ep.4◇人と物の狭間

 今宵の空を彩るは、東に昇る下弦の月。

 夜闇を照らす月光は、極々わずかな薄明かり。


 深夜のイーストエンドスラム街には静寂が横たわっている。

 耳鳴りがする程の静けさに、ひとつ上がったか細い悲鳴は、小さく響いて解けていく。

 弛緩した誰かの肉体は目の前で緩く崩れ落ち、地に転がって息絶えた。


 夜空に手の甲をかざして見る。その表皮に散らばる赤色は、路地の暗がりでよくは見えない。それでもその飛沫に舌を這わせれば、脳が蕩けて思考が霞む。


 酷く喉が渇いていた。

 こんなものではとても足りない。


 地に膝をつき、未だ温かさの残る骸を抱き寄せ、唇を寄せる。かつて頸動脈だった部位の傷口を啜れば、途端口内に同じ味が染み渡った。求めていたその味に、気づけば口の端が上がっているのを感じる。


 ああでも、まだだ。

 足りない。こんなものじゃ満たされない。

 もっと。

 もっともっともっと。

 欲しい。

 欲しい。

 舌先が痺れるようなあの甘さ。

 脳髄が震えるような、あの快楽を。




 ◇




 分からない。

 どうして私なんかに構おうとするのだろう。


 窓から覗く空は、灰色に濁っていた。その下に居るのが覚えのある人物だと気づいたのは、少し間を置いてからだ。

 ここから見えるということは、あそこも既に敷地内のはず。


 正面の門には頑強な鍵が取り付けられており、この城を囲う塀は登るには高すぎる。毎度毎度、彼は何処からここへ入り込んでいるのだろう。


 彼はあちこちに視線を滑らせている。その動作の意図が分からず、少しして、何かを探しているのだろうかと思い至った。ただ、それにしては足元を見ていない気もするけれど。


 彼は、……彼の名は、なんだっただろうか。

 ふと気がついて、記憶を探る。普段気にもかけない過去を引き出すのには、思いのほか時間がかかった。

 ようやく思い当たった彼の名を、小さく口の端に乗せる。


「……アルテ」


 陽気で、気さくな少年だ。この場所にはそぐわない程に。

 少しの間、その姿を見ていた。何を考えるでも感じるでもなく、ただ風景の一部を見るように、ぼんやりと。

 その時ふと、アルテの顔がこちらを向いて、窓越しに目が合った。

 一瞬目を見開いたアルテは、直ぐに破顔し近づいてくる。


「やぁ、ティア」


 曇り空の下にあっても、彼の表情は先日と同じく明るかった。


 その声が少し聞き取りづらくて、なんとはなしに窓を開けると「あれ」と少し鮮明になった呟きが聞こえてくる。

 つられてアルテの顔を見ると、こちらを見て首を傾げていた。


「探し物ですか」

「え、なんで?」

「……あちこち、眺めていたようなので」


 見たままを伝えると、アルテはわずかに目を丸くする。


「なんだ見てたの? ってか急に何? 今まで微塵も興味示さなかったのに」

「興味は、ないです。見つかったら帰ってください」

「……あー、うん、なるほど。早く帰って欲しいからか」


 それ以外に何があるというのだろう。

 小さく頷くと、アルテは頬を掻きながらうっすらと笑む。けれどその笑顔は、先程とはどこか違うもので。

 この笑顔は、なんというものだっただろうか。

 ぼんやりと霞んだ思考を巡らせて、小さな疑問の答えを探す。程なくして出た答えは、実にたわいもないものだった。


 苦笑。

 アルテは苦笑しているのだ。それが何故なのかまでは分からないけれど。


「んー、探し物っていえば探し物なのかもしれないけど……とりあえず中入っていい?」

「……どうして」

「どうしてって、そろそろ降ってきそうだし?」


 降る、とは、なにが。

 よく分からないままに首を傾げると、アルテは少し視線を逸らした。その先を辿ってみると、頭上の曇天に行き着く。


「きそうっていうか、もう降ってきてるかな」


 見上げた灰色の空からは、ぽつぽつと雨雫が落ちてきていた。

 空気に滲んでいる雨の匂いに気がついて、緩く瞬く。そうか。

 どうりで、外気が肌寒いと思った。


「ねえティア、しばらく雨宿りしていきたいんだけど、いいよね?」


 視線を戻すと、アルテは窓枠にもたれて頬杖をついていた。

 目が合うと、口の端を釣り上げて、どこか挑発的に笑う。


「それともこの雨の中、ずぶ濡れになってでも帰れって言う?」




 ◇




 雨の中、外に居たままでは濡れる。

 身体が濡れたままでは、人によっては風邪をひく。

 そんな当たり前の事実を思い出すのに数秒を要する程度には、頭の回転は鈍っていた。

 ……いや、違うか。長らく自分とは縁遠い事実であったから、とっさに思いつかなかっただけだ。

 そもそも、どうして私は今、こんなにも何かを考えているのだろう。


「ティアってさ、いつも外見てるけど、何見てんの」


 しっとりと髪を濡らしたアルテは、私を見て不意にそう零した。その顔をぼうっと見返す。

 なに、とは。

 少し考えて、いつも視線の先にあるものを思い出す。


「……空」

「……それだけ?」

「はい」

「それって天気によって何か変わるの? 今日みたいな雨の日は? 何か思うの?」

「……雨だな、と」

「えー……」


 聞かれたままに答えると、アルテはなんとも言えないような顔をした。


「空ばっか見てて暇じゃないの?」

「……暇?」


 暇、とは、なんだっただろうか。

 返す言葉が分からず押し黙ると、アルテは一拍おいて「まあいいや」と笑う。


「どうせだからこのまま城の中探検していい? 雨止むまで俺は暇だし。案内してよ」

「……案内?」

「わざわざ探し物聞いたってことは、手伝ってくれるんでしょ? 俺が満足すれば早めに帰るかもよ」


 手伝い。言われた言葉を、心中で反芻する。

 そんなつもりはなかった。

 ただ、早く帰って欲しかっただけで。


「ティアが嫌なら、勝手に探検するけど」

「……どちらも、だめです」

「え、けち。いいじゃん。どうせ魔女は居ないんだろ?」

「居ないけど、だめです」

「えー……。あ、壺がある。本当に金持ちの家には壺があるんだな。金持ちっていうか城か」


 廊下の端に置かれている壺を見たアルテは、そう言って手を伸ばした。

 一瞬遅れて、どくりと、心臓が高鳴る。


「っだめ」


 気づけば、手を伸ばしていた。

 掴んだ手首は温かくて、視界の端に目を丸くするアルテの横顔が映る。

 でも、そんなことも気にならないほどに、頭の中では言葉が、記憶が回っていた。


 無邪気に笑いながら、炎の中に佇むあの人。純真に呪詛を紡ぐあの人が。

 見つかる。

 根拠もないのに、妙な確信があった。

 ここは魔女の城。

 この中の物は、全て美しく残忍なあの人の持ち物。


「……死にたくないなら、無闇に触らないで」


 絞り出した言葉は、奇妙に掠れていた。

 呼吸が乱れている。心臓の音がする。それを自覚して、どうすればいいのか分からなくなる。

 どうして、こんなに心が乱れているのか。

 ……心?

 違う。

 違う。錯覚だ。そんなものは持っていない。

 要らない。必要ない。


「……了解」


 もっと食い下がるかと持っていたアルテは、思いのほかあっさりと引き下がった。

 それを聞いて、手から力が抜ける。いつの間にか詰めていた息が、ひとりでに抜けていく。

 何故か再び力は入らず、直ぐには顔をあげられなかった。


「……ねぇ、ティアはさ、逃げたいとか思わないの」

「……」

「魔女は居ないんだろ? なんで大人しく帰り待ってんの。今のうちに抜け出せばいいのに」


 逃げる。逃げたい。どうして。

 逃げていったいどうするの。

 分からない。

 分からない、何も。


「そういえばこの間も聞いたんだっけ。ねぇ、もう一回聞いていい? ティアは自分の意思でここに居るの? ここに居たいの?」

「……私の意思は問題ではありません」

「あるでしょ」

「どうして」


 彼が何を考えているのか、分からない。

 森の奥、魔女の城に居る得体の知れないものに、どうしてそこまでこだわるのか。

「だってさ」と零したアルテの声に促されるように、緩く頭を持ち上げて。


「そうやって自分殺してると、息苦しくない?」


 続けて彼が放ったその言葉は、想定外の鋭さで私の内側を突き刺し、抉った。

 息が詰まる。


「……私、は」


 何かを言いかけて、口をつぐむ。

 自分でも、その先に何を言いたかったのか、分からなかった。


 私に意思はいらない。心もいらない。感情はいらない。

 要らないのだ。

 そんなものを抱えていても、何かが変わる訳でもない。何も、変わったりしない。

 そんなものがあったところで、ただ悪戯に苦しみを覚えるだけだと、もう知っている。


 だからずっと前に、心は捨てた。

 それを再び欲しいとは思わない。

 所詮私は、人の形をした物なのだから。


「どうして」


 私は物でいい。物のままでいい。

 私を人として、認識しないで欲しい。必要以上に興味を示さないで欲しかった。……それなのに、どうして。


「あなたは、そんなにも私に構おうとするの」

「……どうして、か」


 初めて見る顔だった。

 その口元には変わらず薄い笑みが浮かんでいるのに、眼差しだけが、どこか噛み合っていない。

 軽く伏せられた目に浮かぶ感情がどういったものなのか、すぐには分からなかった。


「どうしてだろうね」


 静かに零れたその言葉は、あるいは本当に独り言だったのかもしれない。

 一瞬の表情はすぐに塗り替えられて、アルテの顔にはまたいつもの笑みが浮かぶ。


「どうして、どうしてって、ティアはそればっかりだね」

「……、いけませんか」

「ねえティア、まだ自分が物だって思ってるの」


 口を引き結ぶ。思っているか、ではない。実際そうなのだ。

 だって、私は。


「物が何かに『どうして』だなんて、いちいち考えると思う?」

「……っ」

「物が何かに疑問を持ったって、意味がない。答えを知ったところで何も変わらない。文句すら出る余地がない。……本当に、君が意思のない物だって言うんなら、『どうして』なんてそもそも出ない」


 真っ直ぐな視線に射抜かれて、身体が固まる。この間と同じ言葉が、どうしようもなく私を揺さぶる。


「君は人だろ、ティア」

「やめて」


 耳を塞いでしまいたかった。

 これ以上、『私』を掻き乱さないで。

 分かっている。そんなことは、言われるまでもなく分かっている。

 それでも、私は物なのだ。

 物と思っていたかったのだ。

 何があっても、どんな扱いを受けても、何にも心動かすことがないように。


「……私は物です。人であったことなんて、ない」


 心に浮かぶ記憶の中で、私の所有権はいつも、私以外の誰かが握っている。

 私はいつも誰かの物だ。

 私が私のものであったことは、ない。


「そう、わかった」


 やけに静かな声だった。

 私を見るアルテの目は真っ直ぐで、でも口元に笑みはもうない。

 纏う雰囲気がどこか違っているような気がした。今まで見せていた明るいものは、なりを潜めている。


「ティアは望んでここに居る訳じゃない。それ以前に、そもそも抜け出す意思も、考える気力すら捨ててるんだね? 自由もない状況を受け入れて、ただ誰かに従うだけの、あやつり人形でいるのを望んでいるんだね?」


 ひとつ呼吸を置いて、吐き捨てるように言う。


「そんなに奴隷でいたいのかよ」


 怒っているのかもしれない。漠然とそう思った。

 けれど、どうしてアルテが怒るのか分からない。だから間違いかもしれない。


「そんなに自分が物だって言い張るんなら」


 不意に、アルテが距離を詰めてきた。腕を掴まれて、それに反応する間もなく、ぐいと引かれる。


「俺が君をここから盗み出したら、魔女じゃなく俺を新しい主と思って、黙って着いてきてくれんの」


 何を言われたのか、一瞬分からなかった。

 思考が白く塗りつぶされたまま、呆然とアルテを見上げる。交差した視線は、今までの彼とは別人のように強いものだった。

 それはそれ程長い時間ではなかった。ほんの数秒でしかなかったのかもしれない。


 アルテの力が抜ける。その顔に見慣れた笑みを張りつけて、アルテは私から目をそらす。


「……冗談だよ」


 その声音は、どこか乾いているような気がした。

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