第30話 記念すべき第一子はリヒテンゼー製にしような

 中庭をまわって、玄関ホールに通じる戸を開けた。


 まず目に入ってきたのは、床に広がる血の跡だった。しかし出血している人間はホールの中にはいなかった。すでに片づけた後なのだ。


 南方師団の兵士たちが、捕縛したヴァンデルンの男たちを引きずって家の外に出ようとしている。ヴァンデルンの男たちはもはや抵抗する気はないようで、おとなしく連れ出されていた。


 その少し手前、部屋の真ん中辺りの壁際に、アルヴィンがいた。怪我をしている様子はなかった。先ほど別れた時のままだ。ユディトは心底安心して息を吐いた。


 だが――アルヴィンの足元に座り込んでいる人物の顔を見た時、頭が真っ白になった。

 王家の一員らしい、光り輝くブロンドの髪に碧の瞳の、人形のように美しい青年だった。

 ルパートだ。

 胸から腕にかけてを縄で縛られ、上半身を動かせない状態で、ルパートが座り込んでいる。


 一拍間を置いてから、いろんな感情が噴き上げてきた。


 まずは怒りだ。

 兄でありながら実の妹を危険な目に遭わせたことに対する怒り、ユディトの同僚であるヘリオトロープ騎士団の人間を二人も殺したことに対する怒り、王族でありながら仮想敵国からの武器の密輸入を認めたことに対する怒り、少数民族を煽って対立させたことに対する怒り――いろんな怒りが込み上げてきた。


 次に沸き起こってきたのは悲しみだ。

 いったい何が彼を思い詰めさせたのか。

 黙っていれば王冠は彼のものになるはずだ。王になればできないことはない。それこそ、ヴァンデルンを独立させようが滅亡させようが彼の思いどおりだ。なのに自分の国を動乱に陥れたかったのか。

 彼が思い詰めていることに誰も気がつかなかったのか。


 ヒルダの細い指がユディトの腕をつかんだ。その指の力を感じることで、ユディトは我に返った。

 落ち着いているかのように振る舞わなければならない。そうすればきっとヒルダを安心させられる。ヒルダのことを思うなら、自分は何も言わずにおくべきだ。

 細く、長く、息を吐いた。


 南方師団の幹部である大佐が玄関扉から入ってきた。

 その次に入ってきた人物を見て、ユディトは目を丸くした。

 深い臙脂色の、足首まで覆う丈の乗馬スカートをはいた女だった。今まさに馬からおりてきたばかりなのか手には乗馬用の鞭を携えている。長いバターブロンドの髪は後頭部でひとつの団子状にまとめていた。


「母上」


 彼女――女王ヘルミーネは、無言でルパートに歩み寄った。

 ルパートは逃れようとしたのか尻で少しだけ後ずさったが、上半身を拘束されている上アルヴィンに服の襟をつかまれているので大して動けなかった。


 女王が鞭を振り上げた。

 ひゅ、という空気を切り裂く音の後、破裂するような乾いた音が鳴った。鞭の先がルパートの頬を叩いたのだ。

 ルパートの頬にうっすら血が滲んだ。

 四ヶ月前だったら、目の前でこの愛息子が鞭打たれたとなれば、女王はその者を地下牢に送り込んだことだろう。だが今は他ならぬ彼女自身が息子を打った。


 ルパートの碧の瞳に感情が映った。焦燥、不安、動揺、困惑――心が乱れた。


「なぜ母上がここに? ニーダーヴェルダーにいたはずです」


 女王は低く抑えた声で答えた。


「私が馬に乗れないとでも思いましたか? ニーダーヴェルダーの都からホーエンバーデンの都まで二日、ホーエンバーデンの都からリヒテンゼーまで二日です。時間は充分にありました」


 自ら馬を駆って戻ってきたのだ。かつては軍を率いて戦っていた勇ましい女王の姿であった。


 ルパートが唸るように言う。


「ホーエンバーデンに戻ってきたらヒルダを殺すと言ってあったはずです。それでも帰ってこられたのですね」


 女王は冷静な声で答えた。


「娘一人の命とホーエンバーデン王国を引き換えにできません」


 ヒルダの指が、ユディトの腕に食い込む。


 ルパートは声を上げて笑った。


「それが母上の本性なんですね。我が子でさえ政治のためなら殺す。母上は本当はそういう人間なんです」


 その表情が憎悪で歪んだ。


「自分の子供を人間だと思っていないからできることです。あなたは本当は誰も愛してなどいない。自分にとって都合のいい子を育てたかったんです」


 女王は長い睫毛を伏せた。


「そうかもしれません」

「認めるんですね?」

「それが王族ですから」


 ルパートが黙った。


「多くの無辜の民のために私情を捨てられる者。それが王たる者の条件です。子供たちにも自分をただの人間だと思ってもらっては困ります。自分たちは常に人目に晒されており、自らの振る舞いが国の運営に適うものかを試され続けている――それを意識してもらわねばなりません。それが人間扱いではないと言うのならばそうでしょう」


 彼女はなおも冷静で、淡々と言葉を紡いだ。


「私が子供を産み続けたのは王家のため、ひいてはホーエンバーデン王国のためです。王家が絶えれば必ず跡目を巡る争いになります。その争いを避けるため、他者から見て分かりやすい王位継承者を作る必要がありました。国にとって都合のいい子供を作る必要がありました」


 ルパートが頬を引きつらせる。


「あなたは国にとって都合の悪い王子です。私は女王としてあなたを処分せねばなりません」


 そこで、南方師団の幹部の方を向いた。


「連れていきなさい。南方師団の駐屯地の捕虜収容所に入れておいて、後日王都に送りなさい」


 幹部の方が戸惑った様子で「しかし、ルパート王子ですぞ」と言う。女王は「だから何だと言うのですか」と冷たい声で言った。


「陛下はルパート王子をあんなに大事になさっておいでで――」

「反逆者です。国家反逆罪です」


 背筋にぞわりと鳥肌が立つのを感じた。

 断頭台送りだ。女王はルパートをギロチンで処刑する気なのだ。

 だが誰にも口を挟めない。

 ルパートは女王を廃して国を滅亡させようとした。オストキュステにホーエンバーデンを売り渡そうとしたのだ。オストキュステ製の銃という物的証拠まである。

 女王が私情に流されて息子を許せば、次の反逆者を生む。


 しかし、あまりにも、むごい。


 ユディトは、自分は一生産んだ子供を王にしたいとは思わないだろう、と思った。


 南方師団の幹部が兵士たちの方を向いて「お連れしろ」と言った。

 兵士たちがルパートの方に向かっていき、ルパートを強引に引っ張り上げて立たせた。アルヴィンがルパートから手を離すと、先ほどヴァンデルンの男たちにしたように、玄関扉の方へ引きずっていった。

 ルパートは抵抗しなかった。


 しばらくの間、誰も何も言わなかった。ただ、ホールの中心に立つ女王を見つめていた。

 女王はアルヴィンの足元を見ていた。先ほどまでルパートが座り込んでいたところだ。

 彼女に掛ける言葉が見つからない。


 ややして、女王が顔を上げ、こちらを向いた。正確には、ユディトの後ろにいるヒルダを、だ。


「ヒルダ」


 そう呼ぶ声は優しく、慈悲深い母親のものだった。


「こちらにおいでなさい」


 ヒルダはユディトの腕から手を離した。一歩前に出た。しかしそれ以上は動かなかった。ユディトのすぐ傍に立ったまま、無言で母親を見つめていた。

 女王の方が近づいてきた。両腕を伸ばした。

 強く、強く、娘を抱き締める。


「生きていてくれてよかった」


 その声が震えた。


 ヒルダの碧の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始めた。


「でも、お母様は、お兄様が私を殺しても、仕方がなかったとお思いになるのでしょう」

「そうですよ」

「国のために死ぬのだから、仕方がなかったとお思いになるのでしょう?」

「そうですとも」


 声だけではない。ヒルダの後頭部を撫でる手も、震えている。


「母を恨みなさい。お前の母は、まともな母親ではありませんよ」

「はい」


 ヒルダは母の耳にこめかみを押し付けるようにして擦り寄った。


「娘のヒルダは、母であるヘルミーネ様をお恨みしますが。第三王女ヒルデガルトは、女王であるヘルミーネ陛下が大好きです」


 次の時、ヘルミーネの頬にも涙が幾筋も流れた。


 母と娘は、しばらくそのまま抱き合っていた。


「……まあ、とりあえず、ヒルダを保護できて、第一部完、といったところか」


 気がつくと、アルヴィンがユディトのすぐ傍に立っていた。


「片づけないといけないことはまだまだあるが、一回休憩できそうだな」


 ユディトの斜め前に立っていたロタールが「そうですね、お茶でも飲みます?」と問い掛けた。


「シュピーゲル城に帰りたい」

「まあ、だめではないと思いますけど。何かあるんですか?」


 アルヴィンが肩に腕を回してきた。

 ユディトは蒼ざめた。


「早急に子作りがしたくてな」


 まさかこのタイミングで言われるとは思っていなかった。急に自分の言動が恥ずかしくなってきた。あの時は興奮していて何でもできる気になってしまっていたのだ。勢いに任せてとんでもないことを言ってしまった。そんなにすぐ子供ができるようなことをするはめになるとは思ってもみなかった。


 彼の顔を見上げた。

 彼は薄ら笑いを浮かべてユディトを見下ろしていた。


「産んでくれるんだよな?」

「……えっ、あ、あれは――」

「俺はお前に種付けすることだけを考えてここまで頑張ったんだから、ご褒美を貰ってもいいはずだ」

「それは、その――あの時は、言葉のあやというか――何というか――」

「記念すべき第一子はリヒテンゼー製にしような」

「あ、あの、アルヴィン様、あの――」


 そこで、だった。


「だめですっ!」


 力いっぱい言ったのはヒルダだ。

 彼女の方を向くと、母から身を離して、いつになく怖い顔でアルヴィンを睨んでいた。


「婚前交渉なんていけません! そんなのわたくしが許しません!」

「何をいまさら」

「他の誰が許してもわたくしはだめですからね! そもそもユディトはわたくしのものなのです、わたくしが兄様に譲ってさしあげるのですから、わたくしがいいと言うまでは触らないでください!」


 女王も何事もなかったかのような顔で言った。


「今のユディトの反応から鑑みるにまだ準備が整っていないものと思われます。ここで強引に進めるのは紳士のすることではありませんよ」


 エルマが「ヒルダ様がだめって言うんじゃあたしもだめかなー」と手の平を返した。ロタールもあっさりと「無理無理、この状況じゃ僕が味方したくらいじゃ無理ですよ」と言ってアルヴィンを見捨てた。

 アルヴィンが「くっそ!」と吐き捨てた。


「絶対絶対絶対結婚したらすぐ孕ませてやるからな!!」




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