ep.23◆熱情と冷感
なんでこんなことをと聞かれたところで、俺にもわからない。考えても答えが出ないから。
死なせたくないと思った。言えるとすれば、ただそれだけ。
押し付けた掌に、舌が這う感触がする。
涙でぐちゃぐちゃになった顔で薄目を開けたティアの瞳は、虚無と熱が混ざり合っていた。
時々傷口の縁をなぞられて唾液が染みる。血があふれては舐めとられ、下でこくりと喉が鳴る。
口に収まらなかったものは横に流れ、その頬には幾筋もの線が残っていた。
無性に腹が立ったのは否定しない。
感情にあふれた生きた顔で、死にたがるのが癪に障った。自分一人が悪いからと、勝手に全部投げ出そうとするのに苛ついた。こっちの気も知らないで自己完結するその様に。そんなんで見捨てられんならとっくに見捨ててんだよ、馬鹿かよ。
だったらもう、意地でも生かしてやろうと思った。命を賭ける程度で収まるんなら、賭けたっていい。殺してしまうから死ぬと泣くなら、そうならないって証明すればいいだけだ。
だから絶対に死なせないし、死ぬ訳にはいかないんだ。
指先から熱が引くような感覚がした。
視界も少し霞んでくる。速くなっていく鼓動を抑えようと、意識して深く息を吸う。
いつかティアは、時間が経つにつれて駄目になると言っていた。さっきも食べたくないと泣きながら、瞳の奥では狂気が燻ったままで。
こうなったのが古城での長い軟禁のせいなら、ティアが欲しがる血さえやれば、少しはましになるのかと思ったけど。
……見通し、甘すぎたかもしれない。
終わりが見えない。正気に戻る気配がない。
「……ティア、終わり」
声をかけつつその目を覗き込んでみても、未だそこは狂気の色が濃い。
指先が痺れてくる。右手だけじゃなく、左も。息を吸っても吸えてる気がしなくて、ずっとどこか息苦しい。
暑くもないのに汗が出る。額から滑り落ちてくる冷や汗に、息をついて目を細めた。
初めは確か、頭突きで正気に戻ったんだっけ。こんな状態でも、痛みは感じてるのかもしれない。
でもそれより前に、廃屋で横腹蹴った時はなんともなかったけど。いや、あれは間に腕の骨挟まってたから衝撃弱かったのかも。それともあの時も一回戻ってた? 確認してないからわかんねぇ。
ほんとに正気に戻したいなら、どっかにダメージ入れて試してみた方がいいんだろうか。
…………あんま、したくないな。
瞬きをして思考を散らす。口元から手を離そうとすると、直ぐに手首を掴まれた。視線を落とすと、今まで耐えるように握り込まれていたティアの手が伸びてきていて。
「駄目、終わり。……できる?」
引き止めるような仕草に反して、力は意外と弱々しい。
窺うように、請うように。俺を見上げてくるその瞳は、未だに正気と狂気の狭間にある。
「まだ欲しいの?」
「……だ、め?」
「これ以上は、死にそうだけど」
言うと、微かに瞳が揺れた。
手の力を緩めては強めて。明らかに迷っているような様子を見せては、視線を俺の手に移す。
流れ出る血をじっと見ても、舌までは伸ばさずに。緩やかに垂れた赤が、ただ胸元に染みていく。
「また今度、餌になってやるから。今日は勘弁してくれる?」
「……ほん、と?」
「我慢、できる?」
聞くと、少し間があいた。
ティアは考えるように斜め下を見て、やがて躊躇いがちに手を離す。そのまま自分の左手を口元に持ってきて、その甲をかぷりと噛んだ。
「ん」と小さく頷く素直な反応に、薄く笑う。
「……いーこ」
開放された右手は一気に脱力して、地面に落ちた。
血、止まんねぇな。
指先は痺れてる上に冷たくて、感覚もどこか曖昧だ。なのに裂けた掌の中心は熱くて、鼓動に合わせて少しずつ中身が漏れてくる。
じわじわ傷口から滲み出てくる血を見下ろしても、あまり頭は回らないまま。
……止血って、どうやるんだっけ。
やっとそれだけ思った時には、目の前全部が霞んでて。瞬きしても変わらないから、なんだか変な感じがする。
それにすげぇ、寒い、し。
浅く息を吐くと、一瞬力が抜ける。視界の中の世界がゆっくりと傾いてって、ああこれ、倒れそうになってんのかなって、思って。
ちょっとだけ浮かんだ危機感も、全部何かに塗りつぶされていって。
──気づいたら、頭が何かに引っかかって、身体はそれ以上の動きを止めていた。
どうやら数秒、意識が飛んだらしい。力の入らない頭は垂れたままで、知らない間に閉じていたまぶたを上げると、すぐ下の地面が見える。それと一緒に映りこんだ、どこか見慣れた粗末な靴も。
あれ、何この状況。思いながらぼやける頭で記憶を探り、靴の持ち主を思い出す。
そっか。そういや、居たんだっけ。
「……手、出すな、つったろ」
下を見ながら呟く。顔を上げるのも面倒だった。
「お前、死ぬぞ」
「死なねぇし……こんなんで」
右肩から伝わってくるこれ、体温か。そこだけ少し温かいのが、妙に落ち着かない。
早く身体、起こさないと。そうは思うのに、なんだかうまく動かなかった。
全身に鉛でも溶かしこまれたみたいだ。
「……だるい」
「やっぱろくなことにならねえな」
身じろぎしてずり落ちそうになると、前から左肩を押し返される。視線だけを上げれば、眉根を寄せている腐れ縁と目が合った。
「顔色最悪だな。お得意の猫被りはどうした」
「……るせぇ、茶化すな」
「悪態吐くだけの余裕はあんのか」
あるように見えんのかよ。そう言い返すのさえ気だるくて、無視してジェイドから視線を外す。
ぼうっと右手を見ていれば、そのままそれを拾われた。傷口に何かの布の切れ端を当てられて、それを手の甲で結ばれる。視界にはちゃんと映るのに、なんだか全然感覚がない。
だいぶやられてんのかな、これ。
「アルテ……?」
下からか細い声がした。
ティアを見ると、あれだけしつこく居座ってた熱は、綺麗さっぱり消えていた。こっちを見るのはただ涙の膜の張った、零れそうなほど開かれた青い瞳。
やっと、戻ったんだろうか。遅。
良かった、けど。
「……もう、意地でも、呑まれんなよ」
これ以上は、無理だから。そう言おうとした声に被さってきたのは、切れ切れの嗚咽で。
透き通った青からこぼれ落ちる雫は、雨上がりの葉から流れ出る白露に、よく似ている。
それをぼんやりと目で追いながら、どことなくいたたまれない気持ちになる。
一度感情をあふれさせたティアは、結構泣き虫だ。
「や、ごめ、なさっ、しなない、で」
「……死なねぇし」
なんでおまえら、そんなに俺を殺したいの。
「言いたい事は沢山あるがとりあえず後だ。腕伸ばせ。背負う」
「……冗談」
「どうせお前自力で立てねえだろ。さっさとしろ。こんな時に強情張んな」
「……」
「死にたくねえなら利用しろ。使われてやるから」
顔を背けると舌打ちが聞こえてきた。
いきなり腕が引かれて、身体が傾く。視界からくる情報に、頭が追いつかない。前に倒れたと思えば、突然高くなった視界に目が回る。肺が圧迫されて、ただでさえしにくい呼吸が、数秒詰まった。
咳き込む度に痛みが走って、散々だ。
「すげぇ、屈辱……」
「文句ならてめぇに言え阿呆」
ぼそっと呟くと、間髪入れず罵倒が返ってくる。阿呆はおまえだろ、怪我人のくせに。傷開いたって知らねぇぞ。
力が入らない。もたれ掛かっているのをいいことに、そのまま脱力する。わずかに鳥肌が立った気がしたけど、それを気にする余力もなかった。
まぶた、重……。
「……俺は許した訳じゃねえぞ」
暗闇の中から、ジェイドの声が聞こえた。
「お前は人殺しだ。お前のせいでたくさん死んだ。許しても認めてもねえ。……でもいい、今は休戦だ。さっさと立て。こいつを殺したくないんなら」
言葉が右から左に流れていって、内容は入ってこない。
遠くで衣擦れの音が聞こえた気がして。
──そこで、プツリと意識が途切れた。
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