ep.17◇とある少女の回顧録 - 喪失※
空っぽの器にはヒビが入っている。
中身はそこから流れ出してしまって、いつも満たされることがない。
いつもは見ないふりをしているけれど、時々耐え難い程の激情が湧いてきて、身体の自由が効かなくなる。
欲しい。
欲しいの。
私に情けをくれませんか。
あなたの幸せを、私に分けてはくれませんか。
その温かい身体で。
その甘やかな血液で。
あなたというすべてで。
どうか、私を
◇
「イヴ」
名前を呼ばれて振り返ると、大きな手にフードを取られた。
途端に視界が明るくなるのが眩しくて、ぎゃ、と叫んで目を覆う。すぐに上から降ってきたのは、ケラケラと言う笑い声。
「まぶしい……」
「まーたこんなもの被って。折角のかわいーお顔が見れないじゃないの」
「ほら、こっち向いて」そう言われて顔を上げる。だんだん光に慣れてきた目を何度もパチパチと瞬かせると、そこには見慣れた雑貨屋のお姉さんがいた。
いつもお世話になっているお姉さんは、途端に笑顔になる。
「あらあら本当にまぁイヴは可愛いねぇ。お人形さんみたい。ああ、私もこんな妹欲しかった! 娘でも可!」
満面の笑みで褒めそやす言葉の数々が、開けた世界の眩しさが、なんだかそわそわと落ち着かない。
どこを見たらいいか分からなくてまたフードを被ると、すぐに「ああ!」と不満げな声が聞こえてきた。
「もう、どうして隠すかなぁ。だから、顔を、見せなさい、って!」
「えっ、う、ひっぱら、ない、でっ」
そんなに引っ張ると、脱げちゃう。
フードの端を握りしめて必死で首を振るのに、お構い無しに引き剥がされて。ぐちゃぐちゃになった頭を押さえてジト目で見上げると、お姉さんは勝ち誇ったように笑っていた。
「私の勝ちー。イヴは今後顔隠すの禁止ね」
「どうして」
「どうしてって、そんなの私が見たいからよ。もー本当に天使。可愛い。目の保養」
「うそ」
「嘘ついてどうするの。お姉さんはお世辞を言う理由がありません」
「だって、お母さんは私の顔きらいだもの」
言った瞬間、空気が凍るのを感じた。
あ、失敗したかな、言わなければよかったかも。そう思いつつそろりとお姉さんを窺うと、やっぱり心配そうな顔をしてる。
「ああ、あの母親ねぇ……。イヴ、大丈夫? あの女に酷いことされてない? 危なくなったらいつでも逃げてきなね?」
「危なく、ないよ」
大丈夫だよ。だってこの顔さえ隠していれば、お母さんは普通だもの。怒鳴られることも、叩かれることも、泣かれることもない。
だから、あまり悪く言わないで。お母さんには嫌われてるけど、私はお母さんが好きだから。
「危なくなくても逃げてきていいよ。家にいても息が詰まるでしょう。ああ、でもフードはとって」
「でも、お母さんが被ってなさいって」
「あんな女のことなんて気にしなくていいの……って言いたいんだけどね。あんなのでもあんたの母親だもんね。はぁ、仕方ないか」
「うん」
どこか不満そうに唇を尖らせていたお姉さんは、ふと何かに気づいたような顔になった。
「あっと、引き留めてごめんね。そういえばイヴは何か用事だった?」
「用事は……ないよ」
お母さんが私を見たくないだろうから、出てきただけ。特にやることも行くあてもない。
「じゃあ、またうちで勉強見てあげようか」
思ってもいなかった提案に、目を瞬かせる。「いいの?」と思わず呟いたら、お姉さんは朗らかに笑った。
「ふふふ、お姉さんに任せなさい。今日は一日お休みです」
「え……本当にいいの?」
せっかくのお休みを、私なんかに使っちゃって。
「子供が遠慮なんてしなくていいの。私がやりたくてやってるんだから」
悪戯っぽい笑みを浮かべたお姉さんに「ねぇ、イヴ」と呼び掛けられて、首を傾げる。
「知識さえあれば、一人で生きていけるようになるから。頑張ろうね」
その言葉が、笑顔が、優しさが。くすぐったくて、眩しくて堪らなくて。
服の裾を握りしめて、小さく「ありがとう」って笑い返した。
◇
夢を見ている。
これはなんだろう。走馬燈だろうか。
いや、違う。これは呪いだ。あの日魔女様にかけられた、呪い。
中和出来なかったために繰り返す、過去の光景と感覚。その時の思いと、残り滓。
忘れかけていたことも、忘れたかったことも掘り起こされて、記憶を追体験する。際限なく、ずっと、繰り返し。
現実が遠い。
誰かの目を借りているかのように、見えるもの全てに現実味がない。誰かの身体に意識だけ植え付けられたかのように、考えなくても勝手に動く。
これが本当に現実なのかも分からない。もしかしたら、こちらの方が幻なのかもしれない。
過去と現在が混ざり合っていく。
地面を踏みしめた足の感覚は、今のものなのか、ただの記憶か。
見上げた月が青いのは、果たしてどちらか。
胸中に広がる寂しさは。
引きつれるような痛みは。
耐え難いほどの、この渇きは。
もう、分からない。境界が分からなくなる。
全てを放り捨てるように、自分の内側にずぶずぶと沈んでいく。
どこで道を間違えたのだろう。どうしていれば良かったのだろう。
私の始まりは、ただの町娘だったはずなのに。
目の前の場面が切り替わる。だんだん目線が高くなっていく。
八歳、九歳、十歳、十一歳。思えばきっと、そんなに遠くはないのだろう。
四年か五年昔の話。少なくとも私の半生は、確かに幸せだった。
幸せだったのだと、今なら言える。
『あらイヴちゃん。髪伸びたねぇ。おいで。結ってあげる』
時々顔を合わせては、何かしら物をくれたり、世話を焼いてくれる近所のおばさん。
『イヴ、何か食べたいものあるか? 食材余ってるから作ってやるよ』
雨宿りに軒下を借りていた時、暗くなってもいつまでも動かない私を見かねて、そう言ってくれた料理屋のおじさん。
『苦しくなったら溜め込まずにおいで。話を聞くことはできるから』
教会の神父様は、口を引き結ぶ私の背を、優しくさすってくれていた。
全ての人に受け入れられていた訳では無い。でも、私の周りは優しかった。本当に、涙が出るほど優しかった。
救われていた。ずっと。いつまでも顧みられない寂しさを、補ってあまりあるほどに。
本当に欲しかったたった一人の心には、ついに望まれることはなかったけれど。
「お母さん……?」
声が聞こえた。幼い自分の声だった。
見慣れたはずの自分の家は、薄暗く静まり返っている。窓の一切がカーテンをかけられ、その中でぼんやりとした蝋燭の明かりだけが、不気味に浮かんでいた。
燭台を持つ母の姿は、あの時の自分にはとても大きく見えた。
嫌だ。この先は見たくない。
そう思っても身体は動かずに、身を守ることさえ出来なくて。ただ棒立ちになって、無情にも起こるこの後のことを待つことしか出来ない。
目は閉じられない。耳も塞げない。だってこれは、記憶にすぎないから。あの時の私は、目も耳も塞いではいなかったから。
それでも過去をなぞる目の前の景色は、音も匂いも、感覚も全てが鮮明で。
その場の幼い身体の中に、確かに今の私はいた。
身体は床に押さえつけられて、もう抜け出すことができない。
上から見下ろしてくる母の瞳には、濃い怨嗟が宿っていた。
揺らめく炎が近づいてくる。
身を引こうとした身体は動かず、目に飛び込んできたその紅蓮が、あまりに無造作に迫ってきて。
過ぎた熱さが耐え難い痛みとともに表皮に触れたその瞬間、堪らず叫んでいた。
熱くて、痛くて、怖くて。
なのに直ぐに口に布を詰められて、声がくぐもる。悲鳴で紛らわせていた苦痛を少しも逃がせなくなって、そんなはずがないのに、一層痛みが増した気がした。
とっさに目を閉じると、その上の顔の右半分を、蝋燭の炎がなぞっていくのを感じる。涙が漏れても炎の熱さは変わらずに、ただ炙られた皮膚に染みるだけ。
やだ。痛いの。熱いよ。やめて。もうゆるして。
ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
「どうして、貴方が」
声に滲む涙の色に、泣いているのだと分かった。
「違う。そうよ、違うの。だって、貴方がっ……わたし、は」
薄く瞼を開いて見えた人影は、暗くてはっきりと分からない。
「お前が」
明かりが消えている。
「お前など」
右目が、見えない。
「産まなければ、良かったっ」
首が締まる。
息が、できない。
ぱたぱたと、頬に水滴が落ちてきた。
自分の目から流れた涙が、その水滴を押し流した。
ごめんなさい。
泣かせてしまってごめんなさい。
産まれてしまって、ごめんなさい。
◇
次に目を開けた時に見えたのは、見慣れない天井だった。
消毒液の匂いが鼻について、目を開けているのに視界が狭い。横になったまま右目に手を伸ばし、指先に伝わる違和感に目を伏せる。
どうやらそこは、包帯に覆われているようだった。
少ししてから入ってきた診療所の先生に、簡単に説明をされた。
口を塞がれる前の悲鳴を聞いて、近隣の人が助けてくれたこと。その後、気を失った私をここに運んだこと。かろうじて一命は取りとめたものの、顔の火傷は恐らく残るだろうこと。
私はその全てに、淡々と頷いた。
母の安否は知らされなかった。
母は父に捨てられてから、おかしくなったらしい。
そう誰かが話しているのを、隠れて聞いたことがある。
私の顔は、父にとても良く似ているのだという。もうぼんやりとした記憶しかない、その父に。
だから母は、私の顔が嫌いだった。
初めはそんなに、酷くはなかったのに。
私の顔を見て顔を顰めるくらいだった母は、フードを被ることを強要するようになった。それでも顔さえ隠せばある程度は接してくれていたのに、いつからかそれすらも無くなっていった。
私が成長していくせいなのか。母の状態が悪化していっていたのか。
きっと、そのどちらもなのだろう。
『貴方はどんどん似ていくのね。忌々しい』
憎悪に滾るその声が、いつまでも耳から離れない。
フードを被って顔を隠しても、髪を伸ばして父の印象を遠ざけようとしても、結局、意味はなかったのだろう。
ふと横を見ると、窓の外は柔らかい日差しが差していた。
茂った木々が光を受けて、キラキラと輝いている。穏やかで優しい色をした風景が、ただそこにあった。
それを見る私の中は、何もかもが空虚だった。
数日後に訪ねて来た母は、泣き腫らした目とガラガラの声をしていた。
絶えず謝り続ける母は、ずっと私を見ないように視線を逸らし続けていたけれど、呼ぶ名前は父のものではなく、私のものだった。
それは、紛れもなく本気だと分かる声で。やっと私を見てくれるようになったのだと、泣きそうになったのに。
包帯塗れの私と目が合った時に母が浮かべたのは、少しだけ口元が上がった、暗い愉悦の表情だった。
分かっていた。母が必死に私を、自分の子だと認識しようと努めていたことも。それでもなお、私と父を切り離せないことも。
ずっと不安定な母を傍で見てきたから、分かってしまった。
一度壊れたものは、そう簡単には直せない。
この関係も。壊れてしまった、母も。
それでも、気づかないふりをした。見ないままでいたかった。それで本物になるわけでもないのに。
包帯をとっても、右目はもう見えない。
ただぼんやりと、光だけを感じている。
連れ帰られた家の中で、いつもより優しい母と共に、日々を送る。
二人分の食事が、食卓の上に並ぶ。
庭に干された洗濯物が、そよ風に吹かれて揺れている。眩しいくらいに晴れた青空が、時々母の顔を暗くする。
一見穏やかなこの日々も、全てがいつか、儚く散ってしまうことを知っている。それでも、受け入れることが出来ない。
すべて無かったことにして。仮初の平穏に、縋って。
だから、当然の結果だったのだろう。
家に戻ってから程なくして、私は売られた。
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