ある望月の夜の底
ep.13◆闇間の足音
チリンチリン、と横から鈴の音が近づいてきた。
寄ってきた黒猫が、傍の地面で丸くなる。それをちらっと見下ろしてから、外壁にもたれて空を見る。
夜空には雲ひとつ浮かんではいない。ただ白くて大きな満月が、星が霞むほど明るく光っていた。
今日で七日目、いや、八日目? どっちだったっけ。
相変わらず探索の成果はない。なんの変化もない毎日に、日付の感覚が狂ってきてる。
いつまで探せば見つかるのか。
いつになったら出られるのか。
そもそも本当に、出口はあるのか。
月を見上げながら、どれくらい経ったのかわからなくなった頃。ふと静けさに慣れ始めた耳が、微かな音を拾い上げた。その音に、我に返る。
これ、なんだろ。何か、草が擦れるみたいな。
……足音?
壁から背を離し、足音を殺して歩く。耳を澄ませて音を辿れば、やがてレンガ塀の前に出た。
下の方には長い雑草に隠れるくらいの目立たない格子扉と、人影がひとつ。高い塀が影を落として、暗がりは見えづらい。
何かが地面に落ちるような、小さな音がした。
その直後あっさりと扉を押し開けた影は、そのまま扉の先へ消えていった。
南京錠が落ちている。
開け放たれた扉に手を伸ばすと、指先は簡単に扉をくぐった。見えない壁が、消えてる。
視線をあげると遠くの方に見えるのは、木々の下で動く人影。距離があるせいで、ろくに輪郭も把握できないけど。
でも、その後ろ姿に。
「……ティア?」
何故かしばらく前に見た彼女の背中が、重なった気がした。
◆
何だかずいぶんと、久しぶりな気がする。
森を抜けると、遠目にごちゃごちゃと粗末な小屋が固まっているのが見えた。距離のあるここからでもはっきりとわかるのは、単に満月光が明るいせいだろう。
イーストエンドのバラック地区。街の外に張り出すような形をしたあのごみ溜めは、森から一番近い場所にある。
「ん?」
目の前の景色を見渡してみて、首を傾げる。この森とイーストエンドの間には、そこそこの距離の草むらが広がっている。それに今は月光もあるから見晴らしはいい。なのに追ってきたはずの人物が、そのどこにも見当たらなかった。
確かに一度、森の途中で見失った。でも進む方向はこっちだったし、ここまで来ればまた見つかると思ってたのに。
森の中で追い越したんだろうか。
どうしよ。とりあえず、もうちょっとだけ待ってみるか。迷いながらそう思った時、急に後ろでチリンと聞き慣れた音がした。
「え」
なんで。
想定外の音色に思わず振り返る。森の中から聞こえてくるのは、高く小さな鈴の音。
少しして傍の茂みが動いたかと思えば、中から見慣れた黒猫がひょっこり出てきた。
「……いや、何当然みたいな顔してついてきてんの」
ここ城の外だけど。
顔をしかめても、目が合った黒猫はお構い無しに寄ってくる。周りが静かなせいか、首輪に下がる鈴の音がやけに響く気がした。
「あのさ、今おまえに構ってる暇ねぇの。邪魔だから帰れよ、音がうるさい」
そんなうるさいとすぐバレる。それに街まで行くかもしれないんだから尚更だ。
基本的に夜のイーストエンドはどこも静かだ。人工的な明かりがない道は、天気が良い時以外は真っ暗闇。だから普段から夜出歩く人は滅多にいない。
でも外に人が居ないってだけで、薄い壁越しには溢れかえってる。そんな中を鈴の音鳴らして歩いたりしたら、目立つどころの騒ぎじゃない。
するりと目の前を横切って行った黒猫が、いつものようにちらちらと振り返ってくる。
いや、何してんの。ここ城の外だってば。
「だから帰れって。そもそもおまえずっと城にいてここらの地理とかわかんの。そんなんでどこに連れていこうって…………ん?」
言ってる途中で気がついた。
そういや、この猫。
「おまえもしかして、俺が探してる奴わかる?」
半信半疑で尋ねると、猫はすぐ同意するように鳴いた。
「そいつが行った方向、わかる?」
続けて鳴く黒猫に、思わずため息が出る。いや、なんでわかんの。まじでわけわかんねぇこいつ。
「案内してくれんの?」と駄目押しに聞けば、これにもにゃーと返されて。ああうん、そういうこと。それでついてきたのか。
まぁ相手の位置もわかんなくなってたし、助かるっちゃ助かるけど。でもやっぱ、鈴はうるさいんだよなぁ。
少し悩んでからその場にしゃがむ。「ちょっと来て」と手招くと、猫は素直に寄ってきた。そのまま首輪に手を伸ばし、ぶら下がった鈴を摘む。
月明かりに目を凝らしてみると、どうやら首輪に細い紐で括り付けられているらしい。
「いいか、絶対動くなよ」
右手を腰のポーチに伸ばして、中から折りたたみのナイフを取り出す。
出した刃先で鈴が通されている紐だけを手早く切ると、手の中の鈴を上着のポケットへ突っ込んだ。
「終わり。どうぞ」
◆
鈴さえ外せば猫はとても静かで、身体が黒いのも相まって、目を離すと見失いそうだった。
月明かりに照らされてるのは、あちこちに乱立している、吹けば飛びそうなバラック小屋の群れ。鼻につく淀んだ悪臭は、以前はあまり気にならなかったものだ。しばらく古城にいたから、清涼な空気に慣れてしまったのかもしれない。
通りの端に積まれた廃材とごみの山を横目に、剥き出しの土の上を歩く。見渡す限り人影はない。時々バラックの間の路地から、人の寝転んだ足が覗いている。
黒猫の先導でここに来たということは、俺は森でかなり引き離されていたらしい。あのまま待ってても意味なかったのかと思うと、なんだか微妙な気持ちになる。
ただ、この辺りにもまだ探し人は居ないみたいだ。迷いなく進む猫の視線は、この先の廃墟街の方へ向いていた。
今思えば、あれは本当にティアだったんだろうか。
あの時すぐに声をかけられなかったのは、遠目でも明らかに様子がおかしかったからだ。
数秒だけ見た背中はやけにふらついていて、それなのに意外なほど足取りは早かった。
一度、ティアがいた部屋に確かめに戻ればよかったのかもしれない。でもそうすると、あの時の誰かを見失うのは確実だったから。
それとも全部が俺の勘違いで、あれはティアじゃなかったんだろうか。
もしかしてあれこそが、話に聞いた魔女なのか。
ごみに溢れたバラック地区を抜けると、馴染んだ廃墟街の風景が広がる。しばらく進んでいくと、いくらか空気はマシになってきた。
建物が高いせいか所々月光が遮られて、辺りはどこか暗く感じる。
瓦礫の散乱する石畳の道は先程よりは整備されているけど、所々にあるガス灯は、ずいぶん前から使われていない。硝子にこびり付いた煤は手入れされることも無く、放置されたままだった。
結構歩いたはずなのに、全然辿り着く気配がない。ここまで来ても、まだ居ないのか。これより先ってなると、出来れば行きたくないんだけど。
そもそも、本当にこっちで合ってんの。そう思い始めた時、不意に猫が動きを止めた。
「……? 何?」
小声を投げても猫は反応しない。ただ少し顔を上げて、黒い耳をピクピクさせてる。
音でも拾ってる? でもこの辺りはいたって静かだ。遠くに聞こえるあれは、確か歓楽街の方向だし。関係なさそう。
思いながら、少しだけ通りの先を見たのがまずかったのかもしれない。
足元に視線を戻した時、いつの間にか黒猫は消えていた。
「え」
慌てて辺りを見渡す。月光が差す大通りには、猫の姿はない。どこか路地にでも入ったのか。鈴取ったのが仇になった。
どこいったんだろう。
ここから、どっちに進めば追いつけるんだ。
とりあえず、一番近い路地でも覗いてみようか。思いながら右の路地に目を向けた時、ふと脳裏にひとつの懸念が過ぎった。
──そもそも、あの猫は本当に信用出来んの?
「……あれ」
なんで、今更になって。
いや、でもそうだ。探索初日に思ったはずじゃないか。あの猫は魔女のしもべだって。なのになんで俺、ここまですんなりついて来てんだろう。
そもそも追いかけて来たあの人物だって、中身がティアか魔女かなんてわからない。魔女だったらろくなことにならないのは、考えなくてもわかるのに。
思考も警戒心も鈍ってんのは、ずっと停滞したぬるま湯の中に居たから?
それとも、なんだかんだ長く一緒に居た猫のせい?
右の路地を見ながら、消えた黒猫の行動を思い出す。城の外までついてくるのも、迷いなくここまで連れてこられたのも、明らかに不自然だ。
……罠だったりするんだろうか。
引き返した方がいいのかもしれない。
『ここに二人、閉じ込められてさえ居なければ、あの人の目論見通りにはならないから』
ティアは、抜け出せたらもう来るなと言っていた。
少なくとも、俺は今外にいる。なら、いいんじゃないのか。猫もあの人物も放置して、このまま家へ帰ってしまえば。
だってもしあれが、ティアだったとしても。ティアは、ずっとおかしかった。閉じ込められた日から、ずっと。
何かを隠して、部屋に閉じこもって。拒絶するように、何をしても一切の反応がなくて。
膨れ上がった不信と不安を、カタカタと笑う骨の音を、否定できるだけの材料がない。
──あの日。
閉じ込められる前に、顔色の悪い寝顔を見ながら、俺は。
放っておくと死にそうだからと。もう少し傍に居ようと、思ったはずだった。
だけどそれは、俺の命と天秤にかけるほどのことなんだろうか。
小さく息を吸う。汚れた空気が肺いっぱいに広がる。
ここはイーストエンド。半無法地帯の掃き溜め。
ここで生き抜くために必要なのは、情じゃない。生への執念と、慎重さと、割り切りだ。
そう、ただ初心に戻ればいいだけだ。それだけの簡単なこと。
いっそのこと、全部忘れたふりをして、このまま。
わかってる。冷静に考えろ。
どうすればいいかなんて、わかりきってる。
わかりきってる、はずだ。
悲鳴が聞こえた。
その声に、我に返った。
とっさに振り返る。聞こえてきたのは後ろの方。今まで見てた右じゃなく、左の方の、路地の先。
小さく高い声だった。女か子供が発したような。
音が聞こえてくる。早く規則的な足音に、荒い息遣い。だんだん大きくなるその音に、足を引いた。
イーストエンドで起こるトラブルはそれ程珍しいものじゃないし、大概がろくでもない。巻き込まれるのはごめんだ。
そう思いつつも素直にここを去ることが出来ないのは、先程の悲鳴と探し人との間に、奇妙な共通点があるせいか。
何だか、嫌な予感がする。
警戒しつつ路地から距離を取る。その後すぐ飛び出してきた小柄な人影を見て、予想外の正体に、目を丸くした。
ティアではない。でも、知っている顔だった。
「エリ?」
七、八歳くらいのその少女は、あの崩れ掛けの建物の中で、寝泊まりしている子供の一人だ。
なんでこんな所に居るんだろう。夜は通り魔を警戒して、外には出ないって聞いたのに。
エリと目が合った瞬間、限界まで見開かれた瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
勢いのまま突っ込んでくるのを思わず抱きとめる。走りすぎたのか、激しく咳き込むその様子を見下ろしながら、ふと服の胸元に目がいく。
飛沫がかかったように、まだらに染まったそこからは、血のにおいがした。
ヒューヒューと喉を鳴らしながら、エリは顔を上げる。その目に涙を貯めたまま、小さく掠れた声で、囁くように懇願した。
「たすけて」
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