insane or innocent ◇5

 診療所に戻ると、入口でケイシーさんと鉢合わせた。「ジェイ君は?」と聞かれたので、すぐ手前の道で別れたことを伝えると、首を傾げられる。

 彼は初めから、ここに来る気はなさそうだった。心配なんてするだけ無駄だ、絶対に行かないと言って。

 少し前のことを思い出す。彼は終始不本意そうな顔をしながらも、結局は最後まで私に付き合ってくれた。根は悪い人ではなさそうなので、何か理由があるのかもしれない。


「それであの、アルテ、大丈夫ですか?」


 アルテにと買ってきた果物を渡しつつ勢い込むと、苦笑が返ってきた。


「あー、今は平気よ。お薬飲ませて寝かせたところ。まだ静かにしててあげて。てかしばらくは行かないであげて」

「……どうして?」

「今ね、弱りすぎてだいぶ情緒がおかしいの。あの子人が居ると気ぃ張るから、いっそ心置き無くぶっ倒れさせてあげよう」


 そう言ってケイシーさんは、思い出したようにため息をつく。


「話聞いて少しは変わったのかと期待してたんだけどなー、相っ変わらず鉄壁の人間不信だったよね。全くぶれとらんかった。本当、ティアちゃんどうやってアルちゃん手懐けたん?」

「……手懐けた、って」

「ああすまん、気ぃ悪くした? でもそう言いたくなるくらいには基本懐かんから」


 言いながら、ケイシーさんはからからと笑う。

 アルテが懐く、という言い回しには違和感しかないけれど。それなら、どうして私が気にかけられているのかと問われると、分からなかった。

 アルテはあの時絆されたと言っていたけど、そこにあるのは、どういう心情なのだろう。


 アルテが人間不信だと言うのも、私にはいまいちぴんとこない。そう零すと、「まあ、確かに最近は世渡り上手くなってきてるしなー」と苦笑が返ってきた。


「人間不信の根拠かー、そうね……ティアちゃん、アルちゃんが今まで弱音吐いたことある? 今日以外で」


 今日、以外。

 今日以外には、……確かに、ないけれど。


「そういうとこよ」


 黙り込んだ私を見て、ケイシーさんは頷いた。


「基本誰にも弱味を見せようとせんの。自分の状態最悪でも頑なに強がって頼らんし、ギリッギリまで意地でも折れない」


 振り返ってみれば、思い当たることはあった。

 『死なない』と言いながら倒れて、二日も眠り続けたあの時も。顔色が悪いのに『平気』と言って、その後高熱を出したのも。


「心の壁がね、高くて分厚くて固ったいの。下手に踏み込もうとすると、まず間違いなく拒絶されるよね」


 まるでちぐはぐだったアルテの印象が、少しずつ噛み合っていくのを感じる。

 ああ、そうか。思えば私は、違和感があると言えるほど、彼のことを知らないのだ。


 長く一緒にいるような気がする割には、出会ってからの月日は半月程度。毎日会っていた訳でもなく、ちゃんと会話を交わしたのは、思い返せば数えられる程度だったような気がする。


 もしかしたら私たちの関係は、思っていた以上にずっと歪で、脆いものなのかもしれない。


「アルちゃんはね、悪い子じゃないんだけど、本当にどうしようもない天邪鬼の嘘つきだから。覚えておくといいよ。じゃなきゃ絶対見誤る」


 頬を掻くケイシーさんを見つめながら、小さく頷いた。




 ◇




「一緒に来る?」


 上の階を指しながらケイシーさんに言われたのは、それからさらに二日経った頃だった。


 ケイシーさんが来てから、医者は彼女にアルテのことを丸投げしている。曰く、「あっちの方が懐かれてるからオレはお役御免」らしい。そういいながらも、顔には心底だるいと書かれていた。

 兄妹だとは言われたが、あまり似ているようには見えない。歳も一回りほど違いそうだし、容姿にも共通点は少ない。何より雰囲気が正反対だ。

 でも、よく見れば目元は似ているのかもしれない。医者の方は隈が目立つので分かりづらいけれど。


「さっきアルちゃんにご飯あげてきたんだけど、今日は食べれてますかね」


 階段を上がりながら呟く、ケイシーさんの後ろに続く。ケイシーさんから医者への評価は、「人として手遅れ。超絶怠惰な不摂生野郎」だった。

 結構な頻度で一方的に怒っているのを目にするが、かと思えば愚痴を言いながらご飯を作ってあげたりしている。仲がいいのか悪いのか、いまいちよくわからない。






 ケイシーさんが扉を開けた瞬間、ぶわりと中から風が吹き込んで来るのを、肌で感じた。


 部屋のカーテンが緩くはためいていた。窓が開いているらしい。

 外の雲行きが怪しいせいだろうか。循環する空気はやや冷たく、室内は肌寒かった。


 アルテは片膝を抱えるようにしてベッドに座り、ただぼうっと窓の外を眺めていた。

 扉が開いた一瞬だけこちらを見たものの、すぐに視線は窓の外へと戻る。目は合わなかった。私がケイシーさんの後ろにいたせいで、見えにくかったのかもしれない。


 ふと見上げれば、ケイシーさんは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「なーアルちゃんや。いい加減にせんと、四肢ベッドに括り付けんぞ」

「……おとなしくしてんだろ」


 数日ぶりに聞いたアルテの声は、少しだけ掠れている。

 ケイシーさんは窓に近寄ると、やや乱暴な手つきでそこを閉めた。


「曇天なんに窓開けんな、寒いし身体に障る。雨降ってきたらどーするん。ぶり返すぞ」

「そんな病弱じゃねぇし」

「病人がどの口で言ってんだ……また窓から抜け出そうとか、企んでねーよな?」


 曲げた指の背で、軽く窓を叩きながら、ケイシーさんは目をつり上げる。それを見てアルテは数度瞬いたあと、薄く笑った。


「さすがに、片手じゃ無理だって」

「本当にね。てか両手が無事でも窓から出ようとすんなよ。危ないから普通に下から行け」


 やっぱりまだ、本調子ではないのかもしれない。

 アルテの横顔には確かに笑みが浮かんでいるのに、元気がないというか、気だるげというか。

 声にはどことなく覇気がなく、瞬きひとつとっても、動作がひどく緩やかだった。


「ったく、せっかく人が時間に余裕持たせてやったんに……」


 それで、とケイシーさんが何かを言いかけて、ふと口をつぐんだ。

 アルテから視線をずらしたケイシーさんが、眉尻を下げる。その先を追ってみると、ベッドサイドのテーブルの上に、トレーが置かれているのが見える。

 上に乗っているのは半分ほど中身の残った深皿と、手をつけた様子のない薬包だけ。


「お薬、無理だった?」と、柔らかく問われた言葉に、アルテは少しだけ俯いた。


「後で飲むから」

「まぁ、時間経ちすぎなきゃいいですけど。いけそう?」

「ん……いける」


 頷くアルテの声音が、やけに静かで。

 なんだろう。うまく言えないけど、なんだか、少し。

 床に落とされた彼の眼差しに、妙に胸騒ぎがした。


「大丈夫……?」


 私が声をかけると、一瞬室内が静まり返ったような気がした。

 アルテの肩が少しだけ揺れる。

 緩慢に巡らせた頭がこちらを向き、ここに来て初めて目が合う。少しの間を置いて、アルテはああ、と声を上げた。


「居たんだ?」

「……うん」


 そんな気はしていたけれど、やはり気づいていなかったらしい。

 この病室はあまり広くない。少し視線をずらすだけで、私の姿など簡単に目に入るはずだ。いや、位置からすれば、既に視界の隅にはいたのかもしれない。

 それでも気づかないほど、いったい何を見て、考えていたのだろう。

 どうしてあなたはそんなにも、外に焦がれているのだろう。


「身体、つらい?」

「別に。大丈夫だよ、熱下がったし」

「でも、……まだ少し、顔赤いよ」


 最後に彼を見た時は、顔色が真っ青だった。

 血色が戻ってきているなら、良くはなっているのだろうけど。普段よりは、まだ赤みが強いような気がする。

 アルテは自分の頬に手を押し当てると、少し間を置いて首を傾げた。


「こんなもんじゃない?」


 不思議そうに言われて、言葉に詰まる。

 そう、なのかな。そう言われると、自信がない。

 目の前のアルテを改めて見る。声は掠れているけれど、頭痛はもうないみたいだ。顔を顰める様子もなく、受け答えにも問題はない。

 確かに数日前と比べれば、格段に良くはなっているのだろうけど。


「……何?」


 近寄ると、アルテが怪訝そうな顔をする。


『天邪鬼の嘘つき』


 ケイシーさんから聞いた言葉が、ふと脳裏を過ぎった。

 

「え、ちょ近、ほんとなに」


 確かめるだけ、と言い訳して手を伸ばすと、アルテは表情に困惑を浮かべる。それから私の手を避けるように、後ろに身を引いて。


 次の瞬間、彼の顔から、さあっと血の気が引いていくのを見た。


「いっ──~~~!」


 短く殺した悲鳴と共に、突然崩れて沈む身体。ベッドの上に仰向けに倒れ込む彼の姿に、呆然とする。

 無意識だったのだろう、アルテが後ろ手についた、……つこうとした右手の力が、抜けたのだ。

 掌を怪我している右手が。


「え、あっ、どうしよう、ごめんなさ、」


 眉をひそめて息を詰める彼に、慌てて助け起こそうと身を乗り出す。その途中で気がついた。

 右腕、今ないんだった。


「っ、わ」

「……!」


 バランスが上手く取れず、軽い衝撃と共にアルテの上に倒れ込む。その直後、すぐ下から苦しげに咳き込む音がして、固まった。

 完全に追い討ちのような形になってしまった。


「ごめんなさいっ」


 かばっと頭をあげると、すぐ間近で、微かに水の膜が張った、アルテの瞳と目が合って。その一瞬、わずかに彼の身体が強ばったような気がした。

 覗き込んだ深緑の瞳のその奥が、ほんの少しだけ揺れている。

 それが何故だか、すごく綺麗に見えて。気づけば、誘われるように手を伸ばしていた。


「やっぱり少し、熱があるよ」

「……」


 額に押し当てた手に伝う体温は、少し高い。

 ゆらりと揺れた瞳が少し長い瞬きに隠されて、次に瞼が開くと同時に、視線が横に逸らされる。


「………………そーですね」


 長い沈黙の後、不貞腐れたように言い捨てたアルテは、額に当てた私の手ごとそっぽを向いた。

 思ってもいなかった反応に、思わず瞬く。

 認めた。


「っふ、あっははははは! ヤバっ、最ッ高! っはははは! っ、げほ、ッごほ」


 突然背後でおこったケイシーさんの爆笑に、思わず肩が跳ねる。

 え、と、どうしたんだろう。どこか笑うところ、あっただろうか。首を傾げていると、ふとアルテが顔を顰めているのに気がついた。

 ケイシーさんが笑いすぎて咳き込んでいる音が聞こえてくるたび、下にいるアルテの眉間に皺が寄り、口元がへの字に曲がっていく。


「……満足ですか」

「え、あ、はい」

「そ。じゃあどいて」


 言われるままに身体を起こそうとして、はっとした。

 どこに手を置いたらいいのだろう。

 というより、そもそも完全にアルテに乗り上げている体勢のため、下手に身体に力を入れるだけで負担をかけそうだ。


「あの、起きられません……」


 目線をさ迷わせながら申告すると、「だったら最初からやるなよ」と素っ気なく返って来た。

 返す言葉がない。


「ふふっ、はー、仮にも病人なんだから、もうちょい加減してやんなね」


 笑みを含んだ声がすぐ後ろからしたかと思えば、不意にお腹の辺りに圧がかかり、私の上体が浮き上がる。

 驚いて肩越しに振り返れば、私を抱き起こすケイシーさんと目が合った。


「ありがとうございます?」

「いーえ。……ってかティアちゃん、ちょっと軽すぎん? え、大丈夫? 生きてる?」

「生きてます」

「いや、マジで疑ってるわけじゃないですけど。まーご飯ちゃんと食べなね」


 言いながらケイシーさんは私を下ろすと、さて、とアルテの方に向き直る。

 肘を着いて器用に身体を起こしていたアルテは、途端に嫌そうな顔をした。


「そんでアルちゃんもさー、女の子に押し倒されたんだから、ちょっとは嬉しそうにしたら?」

「……は? この状況で?」

「いや関係ないだろ男の子。もっと動じろよ。照れろよ、つまらんな」

「うっせぇ、見せもんじゃねぇよばーか」


 ムスッとしながら悪態をつくアルテに対して、ケイシーさんはとてもにこやかだ。


「おーおーへそ曲げてんなよ、かわいーな」

「るせぇ茶化すな鬱陶しい」

「にしても天然強いな。最強か。さすがにどうしていいかわからんかった?」

「だからしつっこい絡んでくんな、寝るから出てけよ!」


 忌々しそうに顔を歪めながら、アルテがケイシーさんを睨みつける。どうやら本格的に怒らせてしまったらしい。

 どうしよう、そんなに手、痛かっただろうか。思いながら振り返って納得する。あれは確かに、痛そうだった。怒っても仕方ない。本当に申し訳ない。


「はは、なんだ超元気じゃん」

「ごめんなさい、あの、大丈夫? 手痛い?」


 恐る恐る尋ねると、アルテはケイシーさんを睨みつけながら、「別に平気」と返事をした。

 全く平気そうではない。どうしよう。


「じゃーアルちゃん元気になったし、あたしは一足先に退散しますね」


「なんか刺されそ、怖」と言いながら全く思ってなさそうな笑みを浮かべて、ケイシーさんはテーブルから深皿だけを回収する。

 そのまま扉に手をかけながら、一度だけ振り返った。


「あ、お薬無理だったらいいよ」

「飲むっつってんだろ」

「じゃ、おやすみ」


 ひらひらと振られた手が引っ込み、代わりに扉がパタンと閉まった。

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