【閑話】血濡れの肖像
「最初は手伝ってあげましょうか」
ぼんやりと地面を眺めていると、不意に魔女はそう言った。
呪いを受けた、その直後の事だ。
全身の火傷で動くこともままならないでいると、彼女はおもむろに自分の指先を傷つけた。
周りの全てを惨殺し、城内を炎で覆ってもなお完璧な姿を保っていた彼女が、自らを傷つけたのが不思議だった。
傷口から珠のように湧き上がってくる血を、茫然と目で追う。
魔女の血も、人と同じように赤いのだと、思った。
「私は、治癒は出来ないのよ」
指先が口内に入ってくる。粘膜に染み渡るような仄かな甘さが一秒ごとに蓄積し、舌先が痺れるほどの余韻を持って、極上の甘露へと成り変わる。
脳が蕩ける。
ただでさえあまり動いていない頭が、さらに朦朧とするのを感じた。
「だから、代わりに血で補って。その分時間が巻き戻るから」
彼女の紡いだ言葉は脳を滑り、記憶に定着しない。一秒前に発された単語も、自覚する前に忘れている。
「血を飲んで巻き戻って、飲まずに進んで、それを延々繰り返すの。戻さなければいずれ、この火傷で死ぬわ。その前に血に飢えて狂うはずだから、ただ死を待つことにはならないでしょうけど」
次第に引いていく痛みは、皮肉にも理性を手放すのに一役買った。
「殺して、血を啜って、正気に戻って。そうしたらあなたは絶望する? 後悔をする? それとも、何も感じないお人形のまま? ──ふふ、あとどれくらいで、あなたの剥き出しの感情が見られるかしら」
耳元で囁く声は、妙に穏やかな響きを孕んでいた。
「私が飽きるまで、勝手に死んではだめよ」
あなたはもう私のもの。それを選んだのは、あなたなのだから。
記憶に留まらないその言葉を、ただ上の空で聞いていた。
◇
思ったよりも身体が動くのが不思議だった。
暗く鬱蒼とした森の空には、淡い半月が輝いている。満月と比べればその明るさは足元にも及ばず、夜目に慣れたとしても、普段はかろうじて輪郭が分かるくらいでしかないのに。
それでも充分に見える今の視界は、身体がおかしくなっているせいなのだろうか。
ナイフを左手に持って、聞こえる足音を頼りに視線を巡らせると、奥に人影を見つけた。
一心不乱に手を振って、遠くに逃げようと焦っているのが分かる。だけど彼が願うように、逃げ切ることはできないだろう。
背中を追うために地面を蹴ると、身体はやけに軽かった。
時々、森の奥には人が迷い込む。
森の入口辺りで留まるなら、それ程影響は無い。ただある程度まで進んでしまうと、方向感覚が狂うようになっている。そうして惹き付けられるように、いずれ森の古城にたどり着く。
一度入り込んだのなら、正しい手順を踏まなければ、延々と同じ場所をさ迷うだけだ。
そういう風に魔法をかけたのだと、初めにあの人が言っていた。
ここは魔女の住む森だ。
出逢えば最期、決して生きては帰れない。
『この森を譲ってあげる。初めはここで練習するといいわ』
あの日、気づいた時には私は、既に血溜まりの中にいた。口内に満ちる甘い血と、記憶にないのに手に残った、肉を穿つ感触。
周囲に転がる肉片が、静止した感情を軋ませる。
『街に出るよりは安全でしょう? 定期的に獲物がかかる訳じゃないのが、難点だけど』
緩く息を吐き出して、浮かび上がった記憶を追い出す。
今は、まだ正気だ。少し渇いてはいるけれど。
一度に必要な血の量は、大人のものなら一人分、子供なら二、三人。
元の姿を保てるのは十五日前後で、正気が持つのは二十日が限界。そこから先は意識が
一度狂気に落ちたら、獲物を千々に引き裂くまで止まらないだろう。
そうして、バラバラであるが故に血は方々に流れ出る。一人だけでは喉を潤すのに足りず、二人、三人と贄を求める。
我に返った時、周囲に転がる骸の数は、果たしていくつになるのだろう。
……だったらもう、正気のうちに終わらせる。
右目は見えない。右腕は骨に変わっている。背についた翼が、走る時の振動で皮膚を引き攣らせる。
こちらからは目の前の男が見えている。あちらからはたぶん、見えていない。
悠長に立ち止まり背を向けて、息を整えているのだから、きっと。
後ろから刃を忍ばせる。首の前に滑り込ませたそれで、躊躇なく動脈を掻き切った。
揺蕩う意識の裏側で、誰かがそっと囁いた。
薄情だね。
それを無視して、声を頭の奥に追いやる。薄情だと言うのならそれでいい。どうせもう、殺さないことは選べない。そうでないと生きられない。
この身体は、すっかり血に堕ちてしまったようだから。
「天使……?」
予期せぬところから聞こえた声に、一瞬固まった。
地面に横たわる死体をそのままに、鼻腔に香る甘い誘惑を振り払い、声の聞こえた方へと視線を向ける。
淡い月光を遮るような木の根元に、その子供はいた。腰を抜かし、目を見開いてこちらを見ている。
恐怖よりは驚きが先行した瞳。事態を把握しきれていない、茫然とした視線。
天使?
『もー本当に天使。可愛い』
イヴと呼んでくれた頃の声が、捨てたはずの過去の残像が、つかの間脳裏によぎった。
……ちがう。
瞬きをして、それを打ち消す。
『その瞳にはこっちの方が似合うかな。少しありきたりになってしまうのが否めないけれど』
背に糸をくぐらせて、あの人は微笑んだ。
『その翼は天使を模しているんだ』
背につけられた紛い物は、下ろした髪が揺らぐごとに、その隙間から顔を出す。
つまりは、そういうことだろう。この背を見て思わず漏れた、ただの印象にすぎない。
天使なら、こんなことはしない。
こんな風に、命を踏みにじるような行為は。
眼前の瞳が恐怖に曇るその前に、足を踏み出す。
手に持った白刃を翻すと、たやすく赤が飛び散った。
天使なんて、高尚なものとは程遠い。
血に濡れた化け物が天使を騙るなんて、罰当たりにも程がある。
……ああ、でも。
一つ増えた肉塊の首元に唇を寄せて、次第に蕩けていく思考を感じながら、目を閉じた。
どうせ始めから、神様なんていなかった。
◇
薄い微睡みの中にいた意識が、ふと形を取り戻す。
寝起きのぼんやりとした思考のまま、緩く周囲を見渡す。なんだか、やけに視界が狭い気がした。
硬い床に横になっているのに気がついて、とりあえず身体を起こそうと思った。右手を床につこうとして、動かないそこを怪訝に思い、視線を向ける。
また、戻ってる。
右手の代わりに白い骨が嵌っているのを見て、私は不意に現実を思い出した。
『死なねぇし』
蒼白な顔で薄目を開けた彼は、今にも消え入りそうな声をしていた。
唇を引き結ぶ。床から上体を起こして壁に背をつけると、片腕で膝を抱え込む。
身体と壁に挟まれ、紛い物の翼が潰れる。それは肉に食い込む糸を引きつらせ、鈍い痛みをおこした。
あの夜から、丸一日が経った。
壁の向こうで眠っているアルテは、未だに起きる気配がない。
このままずっと、起きなかったらどうしよう。
不安ばかりが湧いてきて、膝頭に目元を押し付けた。
「それ、本物か?」
不意に、声が聞こえた。
緩慢に頭をあげれば、すぐ側にいた人影にぴくりと肩が跳ねる。思っていたよりも近い。
「あーなんだ、縫われてるだけかよ」
私の背中にかかる髪を少し持ち上げて、白衣の医者はマイペースにそこを眺めている。
「有翼人種なら興味があったんだが」と残念そうに呟く様子に、翼を指しているのだと気がついた。それと同時に首を傾げる。
有翼人種。伝説上の生き物だと思っていたのに、なんだか医者の口振りだと違うように感じる。私が知らないだけで、実は普通にいるのだろうか。
迷いつつも尋ねると、医者はあっさりと否定した。
「天使サマが本物なら、居るって言えたが。魔女は確認されてんだから、他だって居るかもしれねェっつー話。……つーか確かに、その大きさじゃ飛べねェわな」
投げやりに言ってから、小振りの翼をつつく。
「つってもこの羽意外と精巧だな。さっき潰してんのが見えたが、元の形状に戻んだな。すげ」
ぼんやりと医者を見上げていると、不意に目が合った。
覇気のない目の下には、濃い隈が浮かんでいる。
「あー天使サマ。そんな雑に扱うなら邪魔なんだろこの羽。邪魔ならくれねェ? 勿体ねーから」
言われた言葉に、思わず呆ける。
天使。さっきも言っていたが、もしかして私のことを指しているのだろうか。
というか、羽をくれ、とは。
「タダとは言わねェぜ? くれんなら買取の
何かを言いかけた医者は、そこでふと言葉を濁した。
「あーあの、あれ。なんだったか。そこで寝てんの」
「……アルテ」
「あー、それな。
「……?」
教えた端から間違われる不思議さに、首を傾げる。
知らないから呼べないと思ったのだが、わざとなのだろうか。
アッシュ。灰色。灰被り。アルテの髪色のことだろうか。灰がかった金の色味は、確かにそう言えるのかもしれないけれど。
「人の名前は呼ばねェ主義でな」
言い訳のようにうそぶいてから、「とにかく」と医者は強引に話を結ぶ。
「そこのも喜ぶんじゃねェか。しばらく手は使えねェから、食い扶持稼げねェだろうし」
「手、」
「神経イってるから当分動かねェわ、あれ」
神経。
思考が止まる。茫然と医者を見上げ、その様子に嘘でないことを悟る。一日前の記憶が、鮮烈に蘇ってきて、脳内に投影された。
私を止めたせいで、アルテは掌に怪我をした。私が衝動を抑えきれず血を飲みすぎたせいで、アルテは倒れた。
全部、私のせいだ。
胸中が自己嫌悪で満たされて、ままならない現状に唇を引き結ぶ。
「で、どうする天使サマ」
「……お願い、します」
正直翼など、どうでもいい。この人が言うように、邪魔で仕方ない。それと引き換えでアルテの助けになるのなら、躊躇する理由がない。
どうせ私は初めから、この身一つしか持っていない。切り売りできるのもこの身だけ。
これ一つじゃ足りないけれど、少しでも償いになるのなら。
頷くと、医者は気だるげな目に少し喜色を滲ませた。
どこかに行こうとする背中を、少し遅れて追いかける。
天使。
先程言われたその言葉に、ふと数ヶ月前の、森の夜のことを思い出していた。
初めて古城に来たその日に、私は魔女様に森を明け渡された。始めに彼女に言われたままに、迷い込んだ人を狩っていた。
アルテも初めは、森に迷い込んだ一人だった。
あの日、私はどうしてアルテを帰したんだっけ。
感情も戻りきらず、思考も漠然としていたはずだ。何となく、同年代の少年を珍しく思ったような気はするのだけど。
それに誰かが城内まで入ってくるのも、初めてだったような気がする。まともに会話が成り立ったのも。……あまり怖がる様子がなかったのも。
だから、なのかな。
ほんのりと形を持った結論を、心の中で噛み締めた。
類似点を見つけて、躊躇ったのだろうか。化け物扱いされなかったことが、嬉しかったのだろうか。
あの状態でも、少しは良心と感情が残っていたということだろうか。
そう思いたい。
あの日アルテを帰したのは、機械的な判断でなく、私の情によるものなのだと。
そうでなければ、あまりに自分が汚すぎて、嫌になる。
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