insane or innocent ◇3
目の前で交わされる二人のやり取りを、数歩横からぼうっと眺めていた。途中で訪れた家の女性と、一緒に来た彼とのやり取りを。
「え、待て待てなんの連絡もないぞ。診療所で寝てるて……でもアルちゃんだよな? なしてそんなことに」
「怪我と貧血と高熱だ」
「わーお三重苦。ヤバいね。てかなしてそれで連絡ないん」
「知るかよ。だから呼びに来た」
「あー……りょーかい、理解した。わざわざすまんね、たぶん馬鹿兄貴のいつもの横着だわ」
アルテの知り合いである彼の名前は、ジェイドと言うらしい。対する二十代くらいの背の高い女性は、ケイシーという名らしかった。
どちらも直接名乗られた訳ではなく、二人の会話の中から私が名を拾っただけだ。
というより最初から私は蚊帳の外で、ケイシーさんに気づかれもしないまま、話においていかれている。
◇
遡ること少し前。寄るところがある、と言う彼に続いて辿り着いたのは、四階建てくらいの集合住宅だった。
彼が二階にある扉のひとつを叩き、『ケイシー』と呼びかけて。その時中から出てきたのが、この女性だったのだ。
少し赤みがかった茶髪はうなじが見えるくらいに短く、切れ長の眼差しは、どこか冷たそうな印象を受けた。
『どちら様?』と眉根を寄せる表情と声音には、不審感が顕著に浮かんでいて。
ただ彼──ジェイドが名乗った後は少し驚いた後に、その雰囲気を一変させた。
『しばらく見とらんから分からんかった、成長したね』と言うその笑みは、第一印象とは正反対の、朗らかなものだった。
その後にジェイドが、簡単な経緯を説明していたのだけど。
ぼんやりと回らない頭のまま、玄関口で交わされた会話を一通り反芻する。どうやら、ケイシーさんが診療所に来る、という方向で話が纏まったらしい。
ここに来るまで一切の説明がなかったから、どうしてここに寄ったのかと思っていた。だけど、もしかして。
『診療所に、お前以外の女は居たか』
あの時言っていたのは、ケイシーさんのことだったのだろうか。
それならこの人に任せていれば、大丈夫ということ?
そんなことを思いながらケイシーさんを見ていた時、不意に彼女の横顔がこちらを向き、フード越しに目が合った。
その目がほんのりと丸くなって、「あら」と声が聞こえてくる。
「ジェイ君の知り合い?」
「…………あ、え、と」
「いーよ、こっちおいで。すまんね気づかんくて。肩身狭かったでしょ」
手招かれるままに近寄るが、どうしたらいいのか分からない。
私のことはいいから、早くアルテの元へ向かって欲しいのだけど。
「お名前は? あたしはケイシーです」
「あ……ティア、です」
「ん、女の子か。よろしくね。ところでティアちゃん、なしてずっとフード被っとるん?」
静止する間がなかった。
あ、と思った時には小首を傾げたケイシーさんにフードの下の顔を覗き込まれていて、間に何も遮る物がない状態で、目が合う。
今の自分の顔を思い出し、思わず固まったその時。
「えっ、かわい」
真正面から聞こえてきた予想外の反応に、耳を疑った。
あれ、と思いながら触れた自分の右頬は、しかし確かに少し
顔の火傷、残っているはずなのだけど。気にならないのだろうか。
「ふむ、なるほど。ジェイ君にも春来たな」
したり顔でうんうんと頷くケイシーさんを呆然と見ていると、横から舌打ちが聞こえてくる。
「違え。何でもかんでもそっち方面に結び付けんのやめろ。クソうぜえ」
「ふ、照れんな。いいぞ、おねーさんが応援してやろう。とても可愛いし、なんだかいい子そうですし」
「マジでやめろ虫唾が走る」
「いやさすがに言いすぎな、かわいそうですやん」
不意にそこで、ケイシーさんが私に向かって「この子がすまんね?」と謝った。よく分からないまま、とりあえず頷く。
なんだか流れるような語り口のせいか、それとも単純に頭が回らないせいなのか。会話があまり入ってこない。
「いーじゃん娯楽に飢えてんだ、馴れ初め聞かせろよ。最近さー、ちょっと周りが殺伐としすぎててね? あたしはとてもうんざりしとるんですよ。息抜きにキュンキュンする恋物語が聞きたいです。言え。吐けほら」
「だから違えっつってんだろ、そいつはどっちかってえとあいつの──」
「ほう、あいつって誰よ」
食い気味に被さったケイシーさんの反応に、途端ジェイドが口をつぐみ、スっと視線を逸らす。そこにケイシーさんが笑顔で詰め寄っていくせいか、ジェイドは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……アルの連れ」
ぼそりと呟く彼の言葉に、ケイシーさんの顔面が硬直する。疑問に思ってよくよく見ると、何故かその表情は驚愕に染まっていた。
しばらく絶句していた彼女が次に口を開いたのは、長い長い沈黙の後で。
「………………は、マジ? 嘘でしょあの子警戒心の塊じゃん。重度の人間不信じゃん。え、いったい何が起きたん? 何繋がり? 謎すぎ。ティアちゃんアルちゃんの昔馴染みとか?」
後半でいきなり話を振られて面食らう。思考が上手く追いつかない。
少し間を置いてから言葉の意味を咀嚼して、「い、え」とかろうじて否定を口にすると、「春が来たのはアルちゃんの方か」としみじみとした声が聞こえてきた。
「いやー、人生って何が起こるか分からんな。ここ数年で一番の衝撃だわ」
季節はもう、だいぶ前から春なのだけど。どういうことだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、『アルちゃん』という単語にはっとする。そうだ、こんなことをしている場合ではなかった。
そう思って、声をかけようとしたのに。
不意にタイミング悪くお腹が鳴って、少しの間固まる。
思わず下を向いてお腹を押さえると、不思議そうな声が聞こえてきて。
「ん、何、お腹すいとるん? なんか食べる?」
「いえ、えと……」
確かにずっと空腹ではある。そのせいで頭が回らなかったりもするけれど。今言いたいのは、そのことではない。
これ以上、話を脱線させたくはなかった。
「私より、早くアルテの所へ行ってあげて欲しくて」
脳裏に浮かぶのは、直前に見た彼の姿。
青白く余裕のない表情は、私が血を飲みすぎたあの夜に重なって、怖かった。
あの時感じた死の気配が、まだ燻っているようで。
「顔色が悪くて、辛そうなんです。高熱で意識もだいぶ朦朧としている様子で、ご飯も食べてないですし、眠れてもいないみたいで」
「……改めて聞くとだいぶヤバいな」
「助けて、くれませんか」
本当は、私がなんとか出来ればいいのだけど。アルテを助けるには、現状の私はあまりに力不足だから。
「私じゃ、駄目なの。漠然と変化を感じることはできても、そこからどうすればいいのか分からないから。心の機微に疎すぎて、一人では細かく察することができないから。今日だって、アルテ本人に言われなければ、きっとずっと気づけないままだった。だから」
ケイシーさんがどうにかできるというのなら、早く楽にしてあげて欲しい。
顔を上げて窺うと、ケイシーさんはどこか困ったような顔をしていた。
「いや、大丈夫よ。元からそのつもり……ん? ちょい待ち」
ケイシーさんが、不意に何かに気づいたように言葉を切る。次いで発せられた声音は、何故か少し固くなっていて。
「アルちゃんが何言ったって?」
「……人が近くにいると、寝られないって」
「え、嘘。自分から言ったんそれ」
「? はい」
どうして今、そんなことを聞くのだろう。
ケイシーさんが額を押さえて息をつく。それを見て、にわかに不安になってくる。
「あーすまん、確かにあたしの認識が甘かったわ。そんな急がんでも充分間に合うと思っとったけど、そうね……それはそろそろ、限界まで来てるね」
限界。
「ティアちゃんは先に、ジェイ君にご飯連れてってもらって。食べてからゆっくり来な。あたしはすまん、ちょっと先行ってる」
「……あの、私のことはいいので、一緒に」
「ダーメ」
やんわりとした否定に戸惑い、口をつぐむ。
どうして。
「身体が腹減った言うとるでしょ。いつ何があるか分からんのだし、基本、ご飯は食える時にちゃんと食いな」
そう言う彼女は、どこか安心するような、柔らかな笑みを浮かべていた。
「大丈夫、アルちゃんのことは任せとけ」
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