ep.5◆赤く染まる夜
満月と半月の間のような、半端に欠けた月が浮かんでいた。
屋根裏部屋の窓に寄りかかって、ガラス越しの夜空を見上げる。風でも出ているのか、月光に照らされた雲の流れは、やけに速く見える気がした。
いつの間にか都合よく晴れてたけど。この天気、終わるまでもつかな。
思いながら一度袖をまくり上げて、出てきた右腕の包帯を、するすると解いた。
ケイシーが忘れろって言った言葉。これまで感じていた疑問が、あれで全部腑に落ちた気がする。
なんでそこまでティアを気にかけるのか、自分のことなのにずっとわからなかった。
わかんないから、どうせ絆されただけなんだって結論づけて、考えるのをやめてた。
でも、そっか。
『結局アルちゃんは、救われたかったから助けたのね』
『救われたかった』のは俺自身だったんだ。
俺がいつまでたっても、現状を抜け出せないから。現実逃避のためにティアと自分を重ねて、その上で助けて。そうすることで、擬似的に救われた気になりたかっただけ。
言われてみれば、確かに一度思ったことがある。ティアに、俺自身を重ねてるのかもしれないと。
きっと他の誰かよりも、自我のない空っぽの人形の方が、自分を重ねやすかったからだろう。
じゃあ本当は、ティアなんてどうでも良かったんだ。最初から全部、自分のためでしかなくて。
そんな打算まみれの自己満足に必死になってたなんて、馬鹿みたいだ。
立て膝に頬杖をつきながら、ぼんやりと夜空を眺める。そうしてひたすら暇を潰していたら、しばらくして階下から音が聞こえてきた。
小さく響く、金属が擦れるような──扉の鍵を開ける音。
その後に扉が開閉される音が続き、ゆっくりと階段を上る足音がして。
「……さっきぶり」
階段口の方へと顔を向けると、窓から差し込む月光の中に、ティアが居た。
屋根裏部屋は独立した構造だから、隣室を気にする必要が無い。高さ的に、外から覗かれることもない。
鍵さえかければ外と隔絶されるこの空間は、後ろ暗いことをするにはうってつけの場所だ。
「今渇いてる感じ、する?」
近くに寄って来たティアを見て、窓に背を向けて座り直す。そうすると月光の差す位置は背後からに変わって、途端に手元は暗くなった。
代わりに対面の位置に腰を下ろしたティアは、明かりに照らされてよく見える。ゆっくりと首を横に振る、その神妙な面持ちも。
「……いいえ」
「そ。じゃあやっぱ、このくらいでちょうど良いのか」
四日に一度、この部屋で俺は、ティアに血を分けている。
本来一度に必要な血の量は、大人まるまる一人分なんだという。それで二十日ぐらいは持つんだと。でもさすがに全部はやれないから、ちょっとずつ、その分間隔を狭めることにした。
少量ずつのせいか、前みたいにティアの外見は戻らないけど。
「月が出てるうちに終わらせよ。今日俺、疲れたからそろそろ寝たい」
言いながら右腕の袖を肘上までまくる。その後で、傍に置いていた折りたたみナイフを拾い上げた。
逆光になっている自分の手元は、上から見下ろしてもほとんど真っ暗だった。
ナイフの刃を出してから、左手で握り直す。手探りで右腕の表面に刃先を這わせ、ヒヤリとした温度を感じたらそのまま固定。
一つ息を吸ってから、そのまま刃を引こうとした時。
「待って」
突然伸びてきた手に遮られて、思わず固まった。
「今日は、いいです。いらない」
ナイフを持つ左手の甲に、指が触れている。まるで制止するかのように。
一呼吸の後に視線をずらすと、ティアは何故か悲痛そうな顔を浮かべていた。
「なんで?」
「ごめんなさい。私、忘れてたの。ここしばらく、怪我とは縁がなかったから」
……怪我。
「傷は数日程度じゃ、治らないんだよね」
どこか後悔が滲むような声に、視線を逸らす。
ついに、ばれたっぽい。
まぁ元々、ずっと隠し通せるとは思ってなかったけど。なんでわかったんだろ。いつもこの位置関係を守ってたのに。
見下ろした右腕は身体の影に隠れてて、薄暗い輪郭しかわからない。そこに無数にあるはずの切り傷も、やっぱりよくは見えないまま。
なのに「ごめんなさい、痛いよね」と聞こえてくる声には、妙に確信がこもっていた。
「……別に、そんなでもないよ。このくらいならたいしたことないし、慣れてる」
こういうのが、嫌だったんだけど。
俺はそんなに気にしてないのに、横から勝手に腫れ物に触るような扱いをされる。何を言っても信じないから、一度伝わると取り消せない。
そういう無意味な心配、求めてないのに。
「慣れちゃ、だめだよ」
どう言ったら納得するんだろう。苦い思いで言葉を探していると、不意に前から声がした。
「痛み自体に慣れることはないの。それこそ神経でも切られない限り、痛覚は簡単には鈍ってくれないから。感じる痛みは、薄れはしないから。──それでも慣れたというのなら、それは耐えることに慣れているだけ」
「……」
「だから痛みには、慣れたらだめなの」
やけに真剣な顔だった。
月明かりに照らされたその瞳の奥には、強い光が宿っている。いつもは見せないような、意思のこもった珍しい表情。
だけどなんで今、そんなことを言うのかがわからない。
「そんなに俺が痛がる顔が見たいの?」
首を傾げると、ティアの目が丸くなる。
「っちが──」
「趣味わる」
「違う、違うの、そうじゃなくて。私はただ」
そのまま何かを言おうとしたティアは、不意に言葉を詰まらせる。戸惑うようにしばらく目線をさ迷わせてから、「血、いらないから。傷は増やさないで」と、小さく零して。
その的はずれな言い分に、だんだんと白けてきた。
『魔女と和解した』と聞いたのはだいぶ前、俺の熱が下がったあたりの頃だ。
知らない間に全部終わってて拍子抜けしたけど、ティアはやけにすっきりした顔をしてた。でも和解
したと言う割には、呪いはそのままで。
呪いが残っている限り、血を飲む必要性は消えてない。飲まなきゃだんだん理性が鈍っていって、そのうちまた狂気に堕ちる。
『いらない』で済む問題じゃない。
「今飲まないならその分どうすんの。他にあてある?」
「っ、あの、しばらく我慢します。できるから、だから!」
「本気で言ってる?」
目を細めて聞き返すと、ティアは身体を強ばらせた。
「自分の意思で制御できない状態を、根性論でどうにかできるわけないだろ。都合の悪いとこだけ忘れてんな。ちゃんと現実見ろ」
「……っ」
「自分が渇いてる時のこと、細部まで思い出せよ。抑えが効かないからって自殺までしかけて、それでも我慢できなかったから、ずるずるとここまで来てんだろ。変に楽観視してまた正気失われても、俺も困るんだけど」
「っだけど、ずっとこのままは」
「じゃあどうすんだよ」
他に案もねぇくせに、あれも嫌これも嫌って。それじゃどうにもならないこと、いちいち言わないとわかんねぇの。
「だったら代わりに、また誰か殺してくんの。それともこのまま飲まずに狂って、俺を食い殺す? どっちも嫌なんだろ? 目の前に都合のいい餌がいるんだから、躊躇ってないで使えよ。何が不満なんだよ」
「ちが、う。ちがうの。私じゃなくて、アルテが」
「俺がなに」
「……これ以上、私のせいで傷つけたく、ない」
声は弱々しいのに、表情がやけに必死だった。
端々から滲んでいる相変らずの心配の色に、ため息を漏らす。
「──ああもう、めんどくせぇな」
俺がいいって言ってんだから、それでいいじゃん。
その程度のこと、気づいたって見てないふりして、蓋でもしとけばいい。そんなとこ突っ込んだって、ろくなことにならないんだから。
ティアは他の誰も殺す必要がなくて、俺は別に死ぬまでいかない。ここで血をやる分には誰にバレる心配もないし、その分リスクがぐんと減る。
全ての条件が綺麗に整った、この上なく都合のいい状況だ。
そもそも、この現状をこそ望んでたんじゃねぇの。
なんでわざわざ自分から問題掘り返して、状況ややこしくしようとしてんだよ。
馬鹿じゃねぇの。
「人がどうこう言ってる余裕あんの? 他にあてもねぇくせに」
言うとティアは反論もしないまま、唇を引き結んだ。なのに目には強情な意志を宿したままで、無言で首を振り続ける。
このまま延々と平行線になりそうな気配に、うんざりした。
もういいや、さっさと終わらせよう。どうせ一口飲ませれば黙るんだから。
手早く切ってしまおうと、左手のナイフを構え直す。
そのまま力を込めようとした途端、また伸びてきた手が甲に触れて。
「っの、いい加減に──」
顔を上げながら言いかけた言葉は、途中で途切れた。
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
突然右肩を掴まれて、そこに体重がかかってくる。身構えてなかった身体が押されるままに後ろへ傾き、今まで距離があったはずの顔が、すぐ傍まで迫って来て。
右の首筋に、生暖かいものが触れたと思った瞬間。
「いっ……ぅ」
ガリ、と。
すぐ側で音を聞いた時には、首筋に激痛が走っていた。
直後ふらふらと身体を起こすその姿を、床から呆然と見上げる。
窓から差す月明かりが、腹に跨るティアの表情を、嫌になるほど照らしていた。
青い瞳に、狂気の片鱗がちらついている。見下ろしてくるその視線は、まるで獲物を値踏みする、捕食者のような鋭さで。
唇を濡らす血をゆっくりと舐めとりながら、ティアは妖しく微笑んだ。
あ、やべ。
食われる。
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