第5章 子作りを始める秋
第31話 王女ヒルデガルトの未来予想図
華奢な肢体に薄絹を纏った少女が、清潔なシーツに覆われた柔らかい布団に沈むように横たえている。
ユディトはその隣に体を滑り込ませた。彼女の傍近くに身を寄せた。
足元にたたんで置かれていた掛け布団を広げ、少女の――ヒルダの肩まで引っ張り上げる。自らの体も一緒になって、二人で一枚の掛け布団に包まる形を取った。
腕を伸ばし、ヒルダの肩を、撫でるように優しく叩く。
ヒルダが微笑む。
「ユディト」
彼女が擦り寄ってきた。ユディトの首元、胸の上辺りに頬を当てた。
「傍にいてくださいね。ずっと」
ユディトは「はい」と即答した。そうは言ってもただの添い寝で、幼子を寝かしつけるのと同じであり、ヒルダが眠りに落ちたら騎士団の寄宿舎の元使っていた部屋に戻っていいことになっているのだが、夜はそうと言わない約束だった。
ルパートに拉致された事件以降、ヒルダはしばらく激しい情緒不安定に陥ってしまっていた。一日に何度も入浴する、ユディトに添い寝をねだる、小さな物音にも過剰に反応して怯えるなど、痛ましい姿を見せることが多かった。体は五体満足の無傷で保護されたが、心は深い傷を負ったようだ。
それでも、彼女は口に出して直接つらいとは言わなかった。できる限り明るく気丈に振る舞おうとしていた。特に妹たちの前では以前と何ら変わりない姉であろうとしていた。
それがまた痛々しくて、ユディトは見ているだけで泣きそうになるのだ。
彼女を急かしたり責めたりする人間は一人もいない。宮殿にいるすべての人間が彼女を見守っている。ここは彼女にとって安心できる世界だ。
ユディトも根気強く付き合った。彼女が少しでも早く楽になれるよう全力を尽くした。罪滅ぼしでもあった。自分があの時リヒテンゼーでのうのうと過ごしていなければこんなことにはならなかったかもしれない。悔やんでも悔やみきれない。
少しずつ快方に向かってはいる。食事も以前と同じくらいの量を食べられるようになったし、外出することも増えた。それが救いで、希望であった。ヒルダは強い子だ。
「今夜は少しおしゃべりをしましょう」
ヒルダが言うので、ユディトは「はい」と頷いた。彼女の口数が増えたのもいいことだ。
「あのね、ユディト。驚かずに聞いてほしいのですけれど」
「はい、何なりと」
「わたくし、女王になりたい、と思っています」
ユディトは目を丸くした。
ヒルダは穏やかに微笑んでいた。
「なぜさようなこと、急に」
「急ではありません。ルパート兄様にお会いしてから、ずっと考えていました」
「ルパート様が何かおっしゃられたのか」
「はい。ルパート兄様は、わたくしをお飾りの女王にして、オストキュステの王子様と政略結婚をさせて、そのお婿さんになる王子様に家を乗っ取らせたいのですって」
そんな無茶を言っていたとは思わなかった。怒りが込み上げてくる。それをヒルダが今日まで黙って抱え込んでいた、というのもつらかった。だが、今は黙って聞くことにした。ヒルダにすべて吐き出させるのを優先させたい。
「その話を、お母様にもしました。そうしたら、お母様、まったく見当違いのことでもないですね、とおっしゃいました。つまり、わたくしをお母様の跡継ぎにすることを、お母様は、お考えになる、とのことです」
胸が締め付けられる。
そうなったら、我が子を普通に愛することも許されない、それでも誰かは王位を継ぐものと思って何人もの子供を産む人生が待っている。
「わたくしね」
ヒルダの声は穏やかだった。
「今回、宮殿の外には怖いものがたくさんあることを知りました。ずっと宮殿でお母様に大事にされていたから知らなかった怖いことがたくさんある」
わずかに微笑んでもいた。
「妹たちや、他のホーエンバーデン市民が、同じ思いをするのは嫌だ、と思いました。皆を守りたいです。では具体的に何ができるのかと思ったら、わたくしが女王として上に立ち、すべての市民の母となって良い政治をするべきだ、と思ったのですね」
ユディトは耐え切れなくなって言ってしまった。
「それは、女王陛下のように生きられる、ということですか。母上様の――ヘルミーネ様のように」
ヒルダは「心配してくださるのですか」と笑った。
「今回、お母様がどんな失敗をしてどんな困難を抱えているのか見えたので、わたくしはもっとうまくやりますよ」
たくさんのものと引き換えに、彼女は成長したのだ。
「そして――オストキュステの王子様と結婚してもいいと思います」
微笑んだまま、長い睫毛を伏せる。
「それが国の平和につながるのなら。戦争を回避できるのなら」
「ヒルダ様……」
「もちろん、国を乗っ取らせはしませんけれどね。あくまでこの国の統治者はわたくしですのよ、オストキュステの好き勝手はさせませんわ。だからこそ、迎え撃つつもりでお婿さんとして迎え入れてもいい気がするのです」
腕を回して、彼女を強く抱き締めた。それが王族のさだめなのだと思うとつらかった。彼女には気に入った男と誰からも祝福された結婚をしてほしかった。
「不幸であるとは限りませんよ」
ヒルダは言う。
「もしかしたら、とてもいい人かもしれません。びっくりするような美男かもしれませんよ。あのやり手のオストキュステ王のご子息ですから、頭のいい方の気がします。何も悪いことだけではないのです」
抱き締めたまま、ヒルダの頭を撫でる。ヒルダが声を漏らして笑う。
「ただ、ひとつ、心配なことがあって」
「何がですか」
「ユディトとアルヴィン兄様の子のことです」
言われてから気がついた。
「もともとはお母様がアルヴィン兄様の子を王位継承者とするために子作りをせよとおっしゃったのに、わたくしが女王になってしまったら、わたくしの子の王位継承権の順位が高くなってしまいます。それは、ユディトにとってはがっかりではありません?」
ユディトは言葉に悩んだ。女王の振る舞いを見ていて我が子を王にしたくないと思ってしまったことを思い出したからだ。しかしそれは女王になろうとしているヒルダの気持ちを挫くことになりそうな気もする。口下手なユディトにはうまい言葉が浮かばない。
「まあ、どうなるかは、分かりませんけれど」
ユディトの首に額をこすりつけつつ、ヒルダが囁くように言う。
「お母様も、すぐには行動に移さない、とおっしゃっていましたし。何せ、今動いたら、ルパート兄様の要求を呑んだことになるではありませんか。ルパート兄様の反逆に膝を屈したと思われるのが一番いけないことです」
ルパートのことを思い出す。
彼は一度南方師団の駐屯地の収容所に入れられた。後で罪人として王都に移送する手筈になっていた。
ところが、ある日、収容所から忽然と姿を消した。
南方師団にも裏切り者がいて、ルパートの脱走に手を貸した、ということだ。
当然南方師団は威信をかけて内通者をあぶり出そうとしているが、今のところうまくいっていない。
女王はルパートが関与していたことを公表しなかった。建前上は、王族が国家の転覆を企んでいたということが知られたら国際社会がどう見るか分からないから、ということになっているが、本心は分からない。
オストキュステ製の銃も南方師団の駐屯地の奥深くに封印した。何かあった時の切り札に、とは言っていたが、現状ではとりあえずオストキュステと正面衝突することを避けたいのだろう。
女王の判断は正しいと思う。この動乱は国内で収めなければならなかった。
ヴァンデルンの一部は処罰されたが、直接の実行犯であるヴァンデルン解放戦線を名乗った者たちを処刑しただけで、彼らの部族に累が及ぶことはなかった。
ヴァンデルンの大半はおとなしく自治区に引っ込んだ。
自治区についても、女王は待遇の改善を検討している。彼らがもっと自由に出入りできる法を考えたり、彼らの文化をホーエンバーデン市民に広めて相互理解を深める策を話し合ったりなどしている。
この辺りの交渉はあの時南方師団の駐屯地にやって来た三人が先頭に立って応じてくれているようだ。彼らは陰に日向に手を貸してくれる。解放戦線を完全に沈黙させたのも彼らだ。
今回の件で一番の深手を負ったのは、本当は、女王なのかもしれない。
だが彼女は、それでも前を向いて、状況の改善に努めている。
ヒルダもそういう女王になるのだろうか。
でも今はまだ十四歳の女の子で、深く傷ついている。
「ユディトは、ヒルダ様のなさることを、全面的に応援します」
ヒルダの耳元で囁いた。ヒルダが少し笑いながら「ありがとうございます」と答えた。
夜が、更けていく。
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