ep.8◇金色に微睡む

 目覚めてすぐに見たものは、窓から差し込む斜陽だった。


 二枚あるうちの手前の窓には、いつの間にかカーテンが引かれている。薄暗くなった部屋の中で、残りの一方から漏れる西日だけが、鮮やかな色を宿していた。


 そのオレンジ色の光の中に、椅子が一つある。

 そこに座る人は、窓枠に頬杖をついて、外を眺めていた。

 膝の上には、開かれたまま放置された本が乗っている。普段は灰がかった金アッシュゴールドの彼の髪色が、夕日に照らされて鮮やかな金色へと変わっていた。


 綺麗だな、と思った。

 普段人の容姿など気にはしないのだけど、何故だか、そう思った。


 眩しそうに細められたダークグリーンの目が瞬いて、縁どられた長いまつ毛が揺れる。

 少しして戻された視線が、私のものと交差する。

 アルテは数度瞬くと、やがてその口の端を、ほんの少し持ち上げた。


「おはよ」


 返事をしようと口を開くものの、喉はからからに渇いて、張り付いている。


「おはよう、ございます」


 ようやく出てきた声は、いつもよりも小さく、掠れていた。





 いつも眠りは浅い。

 浅い微睡みの中を揺蕩たゆたって、そのたびに夢を見ている。

 それが大抵悪夢だから、中途半端に目が覚める。そうしてまた浅い眠りに落ちる。その繰り返し。


 夢も見ない程の深い眠りに落ちたのは、思えばずいぶんと久しぶりな気がする。


「そろそろ帰るよ。日が暮れそう」


 窓の外を見ながら、アルテが立ち上がる。

 彼がここに来たのは、確か昼前だった。結局、アルテをずいぶん長くこの部屋に縛り付けていたことになる。


「……ごめんなさい」


 申し訳なくなって俯くと、少しの後に、頭に手が乗せられる感覚がした。

 緩く髪をかき混ぜられると共に、上から声が降って来る。


「別にいいって。気にすんな」


「また来るから」そう付け加えられた言葉に小さく頷く。その後、すぐに後悔した。

 もう来ないでと、言うべきなのだ。早くこんな場所は忘れてしまえと、突き放さなければならない。

 これ以上アルテがここに来ても、なにもいいことは無い。いつ魔女様あの人に見つかるか分からない。見つかったらどうなるかも分からない。

 なのに口を開いても、言葉は喉につかえたように出てこなかった。


 胸中に浮かぶ一抹の寂しさが、どうしても拭えない。

 覆い隠して見えなくしてしまいたいのに、気づけばちらりと顔を出す。

 ……私は、どうしたらいいのだろう。

 要らないのに。もう、要らなかったのに。

 吹けば消えそうな淡い感情が、少しずつ湧き出ているような気がする。





 帰路を辿るアルテに続いて、広い城の中を歩く。


「つーか、ティアはいつからここに居るの」

「……数ヶ月くらい前から」

「あれ、意外と最近」


 言いながら一度横を向いたアルテは、少し首を傾げて振り返った。

 後ろにいた私と目が合うと、彼は少し歩調を落として隣に並ぶ。

 横の並びが落ち着かず、私も歩調を落としたくなる。


「すごい奴隷根性だから、もっと前からだと思ってたんだけど」


 けれど、そう続ける彼の意図を察せないわけではないから、歩みを遅くすることも出来ない。

 横から声が聞こえることが、少し、慣れなかった。


「あの人が初めの主人という訳では無いので」

「? どういう意味?」

「私が売られてからここに来るまでの間に、二人主人がいました」


 言いながら記憶を思い起こす。今よりもずっと昔、母に売られた後のことを。


「初めの主人に買われてから数年。その後屋敷で二人目の主人に出逢い、彼がどうしてもと願うので、多額のお金と引き換えに私の身柄は移りました。その後に主人に連れられてここに来て、私だけが残りました」

「……なんか、突っ込みどころ満載なんだけど。そこ詳しく聞いていいとこ?」

「……別に楽しい話ではないです」

「いや、それはわかるけど。まぁ今日はいいか。長くなりそうだし、今度聞かせて」


 その言葉に、肯定も否定も返せなかった。ただ口元を引き結んで、視線を彷徨わせる。

 こんなつまらない話を聞いてどうするのだろう。


 以前あの人に言われたことを思い出す。

 私の話は、同情される類のものらしい。けれど話のどこからがそうなのか、よく分からない。

 でも、それでアルテの態度が変わるようなら、それは、なんだか。

 ……話したく、ないかもしれない。




 ◇




 中庭に続く扉の一つを開けたアルテは、一度こちらを見て「じゃ」と短く言い残した。

 外に足を踏み出す背中が、オレンジの光に包まれていく。


 空は真っ赤に燃えている。黄昏時だ。

 アルテが帰って、日が沈めば、夜がくる。

 ひとりぼっちの暗闇が。


「……何?」


 不思議そうな声音に、我に返った。

 指先に何かが触れている。

 視線を落とすと、自分の腕が無意識に伸びて、アルテの服の裾を引いていた。


「あ……」

「どうかした?」


 首を傾げるアルテから目を逸らし、すぐに手を引っ込める。


「い、え、なんでも」


 苦手なのだと、思っていたのに。

 自分の手を見下ろして、途方に暮れる。どうして引き留めようとしたのか、その理由が分からない。


 確かに、初めはアルテが苦手だったはずだった。

 その感情を思い描くことすら、避けていた。

 心を動かしたくなくて。感情を殺してしまいたくて。

 なのに物として扱ってくれないから、そのままでいることが出来ず、かき乱されて。それが、嫌で。


 でもこの数日間、アルテが来ない一人きりの古城は、どこかもの寂しかった。

 いつの間にか誰かが隣に居ることに、慣れてしまったのかもしれない。

 ……こんな風になるのなら、慣れたくなんて、なかった。


 顔を上げる。アルテの顔を見返して、こくりと唾を飲み下す。


 まだ、間に合うだろうか。

 これ以上、心乱されたくはない。

 私は物だ。今までも、これからもずっと。そうでないといけない。

 そうでないと、どう在ればいいのか、分からない。


 口を開く。さようなら、そう言いかけた時だった。




 ──「あら、そのまま帰しちゃうの?」




 どこからか聞こえてきた凛とした声に、身体が凍りついた。

 開いた口からは何も出て来ず、変わりにひゅっと耳障りな音を立てる。

 指先は血が通わなくなったかのように痺れて、冷や汗が額を伝った。


 ──「少し目を離した隙に、ずいぶんと面白いことになっているのね」


 ふふふ、と楽しそうな笑い声が耳に届く。

 それに反して姿は見えない。と言うよりも、何も見えない。

 視界いっぱいが暗くて、すべてが真っ黒だった。


 一帯が黒く塗りつぶされた空間が、目の前に広がっている。

 目を開けているのに、閉じているのと変わらない。上も下も分からない。ただ闇だけがそこにある。


 数度確かめるように瞬きを繰り返す。一番最後の瞬きで目を開けた瞬間、これまで何も無かった空間に、突然その人は現れた。

 闇の中、黒から浮き上がるようにはっきりと見える、その姿。真っ赤な髪をなびかせて立つ、その人が。

 髪と同色の目が細まって、唇が緩く弧を描く。


 ──「久しぶりね。私の可愛い黒髪さんブルネット


 私を呼ぶその声は、恐れていた魔女かのじょのもの。

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