第32話 温かさのようなものを抱き締めて生きていたい

 ヒルダの部屋を出るとすぐ、廊下の壁にもたれて立っていたアルヴィンと目が合った。


「寝たか?」


 彼の問い掛けに「ああ」と頷いた。


「安らかにお休みになられた。今夜の仕事は終わりだ」

「そうか」


 暗い廊下を二人で歩き出す。といっても、世界が闇に閉ざされているわけではない。壁の所々でランプの蝋燭の火が燃え、窓からは明るい月明かりが差し入っていた。優しい、柔らかな夜だった。


 ヒルダを寝かしつけている間、アルヴィンはいつも部屋の前でユディトが出てくるのを待っている。

 ヒルダの護衛をする意図もある、とは言う。ヒルダに何かあった時にすぐ対応できるようにしているとも言う。

 だが一番の本音はきっと、これである。


「ヒルダばかりずるいぞ。俺だってお前に添い寝されたい」


 ユディトは顔が赤くなるのを感じた。


 彼はユディトと二人きりの時間を持ちたいのだ。

 しかし日中は彼も軍の仕事をしていて、夕方からはヒルダがユディトにべったりで離れない。

 ヒルダの寝室からヘリオトロープ騎士団の寄宿舎までのほんのわずかな道のりが、一日で唯一二人きりになれる時間だ。


 ユディトも、彼と二人きりになれるのは、嬉しいか嬉しくないかで言えば、嬉しい。話したいことはたくさんある。だが自分は口下手でうまく話せない。彼に想いを伝えるための時間がもっと必要だと感じていた。

 だが、こうまでして時間を作りたいかと言うと疑問だ。

 何せ、宮殿のあちらこちらに衛兵が立っている。時には侍女や、ひどいと宰相や女王とも出くわす。

 皆が見守ってくれているのである。

 恥ずかしい。


 アルヴィンの方はあの事件の時にたがが外れたらしく、人目をまったく気にしなくなってしまった。シュピーゲル城で二人で暮らしていた時は一度も言わなかったことを平気で口にするようになってしまった。


「早く結婚したい。お前を独占したい」


 顔から火が出そうだ。

 照れて下を向いたまま歩くユディトの頭を、アルヴィンの大きな手が撫でる。


 階段の下で兵士がこちらを見ていた。ユディトは彼の顔を見ないようにうつむいたが、アルヴィンはユディトの肩を抱いたまま兵士に「ご苦労」と声を掛けた。


「アルヴィン様」


 小声でたしなめる。


「このような、はしたないこと。少しは自重されたらいかがか」


 アルヴィンはしれっとした顔で答えた。


「もっと見せつけないとだめだ。お前の所有権がヒルダから俺に移ることを一人でも多くの人間にアピールしておかないと俺はおちおち寝ていられない」

「所有権とは……」


 堂々とした態度で、「これでも我慢してやっている」と言う。


「ヒルダが婚前交渉はだめだと言うから。俺がその気になればこのまま宮殿の俺の寝室にお前を抱えて帰れることを忘れるなよ」


 ユディトは唇を引き結んだ。

 それならそれでもいい。強引にベッドに引きずり込まれて荒々しく扱われたい。体に刻みつけるように。一生忘れないように。何もかも忘れられるように。生きながら楽園を見られるように。

 しかし彼の言うとおり、ヒルダが嫌がるのである。ヒルダがだめと言ったらだめなのだ。


 とはいえ結婚もヒルダが望んでいることだ。

 その日が来て式を挙げれば晴れて解禁だ。その後は何をしても許される。子供ができるようなことをしてもいい。むしろ子供を作るのは自然な夫婦の営みだ。

 少しの間我慢だ。それが節度であり人間らしい理性だ。

 無垢な少女の願いを叶えるのも大変だ。愛情豊かな結婚式に清らかな花嫁を望む彼女のおままごとに付き合う――これもユディトにとっては立派な職務なのだった。

 そしてそういうユディトをアルヴィンは尊重してくれる。口では文句を言うが、確かに、彼は毎晩ユディトを騎士団の寄宿舎に送り届けてくれる。


 むりやり寝室に抱えて帰る、という言葉から連想して、湖でのことを思い出した。あの時彼は軽々と自分を持ち上げた。

 彼は強い。誰よりも強い。ユディトが過去に出会い剣を合わせた相手の中では一番だ。

 そんな強い男の優秀な種を受けて子を宿す。

 自分はなんと幸福で恵まれた人間なのだろう。


 ユディトは彼の強さ以外の面も評価していた。

 南方師団と行動を共にしている間、彼はずっと冷静だった。ユディトに気を配りながらも作戦の遂行に尽力した。最終的に彼は一人でルパートを捕縛した。

 そういう判断力や状況を見通す力はユディトには欠けているものだ。あるいは、もしかしたら、そういう力も彼の強さのひとつなのかもしれない。敵わない、と思う。


 アルヴィンは文句のつけようのない男で、そんな彼とつがう自分は幸せ者で、女王の采配は間違っていなかった。


 正直なところユディトにはいまだに愛だの恋だのがよく分からない。だが、これからもずっと一緒にいたいと思うし、家族になりたいと思うし、二人の時間を大切だと思う。この感情に新しい名前を付ける必要性は感じない。ただただ、自分の中にある温かさのようなものを抱き締めて生きていたい。


 一度宮殿の建物を出た。


 半月が浮かんでいた。これから新月に向かって欠けていく。そして次に満ちる頃には大聖堂で結婚式が執り行なわれる。式の主役は自分だ。


 突然横から頬をつかまれた。

 手の方を向くと、アルヴィンがユディトを見ていた。

 正確には、アルヴィンはユディトの瞳を覗き込んでいた。目が合っているという感じではなかった。


「前々から気になってたんだが」


 右手で左頬を、左手で右頬を包む。親指で下まぶたを押し下げる。


「お前、変わった目をしてるよな」

「変わった目、とは?」

「瞳の色が。屋内で見ると金色みたいな明るい茶色なのに、月や太陽の光が入ると青っぽく見える」

「ああ、母がそうで、子供である私たち兄弟も皆こんな感じなのだ」

「舐めたい」


 顔に顔が近づいてきた。

 両手で頬をつかまれているので動けない。

 さすがに眼球は、と思って硬直していたところ、眉間に口づけされた。


「お前のこと、頭からかじりたいな。食いたい。どんな味がするんだろうな」

「そ、それは、困るが、何と言うか――」


 はあ、と、息を吐いた。


「私も。かじるだけなら、かじられてみたい」


 手が離れた。

 次の時、背中に手を回され、強く抱き締められた。


「かじるだけならな。本当に食ってしまって、お前がいなくなったら、俺は生きていけないから、かじるだけにしておこうな」

「そう……、かじるだけなら……」


 自分が死んでしまったらこの人は生きていけないのだ。

 彼に支配されているようで、彼を支配している。

 ひとは皆、こんな甘い恍惚感の中で生きているのだろうか。


 こうして服を着て抱き締め合っているだけでも溶けてしまいそうなのに、その時が来たら、自分はどうなってしまうのだろう。

 怖いと思わなくもない。

 でもそれ以上に、楽しみだ。


 この感情の名をユディトは知らない。



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