我が愛しの化け物へ

幕間

insane or innocent ◇１

　アルテの熱が下がらない。

　と言うよりは、目に見えて悪化している。

　初めに目覚めた時点では微熱程度だったのだけど、ここ二日で熱が上がったようだった。

　熱の他に頭痛も出てきたらしく、時折額を押さえているのを見かける。立ち上がればふらついて、怠そうに息をついている。

　熱は下がらないのに、早く診療所（ここ）を出たがって、あまり安静のままではいてくれない。傍目から見ても具合が悪いのに、本人に言うとなんでもないように返されるのが常だった。

　どうしてそこまでここを出たがるのか。医者に尋ねると、信用されてないからだと、彼は言った。

「あー元々あれ、筋金入りの人間不信だしな。熱で頭も回って無さそうだし」

　別にオレ相手じゃなくてもあんなんじゃねェか。知らねェけど。

　そうどうでも良さげに話す医者の手元には、中身の入ったままの薬包がある。

　薬も拒否されるらしい。何が入っているか分からないと。

　仕方がないから、飲み水に気づかれない程度の薬を溶かしているのだと言っていた。舌が馬鹿になっているらしく、それは意外と飲むと。しかしそれも、水が濁らない程度の少量の散剤か、無色の液剤しか使えないから、あまり著しい効果はないという。

　けれど熱が下がらないのは、あまり寝られていないことの方が原因だと思う。

　アルテがぐっすり眠っていたのは最初だけで、一度目を覚ました後は、見るたび眠そうに瞬きを繰り返している。目元を注視してみれば、うっすらと隈が浮かんでいるのが分かる。

　アルテは眠りが浅い。少しの物音でも、すぐに目を覚ます。

　足音を忍ばせても近づけばわかるようで、熱に浮かされながら、億劫そうにまぶたをあげる。それを繰り返して、時々気を失うように数時間眠り続ける。

　一度その間に薬を打ったせいか、次に目覚めてからは尚更寝ようとしなくなった。

　少し前、うなされているのが心配で近寄った時、直ぐに飛び起きた彼に思い切り振り払われた。

「寄るな……！」

　荒い息をついた彼は瞳に動揺を多分に含ませ、全身で拒絶を表していた。

　少しして落ち着きを取り戻した頃、気まずさを滲ませながら、アルテは言い訳のように呟いた。

「わる、い。寝ぼけた」

　熱と不眠のせいか、感情はいつもよりも剥き出しで、余裕を感じられなかった。

　右頬に張り付いたガーゼがやけに目立ち、見えている箇所の顔色は、熱の割には血の気がない。

　薄らと潤んだ目はぼんやりと虚空を漂い、どことなく焦点が合っていない。

「帰んないの……」

「帰るところ、ないもの」

「そ、だっけ……」

　考えるようなそぶりをすると、頭痛が酷いのか、直ぐに顔をしかめる。額を押さえる左手は指先まで白く、まだ血が足りていないことがよく分かった。

「寝ないと、治らないよ」

「寝……」

「眠って。お願い」

　声をかけても、首を振られる。

「……人が、」

　ぽつりと、言葉が落ちる。

「近くに、居ると……まともに寝れない」

　その言葉に、虚をつかれた。

　荒い息とともに吐き出されたものは、とても冗談には聞こえない。そんな余裕もないだろう。

　思えば、こんなにも剥き出しの本音をぶつけられたのは、初めてかもしれない。

　本音というか、──弱音。

　だからだろうか。どうすればいいのか、まるで分からなかった。

　◇

　緑に囲まれた澄んだ空気の中を、ゆっくりと歩く。

　留め具の壊れたクロークを羽織り、脱げないように、左手で前を掻き合わせた。

　右腕には白骨が嵌ったままだから、隠さない訳にはいかなかったのだ。

　どこにも行くところがない。

　森の中を歩きながら途方に暮れる。

　あの後言われるがままに、アルテの傍を離れた。思えば心配で頻繁に覗いていたから、そのせいでなおさら寝られなかったのかもしれない。

　私が居ることで眠りを妨げていたのなら、本末転倒だ。だからゆっくり休めるようにと、飛び出してきたのだけど。

　足元で枯れ落ちた葉っぱが、小さく音を立てる。木々の合間から射す木漏れ日が、地面に斑（まだら）の模様を描いている。

　無意識に胸元に手を伸ばしかけて、そこにあったお守りは、だいぶ前にアルテにあげてしまったことに気がついた。

　元々は貰い物だった。森を歩く時だけ、時々指先で弄っていた。魔女様が気まぐれにくれた、気持ちを落ち着ける匂い袋。

　出会った時のアルテが不安げにしていたから、何となくあげてしまったのだ。

　森には魔女の他に、人喰いの獣がいるという。

　あちらは本当にただの噂だ。ここでそんなものは見たことがない。

　魔女の噂が似たようなものだから、そこから派生したのではないかとは思うけど。

　……魔女様。

『さようなら』

　もういらないと言われたのに、再び行ってもいいものだろうか。

　そう思っても、今はあそこ以外に、私が行ける場所はなかった。

　古城は数日前までの様相が嘘のように荒れ果てていた。

　もうずいぶん人の出入りがないかのようだ。内部までも蔦が這い、調度類は壊れ、絨毯は破れ、隅で植物が茂っている。

　窓はところどころ割れていて、隙間から風が吹き込んでいた。内部の木製の扉はところどころ腐り果て、扉自体がないところもある。雨風で退色したかのように、床も壁もあちこち染みができていた。

　これではまるで、外観通りの廃墟だ。

　どこを覗き込んでみても、同じようなものだった。

　数ヶ月を過ごして、少しは馴染んだと思っていた森の古城は、今ではまるで知らない様相を突きつけてくる。

　埃っぽいエントランスで、半ばから倒壊した階段を見上げながら、上り口の手すりに手を這わす。

　なんだか本当に、繋がりが切れたみたいだ。

　少し前に交わした別れの言葉が、内部の違いを見るたびに、明確な形をもってくる。

　ここは本当に、私の帰る場所ではなくなったんだ。

「……一緒に居ても、いいんだよね？」

　口から漏れた言葉は、静寂に虚しく木霊して。それが誰に向けられた思いなのか、自分でもよく分からなかった。

　アルテになのか、魔女様になのか、自分自身になのか。あるいはそのすべてにか。

　手すりから手を離し、その場にしゃがむ。近くなった床には階段の残骸らしき瓦礫が、所々に散っていた。

　あの日一緒にいたいと言ったのは、確かに私の本心だった。その言葉を、アルテは肯定してくれた。

　目覚めたアルテと言葉を交わしたその日に、魔女様は私を手放した。

　だから、いてもいいのだと思いたい。思いたい、けれど。

　何年ぶりかに戻ってきた感情は、意思は、まだ私の中で馴染みきれていない。これが本物で真に正常なものなのか、はっきりとした確信が持てない。

　ずっと、意思なく誰かに所有されてきたから。

　私の認識は、これで本当に合っている？

　どこか致命的な勘違いをしてはいない？　何かを見落としたりはしていない？　実は疎まれたりしていない？

　このまま、またあの病室に戻ってもいいの？

　一緒にいても、いいの？

　一人思考に沈んでいた時、不意に近くで鳴き声のようなものが聞こえた気がした。

「……？」

　これはなんだろう。高くて小さな、──猫のような。

　こんな森深くの古城に？

　思いながらも立ち上がり、音の聞こえる方へと進む。どうやらエントランスから続く、廊下の方から聞こえるようだった。

　その廊下を覗き込んだ時、長い廊下の手前の方に、赤い首輪をつけた黒猫がいた。目が合ったその猫が、私を見上げて鳴いてくる。

　どうして、こんなところに猫がいるのだろう。あの街からは離れすぎているから、迷いこんだわけでもないのだろうし。

　不思議に思いながらも、猫の後ろにあるものが気になって視線をずらす。そこにあったのは明らかにこの場にあるのが不自然な、一抱えほどの麻袋。

「え、と、……？」

　あんなもの、今まで見たことがない。古城がこんな状態になってから置かれたものなのだろうか。

　思いながらも猫の鳴き声に促されるように近寄って、それを手に取ってみる。

　少し重いその袋の中を覗いてみると、──鈍色に輝く、固まりが。

「え、」

　これは、なんだろう。

　表面は磨かれた金属のように見えた。それにしては、抱えた重さはそれほどでも無い気がするけれど。

　細長の形状のそれは、よく見ると先の方が五つに分かれていて、……と、言うよりこれは、腕？

　金属の腕。──義手？　どうして。

　首を傾げつつ袋の中を見ていると、もうひとつ、底の方に何かがあるのを見つけた。数秒逡巡してから取り出してみると、それは小さな皮袋で。

　紐の結び目を解いて中を見てみると……どうしてか、そこにはぎっちりとお金が入っていた。

　硬貨の中に小さな紙が紛れ込んでいるのを見つけて、指先で拾いあげる。二つ折りのそれを広げてみると、そこには意外と丁寧な筆跡で、赤い文字が綴られていた。

　"For you”

　……持っていけってこと？

　でも誰が、どうして。

「あ」

　赤い字。

　赤い首輪の、黒猫。

　赤は、あの人の。

「……魔女様？」

　呟きながら傍らを見ると、黒猫はマイペースに毛繕いをしていて、少し面食らう。

　あ。違う、かな。勘違いかも。

　けれどこの袋の方は、彼女が置いたもので間違いはないはず。この古城にこれが置けるのは、あの人だけだから。

「……貰って、くね。ありがとうございます」

　迷った末にそう言うと、不意に前足を舐めていた黒猫が顔を上げる。猫は私を見上げてひとつ鳴くと、そのまま立ち上がって廊下の奥へと走っていった。

　ひとつ、思い至ったことがある。

　私はきっと、罪の意識に耐えかねているだけだ。

　アルテが『何も求めてない』と言って、私を責めてくれないから。彼を傷つけておいて清算されない罪に、時々押し潰されそうになるだけ。私が原因で彼の体調が悪化しているのに、何も出来ないことが歯がゆいだけ。

　なら今はせめて、贖罪を。

　アルテはしばらく利き手が使えない。だから私もアルテの手が治るまでは、手伝いをしないといけない。勝手に消えるのだけは、してはだめだ。

　ここに入っている義手を、使う踏ん切りはまだつかないけれど。

　麻袋を握りしめて立ち上がる。

　まだ、戻るには早すぎるかもしれない。だったらその間に何ができるかを考えよう。

　昔、売られる前に風邪を引いた時のことを思い返してみる。熱が出た時にしてもらっていたことを、一つ一つ辿っていく。

　今は寝てもらっている。薬はまだ飲んでくれない。ならあとは、栄養を取ってもらって……栄養？

　はたと思い至って、一瞬の後に、血の気が引いた。

　そういえば、ここ数日でアルテが何かを食べているところを、見たことがない。

　というか、今の今まで忘れていた。

　そうだ。生き物はご飯を食べないと、生きていけないのだ。

　気づいた瞬間、空腹感を思い出して、思わずお腹を押さえる。そういえば、私も何も食べていない。食べるという行為自体忘れていた。

　記憶を探ってみても、最後に何かを食べた時が思い出せない。というより、古城にいた間中何かを食べた記憶が無い。空腹を感じたことがなかったせいかもしれない。

　魔女様がなにかしてくれていたのだろうか。

　飢餓感を思い出したお腹を押さえながら、途方に暮れる。

　なんだか自分で思っているよりも、私には常識がないのかもしれない。