ep.6◆首筋に刻印

 血を飲んでいる間、ティアは少し口調が幼くなる。

 普段よりだいぶ表情が緩み、よく笑い、よく泣き、よく怒る。

 そして何より、遠慮がない。


「──! っ、た、ちょ……っ」


 再び顔が近づいてきて、首筋に盛大に噛みつかれた。

 肉まで持ってかれそうな激痛に一瞬ひるむと、すぐに湿った何かがそこを這って、背筋がぞわりと粟立っていく。


 わけがわからなかった。

 え、何。何この状況。なんでこんなことになってんの。


「ぃう、っ、ま、て待って止まれ!」


 左手に持っていたはずの折りたたみナイフは、いつの間にか取り落としていたらしい。荒い息をつきながら、目の前の両肩を掴んで押し返す。やけにあっさりと離れてったかと思えば、直後にティアの喉が、何かを飲み下すように上下して。


「しってるよ」

「っ何が」

「アルテは、さわられるのが苦手」


 いきなりの告発に、思考が止まった。

 ティアは肩を押さえる俺の手を見て、「さわるほうなら、平気なの?」と首を傾げている。

 待て。

 え、待ってほんと。嘘だろ。

 なんでこんな、あっさりばれてんの。


「……勘違い」

「でも、いつもからだ、強ばってるよね」

「気のせいだろ」

「だめ。ちゃんと言わないと、だめなの」


 薄く笑いながら言ってみても、ティアは微塵も揺らぐ様子がなかった。


「嫌なことは、嫌っていわないと、だめ」


 添えるだけに成り下がった両腕を押しのけて、ティアがまた身を乗り出してくる。「いわないなら」と紡ぐ唇は、血のせいで赤く染っていて。


「このまま、食べちゃいます」


 乱れた前髪の隙間からは、似合わないほど濃い火傷痕が覗いていた。


 視線が交わる。垂れてきた髪が目の前で揺れる。今にも顔につきそうなほど、近くで。

 数秒その目を見返していたけど、一向に逸らされない視線に、ついには顔を背けた。

 耐えられそうになかった。


「……勝手にすれば」

「あれ?」


 投げやりに言い捨てると、視界の端に、不思議そうに首を傾げる姿が映る。


「食べますよ?」

「どうぞ」

「? かおは嫌そうなのに。天邪鬼だ」

「うるさい。なんなの、散々好き勝手しといて。どうせ血ぃ飲めりゃなんでも良いんだろ。やりたきゃさっさと済ませろよ」


 何がしたいのかわからない。やってることがめちゃくちゃだ。

 いや、そもそもこの状態のティアに、理論的な行動を期待する方が間違ってるんだ。


 もういい。餌は餌らしく、黙って食われてればいいんだろ。それで満足だろ。だったらとっとと終わらせて、解放して欲しい。

 早く終わらせて、一人になりたい。


「あのね。さっきの、そうなの。ほんとはね。人のことまで、きにする余裕、ないよ。ぜんぜん、ない」


 急に、左頬に手の甲が触れた。

 思わず小さく肩が跳ねる。そうしているうちに、ぐいと力を込められて、顔を無理やり正面に戻された。

 交差させるように伸びている左手は、離れるとこなく頬に触れたまま、ほんのりと温かい。


「だけどそれは、見なくていいりゆうには、ならないの。きずつける免罪符には、ならないの」


 見下ろしてくる目は狂気を帯びたものなのに、その視線の奥は、痛いくらいに真剣で。


「──私が、いやなの」


 居心地の悪い眼差しに晒されながら、ふと、違う、と思った。

 これは、違う。


『じゃああれか。ティアちゃんのことは非力な子供扱いしとんのね』

『あの子そんな弱い子じゃないでしょ』


 弱くない。非力じゃない。子供じゃない。


 どこまでも真っ直ぐなその目に、内側から全部、暴かれる気がした。

 そんなの、──冗談じゃ、ない。


「御託はいいから、さっさと食えよ」


 右手を伸ばす。少し屈んでいたその首の、後ろに手を絡めて引き寄せる。そうすると、目を丸くした顔が、俺の方へと落ちてきた。

 首筋に埋まったティアが、数秒置いてから躊躇うようにゆっくりと、傷口を舐める。その感触に、身体の横で手を握りしめる。


 大丈夫。

 大丈、夫。

 だいじょう、


「……っ、ぅ」


 口を引き結び、零れそうになる何かを噛み殺す。

 ざらりとしたものが、心の表面を何度も撫でていく。そのたび何かが削られていく気がして、どこか息が苦しくなって。


 理由なんて、知らない。聞かれてもわからない。でも、初めからこうじゃなかった。

 昔。昔は、もっと。


『本当に、アルテは寒がりだね』


 もっと、


『いいよ、おいで』


「……ごめんね、泣かないで」


 すぐ傍で聞こえた声に視線を上げると、いつの間にか首元の熱は消えていた。


 濡れそぼったそこを空気が撫でて、肌寒さが駆け抜ける。

 舌足らずな口調で、未だ狂気の混じった目で。血を求めているはずのティアが、何故か顔を歪めている。

 いつかのように、今にも泣き出しそうな顔で。


 何、言ってんだ、泣きそうなのはそっちだろ。

 俺は、泣いてなんかない。

 瞬きをした目は、ちゃんと乾いてる。だから泣いてるわけが無い。そもそも泣く理由も、ない。


 笑顔を作ろうとしたのに、頬が上がらなかった。

 薄暗がりの中で、ティアの顔が、ますます歪んで。

 ──駄目だ。

 その顔は、苦手。


「わ」

「見んな、馬鹿」


 引き寄せた体温は、再び首のあたりに収まって。勝手に生まれてくる不快感も鳥肌も、一向に治まってはくれないけど。

 それでもこっちの方が、全然ましだ。




 だから頼むから、見ないで欲しい。

 これ以上暴かないで。知ろうとしないで。俺に価値を見出さないで。

 心配なんていらない。尊重なんてしなくていい。優しさも共感も同情も気遣いも、何もかもいらない。


 その、全部が。

 悪意よりも、暴力よりも──俺を蝕む猛毒だ。




 ◆




 耳元でずっと、雨音がしてる。

 耳を塞いでも、目を逸らしても、頭の中から離れない。


 ──いつの間にか、空が泣いてた。

 暗く濁った灰色の空から、ぽつぽつと涙が落ちてくる。

 仰向けに寝転んだ身体に、上を向いた顔に。雫がいくつも弾けて消えて、だんだん全部が冷たくなって。


 お空も悲しいと泣くんだって。

 なんで、泣いてるのかな。泣いちゃえとか思ったせいかな。

 ごめんね。でも、のどがかわいたから。


 上に口を開けて、落ちてくる涙を飲めないかなと思ったけど。顔にはよく落ちるのに、口の中にはあまり入ってきてくれない。

 カラカラのままの口を開けて、ただぼうっと灰色の空を見続けていた。


 いつまで、ここにいればいいんだろう。

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