ep.9◇黄昏に慕情、宵に崩壊
どうして今、この人が。
初め以外は、ずっと放っておかれていたのに。
身体の横で手を握り込む。息を吸おうと口を開く。うまく、吸えない。
「ティア?」
呼ばれた瞬間、視界が色を取り戻した。
目の前に、わずかに眉根を寄せたアルテが立っている。
後ろに広がる空が、赤い。 浮かぶ雲さえ染め上げて、全てを支配する赤が、視界を満たす。
……戻った?
息を吐く。よく分からないながらも、身体の力を抜こうとして。
視界はまた、瞬き一つの間に黒へと切り替わった。
──「綺麗なお顔」
伸びてきた手が、私の頬を滑っていく。
触れられた場所から、何かが剥がれ落ちていくような気がした。
──「ちゃんと言いつけは守っているのね」
真っ赤な目に射抜かれて、身が竦む。
この人の赤は炎の赤だ。
激しく燃え上がる紅蓮の色。全てを焼き尽くす色。
「大丈夫か」
黄昏の中に佇むアルテが、見下ろしてくる。
ぼんやりとその顔を見上げながら、呼吸が早くなっていくのを感じる。
視界が
確かにここに、この城に居るはずなのに、感覚がここでは無いどこかのものを拾い上げる。
目眩がする。気持ちが悪い。
これは現実? それとも夢?
どちらが本物?
……どちらも、嘘?
──「良い
黒い闇を背負いながら、私の主人は酷薄に微笑んだ。
──「以前は本当に、つまらない程無表情だったのに。その淡く浮かんだ恐怖の表情、とっても素敵よ。惚れ惚れするわ」
ついと真っ直ぐに腕を伸ばし、彼女は虚空を指さした。
──「その子のおかげなんでしょう?」
視界が切り替わる。見えるのは赤く染まった黄昏の空。目の前にはアルテ。
その中で、彼女の声だけが変わらず響いていた。
──「あなた、その子に恋しているのね」
こ、い。こい? ……恋。
「違う」
認識した途端、否定が口から出た。力なく首を振る。
行動とは裏腹に、心中では
「違う、違います。そんなことはありません。私は」
───「あら、私の言うことが間違いだとでも?」
どこか冷たいその声音を聞いた瞬間、背筋を氷塊が伝った。
口をつぐむ。心臓が大きく音を立てる。私は、今何を言ったの。どうして、そんなことを。
──「口答えもするようになったのね。凄い進歩」
「……ぁ」
少し目を伏せた彼女の表情が、一瞬消える。
その雰囲気に、呑まれる。
──「お祝いよ、プレゼントをあげる」
言いながら彼女が指さした方向を辿って、身体の違和感に気がついた。
右腕の感覚がない。動かない。
身体の横にだらりと垂れ下がるその腕を、恐る恐る見下ろす。
自らの袖口から覗く、その手は。
「──っ!」
とっさに右腕を押さえる。触れた瞬間、その腕は感覚を取り戻す。押さえた左手の圧迫感を、そこに感じた。
鼓動がうるさい。息が苦しい。
目が回る。冷や汗が垂れる。
楽しげに笑うあの人の声が、どこか遠くに聞こえた。
意を決して再び見た袖口の先には、今しがた見たものとは違い、見慣れた右手が付いている。
その事にまた動揺して、全てを遮断する様に、きつく目を閉じた。
なにがどこまで本当なのか、分からない。
これは現実? それとも妄想?
頭が、おかしくなりそう。
「ティア!」
脳を揺さぶる衝撃に、唐突にもやが晴れた気がした。
数秒遅れて、じわりと両頬に熱が湧く。それを包むように、人肌の温もりが伝わってくる。
呆然と、焦点を結んだ視界には。
「ア、ルテ……?」
いつになく、険しい顔をしたアルテが居た。
彼の両手が、私の頬に伸びている。
叩かれたのだろうか。ぼんやりと思った。
「しっかりしろよ。いきなりどうした? 上の空で突っ立って。やっぱ具合悪いの?」
その言葉をゆっくりと咀嚼して、己の現状を理解する。
ああ、そうか。アルテには、あの人は見えていないんだ。
なら今この場所には、あの人は居ないんだ。
この視界はまやかしだ。
だったら、まだ間に合うのかもしれない。
アルテを解放しないと。
「大丈夫です」
大丈夫じゃ、ない。
「ちょっと、立ちくらみがしただけで。大したことはないんです。なんでも、ないんです」
魔女様が戻ってきたの。どこかで私たちを見てるの。
「……アルテ」
助けて。
それは、言ってはいけない言葉だ。
唇を引き結ぶ。出かかる言葉に蓋をして、息を吐いて気を落ち着ける。
目を閉じれば、視界が遮断されて、変わりに感覚が鋭敏になる。
頬を包む掌に擦り寄って、その温もりに安堵する。
安心、したのだ。一人ではないことに。
認めるのが怖かった。後戻りが出来なくなるから。
でもいい加減、……認めよう。
ずいぶん久しぶりに人と話して。ずいぶん久しぶりに、対等な『人』として見られて。
捨てたと思っていたはずの気持ちが、どんどんと溢れ出してきた。
自分の心を守るために、傷つかないために、何も感じることのない『物』であろうとしたけれど。
『人』だと言われて、戸惑って、怖くて、それでも、嬉しかった。
私はこの人に、この自分勝手で、強引で、優しい少年に。
歪な存在でありながら、おこがましくも恋をした。
──「それでいいのよ」
静かな声が降ってくる。
いっそ慈しむように穏やかな声音で。
──「認めてしまいなさいな。何も無い空っぽのお人形さんより、今にも壊れそうな淡い心を抱えている方が、あなたは輝くの。……もっと見せて。震えるほどの後悔を、狂うほどの激情を。泣いて、叫んで」
カチリ、と。
遠くでたくさんの金属音が、重なったような音がした。
──「そうして、私を楽しませて?」
声音に薄く喜色が滲んでいる。とん、と一度胸元を押される感覚がして、気配は遠ざかる。
目を開いた時に、もうあの人はいなかった。
視界に映るのは黒い空間ではなく、色のある世界と、アルテだ。
なのに嫌な予感がちらついて、心がざわめく。
先程聞いた音が、妙に耳にこびりついて、離れない。
あの人が押した胸元に手を当てて、そこでふと思い出した。肌と服の間に下がった、慣れ親しんだ金属の存在を。
「……うそ」
思い至った可能性に、血の気が引いた。
待って、まさか、そんなこと。
「え」
驚いたように目を丸くするアルテに、構っている余裕はなかった。
おもむろに胸元のリボンを抜き取ると、そこから腕を差し込んで、首から提げた鎖を引き出す。既に体温に馴染んだ長い鎖の先には、大きめの金属の輪が付いている。
それだけだった。
元々そこにぶら下がっていた物は──鍵束として身につけていた筈のその鍵自体が、全て、綺麗に消えている。
鍵をまとめていたはずの輪だけが、虚しくそこに残っていた。
頭が真っ白になる。
気づけば、その輪を握りしめたまま、地面を蹴っていた。
「は、ちょ、っおい!」
確かめ、ないと。早く、はやく。
違う、大丈夫。きっと思い過ごしだ。
思い過ごしで、あって欲しい。
◇
レンガ塀の一角にある鉄製の扉は、錆ついていながらも、まるで頑強さは損なわれてはいなかった。
勢い込んでぶつかっても、軋む音一つ漏らさない。
息を乱したまま、その扉に付けられた錠前を掴む。
そこにあるはずの鍵穴は、まるで初めからなかったかのように、綺麗に埋まっていた。
「……嫌」
カチリと響いたあの音は、きっと鍵が閉まる音。
何重にも聞こえたのは、他の場所も同じということ。
鍵はない。鍵穴もない。
私も、アルテも、ここから出られない。
「やめて、出して、お願い、魔女様」
足元が崩れていくようだった。
膝から力が抜けて、座り込む。震える手で扉に手を伸ばし、その表面を叩く。衝撃は微塵も扉には響かない。ただ手だけが痛くなる。
「ごめんなさい、許して……!」
繰り返すと、そのうち擦り切れた手に血が滲んだ。それでも、叩くことをやめられなかった。
赤い血の跡が、扉に
「馬鹿っ何やってんだよ!」
暗く濁った視界の中に、唐突にアッシュブロンドが映り込む。
手が動かない。ギリッと軋んだ手首に、ようやくそこを抑え込まれているのを認識した。
「いい加減にしろよ! なんなんだよさっきから! 全然着いてけないんだけど!」
目を吊り上げるアルテは、私と同じように走ってきたのか、少し息が乱れている。
その顔を見た途端、息が詰まった。
私のせいだ。私が、あの人を刺激したから。
扉は閉ざされた。アルテはここから出られない。
帰ろうとしていた所だったのに。
帰ろうと……?
そうだ、アルテは、帰ろうとしていた。
不意に閃いた考えに、私はただ縋った。
それだけが、唯一の希望だった。
「逃げて」
「は?」
基本的に、外へと通じる場所は普段から施錠されている。出入りが可能になるのは、鍵を使う時だけだ。……だけ、だった。少し前までは。
アルテがどこからこの城に入ってきているのか、私は知らない。
だから、あの人も知らないかもしれない。
もしかしたら、そこからなら、外に出られるのかもしれない。
「ここから逃げて。そうして二度と、ここには来ないで」
「何言って」
「お願い」
「説明しろよ!」
「時間が無いの!」
声を荒らげると、アルテは目を丸くして押し黙る。
必死だった。
「お願い。アルテ、お願いっ……!」
目を真っ直ぐに見上げながら、訴える。
数秒、間に沈黙が落ちた。
アルテは舌打ちを零すと、苛立ちにたぎったその目を瞼の下に隠して、身を翻した。
「後で説明しろよ」
後は、来ない。
そうであることを願っている。
遠ざる背中を見つめながら、私は手を合わせて祈った。
日の沈んだ直後の空には、夜の藍が混じり合う。
赤は空の彼方に押しやられて、やがて完全な闇になる。
鉄扉の前で地面に座り込んだまま、私はただ待っていた。
アルテが帰ってこないまま、夜に昏れる瞬間を待っていた。
けれど、そんな願いとは裏腹に、長く伸びた草の合間から、アルテは姿を現した。
その表情に困惑と苛立ちを認めた瞬間、言葉にされるよりも前に、分かってしまった。
ここから出ることが出来なかったのだと。
胸元で組んでいた手の力が抜け、だらりと両手を地面に投げ出す。
無力感が身体中を苛んで、何も考えられない。
長らく忘れていた。
そうだ、これこそが。
あの人が望んだ──絶望。
「ごめんなさい」
ぽつりと落とした謝罪をきっかけに、とめどなく後悔が溢れ出す。
どうすれば良かったのだろう。どうすれば、こんなことにならなかった?
突き放していれば良かったのだ。
揺らぐことなく心を殺したまま、言葉すら交わさずにいれば、アルテの興味はきっとすぐに消えただろう。
それともあの始まりの黄昏に、匂い袋など渡さなければよかったのだろうか。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
最後に外に出たのはいつだった?
少し前に見た、あの人の『プレゼント』が頭をよぎる。右腕を抑え、唇を引き結ぶ。
嫌だ。早く。
どうにかして、外に出ないと。
そうでないと。
このままだと、私はきっとアルテを殺してしまう。
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