。
「湖は、リヒテンゼーのもっとも価値ある財産だと思っていたが……」
「まあ……そうなんだろうけどな……」
不安になって「町か森の散策の方がお好みか?」と問い掛けると、アルヴィンは微妙な顔をして「いや、そう言われると困るんだが」と答えた。
「まあ、いいか。お前らしいし、俺も気を遣わないか」
ところがユディトとしては非常に気を遣う。
何せ、釣りというものは、魚が引っ掛かるまで何もせずその場で待たなければならない遊びである。釣り人はこの待ち時間に会話を楽しんで交流を深めるのだ。
自分でセッティングしておきながら、なかなか、気まずい。
さて、何の話をしよう。
「リヒテンゼーにはちょくちょく来るのか」
質問されて胸を撫で下ろした。アルヴィンのおかげで会話ができる。アルヴィンより自分の方が口下手であることを思い知らされる。
「ああ、毎年、夏に。冬に来ることもあるが、山が近くて寒いからな」
周囲の山々を見渡して、「夏のリヒテンゼーは世界で一番美しい」と語った。
「緑の森、透き通った湖、天高く蒼い空。私たちにとって自慢の地だ」
そう言うと、アルヴィンは少し表情を緩めて、「そうだな」と頷いてくれた。
「のどかな、いいところだ」
褒めてもらえるのが嬉しかった。生まれた時から父の土地として親しんできたこの地をユディトはどこよりも愛している。
「今のうちにめいっぱい遊んで堪能しておかなければ」
「今のうちに?」
「結婚したら来られなくなるだろう? こうして夏のリヒテンゼーでのんびり過ごすのは今年が最後だ」
何気なく言ったつもりだった。
アルヴィンがこちらを向いた。目を丸くして、驚いた顔をしている。
「結婚するから、これが最後なのか」
予想外の反応に動揺しつつも、ユディトは「ああ」と答えた。
「リヒテンゼー伯爵家から離れて、王家に入るのだから。まあ、アルヴィン様がお望みなら、旅行くらいは来るかもしれないし、父はシュピーゲル城に泊めてくれると思うが」
「お前は嫌じゃないのか」
「何が」
「結婚するのが」
いまさらそんなことを訊ねられるとは思っていなかった。
「いや、最初はいろいろと思うところはあったが、今は、まったく」
「本当に? 大好きなリヒテンゼーにも自由に来られなくなる、騎士団も辞めなければならなくなるかもしれない、そういう条件でもお前は結婚すると言うのか」
「ああ。陛下も父も、何よりヒルダ様が楽しみにしておいでだからな」
「陛下やシュテルンバッハ卿やヒルダはどうでもいい」
何をそんなに思い詰めているのかはさっぱり分からないが、何となく、心配されているのだろうか、と思った。
確かに、リヒテンゼーや騎士団と離れるのは、ユディトにとってはつらく悲しく寂しいことだ。しかし男のアルヴィンがそんなことを考えてくれるとは思ってもみなかった。女として生まれた以上は忘れなければならないと思っていたのだ。
心配してくれるだけで嬉しかった。身は離れても心は離れずにいることを許してくれるのではないか。アルヴィンはユディトの実家を思う気持ちやヘリオトロープの騎士としての誇りを取り上げないでくれるのだ。
「お前自身は、どう感じているんだ」
アルヴィンがどんな答えを求めているのか一生懸命考えた。彼に安心してもらいたかった。しかしうまい言い回しが浮かばない。仕方なく「何も」と答えた。
「主体性ってないのか?」
「しゅたいせい?」
「お前の意思はないのか。陛下やお父上やヒルダに託して、考えることを放棄していないか?」
初めて言われたことだった。それが問題だとは思っていなかった。
でもそれがアルヴィンは面白くない。
「私がどうしたら納得するのだろう」
「今度は俺になすりつけるのか? 自分で考えろ」
「私は人に尽くすのが好きなのだ。皆のためになることをするのが私の喜びで、強いて言うならそれが私の意思だ。だからアルヴィン様も私に求めることがあるならおっしゃってほしい」
「気に食わない」
何を怒っているのだろう。
「俺は、お前のそういうところが好きじゃない」
ユディトはしばらく黙ってアルヴィンを見つめていた。
考えても、考えても、ひとの心というものは分からない。
ところが――次の時だ。
「俺のためを思うなら、お前が決めてくれ」
そう言われた瞬間、ぱっと視界が開けた気がした。
「アルヴィン様は、ひょっとして、私の意思でアルヴィン様に決めたと言われたいのか?」
言葉にして口から出した。言語化すると思考が形になって、物語が次々と組み上がっていくのを感じた。
なんだか微笑ましくなって、ユディトは思わず笑ってしまった。
「アルヴィン様は、本当は、私に選ばれたいのだなあ」
言った途端だった。
アルヴィンが釣り竿を放り出した。釣り竿は釣り針に引きずられて湖の中に沈んでいった。
「帰る」
「えっ」
余計なことを言ってしまった。どうしよう。
だが次の言葉を考えるよりまずアルヴィンを止めなければならない。
アルヴィンが、強引に櫂をつかんで小舟を動かそうとしている。
バランスが取れない。
「ちょっと、お待ちいただきた――」
アルヴィンが小舟の上で激しく動いた。
しまった、反対側の端にいる自分が体重を移動させねば――しかしどういう風に――
小舟が大きく傾いた。
「あっ」
ひっくり返った。転覆だ。
二人は湖に投げ出された。
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