第18話 ヒルデガルト王女拉致事件 1
ホーエンバーデン王国には大陸でも有数の大河が流れている。南部のリヒテンゼーの山に端を発し、中央部の王都で西南から流れてきた川と合流して一本の大河となり、北部で西国ニーダーヴェルダー王国に接続して、最終的には北の海に注いでいる。
王都の旧市街はその合流地点の三角形の中にある。
宮殿から馬車で揺られること数十分、旧市街の川沿いにある教会に着いた。ゴシック様式の尖塔がそびえる様は壮麗で神々しく、王都の中心にある大聖堂に比べれば縦にも横にもコンパクトだが、ヒルダには大聖堂よりこの教会の方が洗練されているように見えた。
王家の教会だ。この教会の地下室に、代々の王と王妃の棺が納められている。
ヒルダの父親もここで眠っている。
今日は父の命日だ。彼が死んで今日でちょうど三年になる。
父――女王ヘルミーネの夫は、娘のヒルダから見ても少し影の薄い人だった。優しかったが、それだけだ。特別何かをしてもらった記憶はない。従者たちに聞いたら、どうやら政治にも育児にもまったく手を付けなかったらしい。ただ、いつもにこにこ笑って女王の一歩後ろに控えていた。
女王が第十子、ヒルダから見て末の妹である第六王女を妊娠していた頃に病を得て、一年ほどで亡くなった。当時はとても寂しくてつらかったが、今振り返ると、家の中のことは何も変わらなかったと思う。
たまに、女王にとっての夫は何だったのだろう、と考えることがある。国内の大貴族の三男で、女王の政治の礎として欠かせない立ち位置の人だった、というのは、分かる。しかし彼はそんな家庭生活で幸せだったのだろうか。
ヒルダは今のところ結婚する予定がない。小さい頃から何度か王侯貴族との婚約話が持ち上がっていたが、結局どれも破談になってしまった。先方が少しでも気に入らない行動を取ると女王が娘の婚約を破棄してしまうのだ。
幼少期からその繰り返しだったからこそ、ヒルダにとっての結婚は縁遠いものであった。記憶にあるのは唯一姉である第一王女の結婚式だけだ。華やかなニーダーヴェルダー王国の王都で開かれた祝典は見事で、何度思い出しても感極まって泣けてくる。ただ、姉とはその結婚式以来一度も会っていない。時々手紙のやり取りをするが、具体的な結婚生活は見えてこなかった。
今度、義兄のアルヴィンと一の従者であるユディトが結婚することになった。
あの二人の結婚生活はどんな感じになるのだろう。どちらかが女王である母のようになってどちらかが王配である父のようになるのだろうか。
いずれにしても、幸せだったらいい、と思う。その、幸せになる様子を間近で見ていたい。
「結婚生活の幸せとは、いかなるものでございましょう」
祭壇の前に立ち、ステンドグラスを見上げながら、ヒルダはそう呟いた。この地下で眠る父への問い掛けのつもりだったが、答えたのは隣にいるクリスだ。
「十人十色でございましょうね」
冷静かつ端的で、一瞬物足りなさを感じたが、よくよく考えるとなかなか含蓄のある言葉だ。
「クリスは、アルヴィン兄様とユディトの結婚生活はどんな感じになると思いますか?」
「神のみぞ知ることです。知ったとしても、第三者の私があれこれ口を出すべきではないでしょう」
「クリスはいつも正しいですね」
反対隣から笑う声が聞こえてきた。そちらの方を向くと、エルマがヒルダとクリスの方を向いて笑っていた。
「ヒルダ様は、どのようになってほしいとお思いです? あいつはきっとヒルダ様の望むような結婚生活を送ろうとしますよ」
そう言われると、ヒルダは責任を感じてしまう。確かに、ユディトはヒルダの望むままに振る舞ってくれるだろう。子供の数までヒルダが指定した人数に調節してくれそうだ。そのくらい、自分は彼女のすべてを握っている。それが時々重いと感じることがある。だからアルヴィンに投げるという意図もほんの少しだけあった。
「わたくしも、口を出しません。第三者ですから」
「いいえ、ヒルダ様は第三者ではございませんよ。あいつは、ヒルダ様が楽しみにしておいでだから、花嫁になるんですもん」
エルマは、クリスとは違っていつも正しいとは限らないが、ヒルダにとても大事なことを教えてくれる。
「わたくしは、ユディトの幸せを規定できるほど、偉い人間でしょうか」
二人はしばらく何も言わなかった。
ややして、クリスが言った。
「我々は、そうであっていただきたいと思っております」
ヒルダは、観念して、頷いた。
「わたくしは、いつか、ユディトに、自分の幸せを自分で見つけなさいと命令するのでしょうね。でもそれは、責任の放棄と表裏一体です。とても、難しいです」
その時だった。
教会の重い扉が閉ざされる音が響いた。乱暴な、地響きにも似た、強く大きな音だった。
扉を閉められた。
いつにないことに驚いた。この教会は日の出から日没まで葬儀そのもののような式典がない限り一般市民に開放されている。まだ午前中の明るい時間に扉を閉ざすことなどない。
後ろから肩に手を回された。エルマだ。彼女はヒルダを抱き寄せつつ、扉の方を睨むように見ていた。
クリスが一歩前に出て、ヒルダとエルマを守るように仁王立ちになった。
この時一緒にいたヘリオトロープの騎士はクリスとエルマだけではない。他に二人椅子の方に控えていたが、彼女たちも駆け寄ってきてヒルダの周りを固めた。
扉の前にざっと数えて二十人ほどの男たちがいる。
ヒルダは心臓が凍りつくのを感じた。
ヴァンデルンだ。
黒い髪、紫の瞳、浅黒い肌に洋装を着た若い男たちが、剣を片手に教会の後方で展開している。
男たちの紫の瞳がヒルダを見ている。
目が合う。
「お前が第三王女ヒルデガルトか」
エルマの手にこもる力が強くなった。
数人の男たちが、椅子と椅子の間の通路を歩いて、祭壇の近くにいるヒルダたちの方へやって来た。
「こちらに来い。おとなしくこちらに来たら痛いことはしないでやる」
対峙するように、クリスが歩き出した。
「どのような御用ですか。我々の王女殿下の予定表には貴方たちとお会いになる件について記されていません」
男のうちの一人が「何だこのおねーちゃん」と言う。他の一人が「ヘリオトロープの騎士だ」と答える。
「女王陛下がお人形さん遊びをするために顔が綺麗で背が高い女の子を選んで男物の服を着せてる」
男たちが笑った。
「悪いことは言わねぇ、お姫様を引き渡してお城に帰りな。じゃないとひどい目に遭わせるぞ」
「繰り返します。どのような御用ですか。答えなければ用もないのに王女殿下に近づき妄言を吐いた不審者として対応します」
クリスの表情は一切変化しない。彼女の鉄面皮に周りの男たちが少しずつ苛立ち始めたのが分かる。
「ちょいと遊びに行くだけだ。俺たちと遊びに行こうや」
「どちらまで?」
「みんな大好きリヒテンゼーだ」
「お断りします。王女殿下は女王陛下がニーダーヴェルダーをご訪問なさっている間王都から離れることができません」
「そうお固いことは言うなや」
「お引き取り願えますか」
先頭にいた男が手を伸ばした。
「なんだこの女、生意気な――」
その次の瞬間だ。
銀の一閃が走った。
男の絶叫が響き渡った。
クリスが一瞬にして腰の剣を抜き去り、男の手首を斬ったのだ。
手首が、ぽん、と飛んで、宙に赤い軌跡を描いた。
周囲にいた一般の参拝者が悲鳴を上げた。
「王女殿下を誘拐しようと目論む者とみなして始末します」
クリスがそう宣言するや否や、ヒルダの周囲を固めていた二人も剣を抜いて男たちに跳びかかった。
男たちにとっては予想外の反撃だったのだろう、彼らは一時慌てふためいて対応が遅れた。
一人の剣筋が男の背中を斬り裂く。また別の騎士の剣が男の胴を貫く。
「皆さんこちらへ! 急いでこちらから避難してください!」
エルマが、ヒルダを抱えたまま、一般の参拝者たちに大声で呼び掛けた。
一般の参拝者からすればヘリオトロープ騎士団の紫の制服は頼りになる者の目印だ。彼らは素直にエルマの指示に従った。エルマの誘導する先、尖塔の一階部分に当たる部屋の裏口から教会の外に出ていった。
エルマはヒルダも教会の外へ押し出そうとした。
ヒルダはエルマの腕に抱きついて抵抗した。
「ヒルダ様」
「わたくしは外に行けません!」
視線の先では、ヴァンデルンの男たちが応戦し始めたのが見えていた。全部で十人近い男たちが三人のヘリオトロープの騎士を囲んでいる。
「だって、クリスたちが! あの者たちを置いていけません!」
「なりません!!」
初めてエルマに怒鳴られた。
「たとえあいつらが死のうとも! あいつらはあなた様を生かすためにやっているのですから! 受け入れてください!!」
ヒルダは硬直した。
歯を食いしばった。でなければ泣きそうだった。
でも動きたくなかった。
皆を置いて逃げる王族になりたくない。
エルマは強硬手段に出た。ヒルダを抱き上げたのだ。ヒルダを横抱きにして、彼女自身が教会の外に出て彼女を運び出そうとした。
間に合わなかった。
教会のすぐ外、目の前に、ヴァンデルンの男が三人、立ちはだかった。エルマが裏口から人を逃がしたことに気づいて回り込んできたのだ。
エルマがヒルダを抱えたまま一歩下がった。
ヴァンデルンの男たちが裏口からも教会の中に入ってくる。
ヒルダを床に下ろした。そして自らも剣を抜こうとした。
次の時――ヒルダは、この世の終わりを感じた。雷鳴に似たすさまじい音が教会の中に轟いたからだ。
振り返った。
ヴァンデルンの男たちが、銃を構えていた。
ヘリオトロープの騎士たちが、床に倒れていった。
その紫の制服に赤い穴が開いている。
ヒルダは絶叫した。大きな声で彼女たちの名を呼んだ。
誰一人として返答しなかった。
「……分かった。分かったよ。ちょっと待ってね」
エルマは剣を抜かなかった。両手を上げ、男たちに対して降参の意を示した。
「話を聞こう。ヒルダ様に何の用件だったのか、あたしが聞いてもいいかい?」
男たちが迫ってくる。
怖くて怖くて足がすくむ。
なんとかエルマの背中にしがみついた。
エルマが小声でヒルダに囁く。
「彼らは先ほどヒルダ様をリヒテンゼーに連れていきたいと言いました。すぐには殺さないはずです。時間を稼ぎましょう。この騒ぎなら軍が出動します」
ヒルダはただがくがくと頷いた。
エルマがふたたびヒルダの肩を抱く。
「だーいじょうぶです、あたしがついてますからね」
エルマの腕は力強く温かかったが、それでも怖かった。
クリスたち三人が動かない。
「ユディト」
震える声で呼ぶ。
彼女がいてくれたらよかった。彼女はいつもいつでもヒルダを守ってくれた。こんな事態でも、彼女なら確実にすべての敵を倒してくれたはずだ。
帰ってきてほしい。
「ユディト……」
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