ep.19◇とある少女の回顧録 - 瓦解※
月日の感覚はとうに薄れて、感情はあまり動かなくなってきた。
もう、自ら何かを考えることは少ない。何もかもに現実味がなくて、すべてが他人事のようで。
それが問題だとは思わないけれど。
「僕の屋敷においで」
下ばかりを見ていた視界に、不意に誰かの手が差し込まれる。
緩慢に顔を上げると、知らない人が柔和な笑みを浮かべていた。
「君は今日から僕のものだ」
◇
対面に腰掛けた青年は、ずっと柔らかに笑んでいる。対照的に隣に腰掛けた人は、眉間に皺を寄せていた。
揺れの少ない馬車に揺られて、その隅で縮こまる。鈍い思考を何とか回して、少し前を思い出す。
詳しい経緯は分からないが、どうやらまた買われたらしかった。目の前の貴族様の気まぐれで。
「何か喋ってみてくれるかな」
静かだった車内に、突然声がこだまする。
数拍置いてから頭をあげると、目の前の新たな主人がこちらを見ていた。
「君全然喋らないから。どの程度なのか知っておきたいんだ」
言われた言葉の意味が、すぐには分からなかった。
どの程度、とは。
「あ、僕の言うことが分かるかい? それともやっぱり死んでいるのかな」
死んでいる。かけられたその言葉を反芻し、内心で首を捻った。
どういう意味なのだろう。死体じゃないことくらい、見て分かるはずなのに。
「──い、え」
久しぶりに出した声は、酷くひび割れていた。
喉を抑えて俯くと、「へぇ」と感心したような声が聞こえてくる。
「なるほど。君はまだ、完全に壊れたわけではないのか」
そう言って彼が浮かべたのは、柔らかい笑顔。
けれど笑みを向けられるのがどこか居心地悪くて、ますます隅に身体を寄せて縮こまる。
それ以上の会話はないまま、車輪が土を踏んで回る振動だけが、断続的に身体に響いていた。
◇
この人は何がしたいのだろう。そう思うのは、これでいったい何度目だろうか。
雑事の用命もされなければ、何かを要求されるわけでもない。汚れているからと身体を洗われ、怪我の治療だと包帯を替えられた。そして新しい服に着替えさせられ、遅いからとベッドに放られる。
大抵は主人の付き人の青年が行ったが、包帯だけは主人自らが替えた。およそ奴隷への対応ではない。
まるで労わっているかのようなその態度が、あまりにも未知で、理解ができない。
いったい何をさせたいのだろう。
奴隷が欲しいなら市に行くのが普通なのに、主人はわざわざ所有されている奴隷を買った。
「君は、……ああ、そういえば名前が無いんだったよね」
思い出したように呟くと、主人はこちらを見て考える素振りを見せる。
「まぁ題なんて後でも構わないんだけど、呼称がないと何かと不便か」
題。内心で繰り返して、目を伏せる。
時々この人は、奇妙な言葉選びをする。
「メメント・モリ、かな」
「めめ……?」
「メメント・モリ。死を想え」
主人は一つ頷くと、満足そうに笑った。
「呼ぶには長いから、普段はメメでいいか」
一見穏やかなその態度に、素直に安心できないのは何故なのだろう。
それから数日経った朝、包帯を替える時のこと。主人は傷痕の残る皮膚を見て「これ以上は治らないのか」と気づいたように呟いた。
「顔と腹部、胸部は無傷。右上腕に十センチ大の傷痕。左腕にもあるがこちらはほとんど目立たない。右大腿に火傷の痕。背中に複数……なるほど」
何かを考え込んでいる主人を見ながら、無言でその場に立ち尽くす。素肌を撫でる空気が少し寒くて、身体が震える。
「顔の火傷も右、身体の傷も右に集中……となると、外すならやっぱり右かな」
「外す……」
何を。ぽつりと漏れ出た疑問に、応えはない。
包帯はもう巻かれず、ただシュミーズドレスのみを被せられた。
主人は今までになく上機嫌に顔を綻ばせて、「行こうか、メメ」と腕を引いた。
「準備は整った。案内するよ」
◇
その扉の向こうはたくさんの色で溢れて、まるで別世界だった。
壁際には彫刻が置かれている。木で出来たものや白い石のもの。形は人もあれば動物もあり、様々な形が組み合わさった、一言で説明しがたいものもある。
隅には何枚もの板が連なって立てかけられていた。そこに描かれた絵は極彩色のものや淡い色合いのものなど、色々で。
部屋いっぱいに満ちているのは、微かに漂う独特の匂いだった。
「ようこそ、僕のアトリエへ」
呆然とそれらを見ていた時、不意に横から声が聞こえた。
アトリエ、ということは、これらを全てこの人が作ったのだろうか。
「気に入った?」
問われた声につられて、傍らを見上げる。目が合った主人は、いつものように穏やかに笑っていた。
「でも残念。メメに見せたいのは、この奥の方なんだ」
そう言って主人は部屋の奥まで行くと、かかっていた黒のカーテンを引く。すると壁だと思っていたそこが開けて、奥に空間が現れた。
薄いカーテン一枚を隔てたその向こうは、何もかもがガラリと違っていた。
黒や赤を基調とした抽象画。色んな生物が掛け合わされたものの模型。どこか暗い、怖気の立つ雰囲気の作品。
何よりも真っ先に視界に入るのが、すぐ目の前にずらりと並んだ、たくさんの人の無機質な瞳。
幾対もの視線に射抜かれて、身体が固まる。
「蝋人形だよ」
かけられた声にはっとする。
「彫刻や絵画も好きだけれど、少し前からはこれに凝っているんだ。材質が素直で加工がしやすいから、作っていると楽しいんだよね」
人形。とても、精巧な。
本物かと、思った。
はやる心臓に手を当てて、細く息を吐き出す。
でもそうか、人形。なら、大丈夫。
腕のないものも、半身が骨になっているものも、動物の体が移植されているものも、臓物が漏れているのものも、全部作り物。
生き物じゃない。作り物だから、大丈夫。震えそうな身体を押し留めて、内心で言い聞かせる。
ぎこちなく首を巡らせると、こちらを見ていた主人と、目が合った。
「ねぇメメ、君はどちらが好き? 入り口の作品と、カーテンを隔てたここと」
弧を描く口元から、目が離せない。
「僕はね。美しいものほど、穢したくなる」
吐き出される言葉から、意識を逸らせない。
「大抵人は完璧を好み、求めようとする。事実完璧なものはどれも美しい。シンメトリー、黄金比、均衡や調和。完璧と称されるものには大抵法則がある。目指すべき普遍的な理想がある。だけど所詮はそれだけだ、何の面白味もありはしない」
直立する人形のひとつに指を這わせ、主人は憂うように息を吐く。
「完璧なものや美しいものにほど、一点の
瞳の奥に、仄暗い熱が点っている。
「予定調和なんて退屈だ」
怖い。
「ドロドロに濁りきった混沌の中の光の方が、ずっと輝いている」
怖い。
「だけどいくら創っても、こんな小さな部屋で出来た
流れてきた視線に、身体が竦む。
伸びてきた手に腕を掴まれて、喉の奥でヒュっと、息が漏れた。
「僕はね、物言わぬ作品にはもう飽きてしまったんだよ」
その目に暗さを宿しながら、主人の声はあくまで優しい響きを保っていた。
「いくら精巧に作った所で、所詮は紛い物だ。たとえ満足のいくものが出来ても、虚像じゃ意味が無い。偽物は自分では輝けない。そうじゃないんだよ、欲しいのは本物なんだ。たとえ不完全でも、わずかな間しか存在できなくても、何よりも美しい一瞬の煌めきが、僕は欲しい」
だから、行こうか。
腕を引かれた。
硬直した身体は動かないまま、呆然と見上げる。
視線の先で、「どうしたの?」と主人が微笑む。
「おいで、メメ」
足が、震えた。
◇
暗く湿った部屋だった。
天井から釣り下げられたランプの火が、中央のベッドを照らしていた。
窓には暗いカーテンが引かれていて、外の光は漏れてこない。ベッドの横の台には別のランプが乗り、同じく台の上に並べられた何かが、炎を反射して鈍く光っていた。
後ろでカチャリと音がした。
「な、に」
振り向くと扉前に居る主人の手には、鍵が握られている。
鍵。どうして、鍵を。
「生きた作品を作ろうと思ったんだ」
暗がりに浮かぶ微笑みに気圧されて、後退る。
「君は、その試作のつもりで買った」
しまい込んだはずの本能が、警鐘を鳴らしている。
冷や汗が背を伝った。
「なに、を」
「奴隷市ではなく、あの商家から君を買ったのはね、既に心が壊れた人の方が、加工がしやすいと思ったからなんだ。まぁどうせ試作だから、早く試したいと言うのもあったけど。……それにね、君を見た時にどうしても欲しくなってしまった」
じりじりと距離を詰められるたび、同じだけ後ろに下がる。
見開いた目が乾いて痛いのに、瞬きさえするのが怖くて。
「君はとても良い素体だ。元は美しいはずのその
目の前の主人が、場違いなほど柔らかく、笑う。
「その不完全さが、どうしようもなく美しい」
後ろに下がり続けていた背が、壁に当たった。
「ねぇメメ。僕は君の上に、死を表現しようと思うんだ」
メメント・モリ。死を想え。
主人がつけた私の題名。
「だから、僕にその身体を明け渡して」
主人の手が伸びてくる。
脳裏に先程の蝋人形がよぎる。
「……やだ」
だめだ。
ドクンと、心臓が脈打った。
これは、だめだ。今までの比ではない。
生存本能が叫ぶ。
耳鳴りがする。鼓動が鳴る。頭の中で誰かが急き立てる。
逃げないと。早く、早く。取り返しのつかない所へ、堕ちてしまう前に。
「っ」
必死だった。
一度膝を曲げてしゃがみこんでから、床に手を着いて身体を押し出す。
低姿勢で主人の傍からまろびでると、そのままベッドを迂回して、入り口の扉へと駆けた。
そのドアノブに飛びついて、開かない扉に思い出す。
扉は、駄目だ。鍵が掛かっているから開かない。
あと、後はどこ。逃げられるところは。
見渡した視線が、壁のカーテンを捕捉する。
──窓からなら。
急いでカーテンを開けた所で、私は固まった。
カーテンの長さとは反して、肝心の窓は遥か上。明かりをとるための小さな窓は、どう足掻いても届かない。
一瞬惚けたその隙に、仄かな明かりを遮って、影が差す。
振り返ると、すぐ目の前に主人が居た。
「やめ」
「怖がらないで。大丈夫」
とっさに突き出そうとした腕ごと抱え込まれて、気づけば私は主人の腕の中にいた。
耳元に落とされる囁きが、毒のように身を苛む。
「作り替えてあげよう。外側も内側も。僕の理想とするものへ」
右腕の裏に痛みが走る。押さえ込まれて自由にならない頭を振って、無理やりその方向に顔を向ける。
そこに信じられないものを見た。
注射器。
薬。
押し出された最後の一滴が、無くなる。
引き抜かれたものが無造作に捨てられて、床に落ちる。
つまり、全部なかに。
顔が青ざめるのが分かった。
「や、はなして!」
無茶苦茶に腕を振る。
なに、したの。なんの薬を。どうして。
「や、だ、やだ、やだやだやだ!」
かくりと、膝から力が抜けた。
「……あ、なに、……な、ん」
身体が重い。力が抜ける。
舌がもつれる。
感覚が遠のく。
「安心して。ちゃんと麻酔はしてあげるよ。暴れられて手元が狂うと困るからね」
瞼が重い。だめ。
だめだ。早く。
いやだ。
いやだ。
繰り返し唱える拒絶に反して、身体は動かない。
いつの間にか、視界は闇に呑まれていた。
◇
痛みはなかった。何も感じない。
遠く、何かの音が聞こえてくる。
意識は朦朧としている。
重い瞼を持ち上げながら、瞳だけを緩慢に巡らせる。霞んだ視界は、なかなか焦点を結ばなかった。
何をしていたんだっけ。
いったい、どうなったんだっけ。
私は。
私、は?
薄暗い部屋が見え出し、ぼやけていた記憶が、薄く浮かんできて。
すぐ横の台を見ると、赤く染まった鈍色の器具が、無造作に置かれていた。
その視界に、切り離された自らの右腕が映りこんだ時。
頭の中で何もかもが、ぽきりと折れた音がした。
きっと初めから、神様なんていなかった。
救いはない。助けはない。自分で抜けだす力もない。
感情も思考も自我も願いも。何を持っていた所で結末は変わらずに、どんな行動も無駄に終わる。
なにもかもが、無用に心を抉っていくばかりなら。
もう、いらない。
ぜんぶ、いらない。
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