恋慕の囁き声
ep.6◇ささやかな変化
揺らめく炎が近づいてくる。
身を引こうとした身体は動かず、目に飛び込んできたその紅蓮は、耐え難い痛みとともに、皮膚を焦がした。
痛い。
痛い。
引きずられる。
打たれる。裂かれる。暴かれる。壊される。
痛い。苦しい。怖い。嫌だ。やめて。ごめんなさい。許してください。お願いします。
暗い。
暗がりの見慣れた部屋の中に、好きだった顔がある。歪ませた顔に、濃い怨嗟が浮かんでいる。お前など。口が動く。
曇り空の下で、服を剥がれる。首を絞められる。身体を
助けて。誰か助けて。
『前の持ち主とは、趣味が合いそうだ』
暗く湿った部屋だった。
天井に釣り上げられた照明が、中央のベッドを照らしていた。
ベッドの傍の机には、小さな銀色の器具がずらりと並んでいて、あの人はそこからメスを手に取った。
『美しいものほど、穢したくなるものだよ』
それから。
それから。
──肩から先の、感覚がない。
◇
「……っ!」
目を開けると、高い天井が見えた。落ち着いた色で塗装されたそこからは、繊細な細工のシャンデリアが垂れ下がっている。一瞬それが全く見覚えのないものに思えて、身体が強ばる。
ここは、どこ。
荒い息を吐きながら、気だるい身体を起こすと、広いエントランスが見えた。床には赤い絨毯。すぐ側の扉には豪華な意匠が彫られている。
見慣れた場所を認識して、力が抜ける。汗をかいたせいか、どことなく気持ちが悪い。
……夢。
自覚した途端、深く息をついた。まだ、心臓が早鐘を打っている。
恐怖の感情だけが色濃く残って居るものの、肝心の内容は思い出せなかった。
睡眠は嫌いだ。
寝ている間は無防備で、私は夢の中で、昔のように感情を表出させる事がある。そうなると、いつも起きた時が辛くなる。
目覚めた直後は、奴隷になりたての頃のように、朝が来ることに怯える子供に戻っている。
両手を胸に押し付けて、恐怖の残滓を押し込めるように、両手に力を込めた。
目を閉じる。暗く閉ざされた視界で、深く息を吸い込む。
早く
そうすればもう、自分の心に左右されることは無い。
今よりもっと、楽に息が出来るはずなのだから。
「あれ、起きた?」
予期しなかった声が聞こえてきて、とっさに目を開ける。肩越しに声の方向に振り向くと、ここ最近で見慣れた少年が、目を丸くして立っていた。
「あ……」
突然の登場に、思わず身体が固まる。声が喉につっかえた様に出てこない。
アルテは一瞬目を細めると、自らの手元に視線を落とした。どこから持ってきたのか、そこには毛布が握られている。
少し考えるように無言だったアルテは、結局毛布を広げると、私の肩にそれを掛けた。
「こんなところで倒れてるから、どうしようかと思った」
こんな、ところ。
この城の玄関口。広いエントランス。私がいるところは、外へと続く大扉の前だった。
もっともこの扉には鍵がかかっているから、ここから外に出ることは出来ない。
「どっか具合でも悪いの」
胸を抑える私の手元を見咎めたアルテは、膝を折って目線を合わせてくる。その視線の先に気づいて、私は胸から手を離した。
「い、え」
「本当に? 無理してんじゃないの。凄い汗だよ」
「大丈夫、です。あの、寝てただけなので」
「は?」
素直に答えると、アルテはぽかんと口を開けた。
「寝てた?」
「……はい」
「ここで?」
「はい」
「……なんで」
「夜になった、から?」
「いや、違うし。なんでこんなとこで寝てんの。普通にベッドで寝なよ」
思いもよらなかった言葉に、目を瞬かせる。
「私なんかが、勝手に主人のベッドを使うわけにはいかないので」
「馬鹿なの?」
突然かけられた罵倒に、思わず固まった。
呆れ顔で見下ろしてくるアルテに悪意は無さそうだが、いきなりの暴言に、どう反応していいのか分からない。
「魔女は居ないんだろ? 居ないやつのこと気にしてどうすんの。つーか何、寝床すらないってどういう扱い? 寝るなとでも言われてんの?」
「え、う、いえ、ただここに放り込まれただけで、そんな命令は受けてないです」
「じゃあ遠慮なく使えばいいじゃん。こんなに広いんだからベッドなんてたくさんあるでしょ」
「でも私なんかが、そんな資格は」
「じゃあ何、今までもそこら辺で寝てたの?」
「……はい」
アルテは大きくため息を吐いた。その様子に肩が跳ねる。
目を据わらせたアルテは、地を這うような低音で、ぼそりと呟いた。
「奴隷根性染み付いてんな……」
首を竦める。アルテの目に晒されているのが居心地悪くて、俯いて視線をさ迷わせた。
そもそも、どうして彼がここに居るのだろう。
最後に来てから、五日ほど日が空いただろうか。あの時に怒らせてしまった様だったから、もう来ないものだと思っていた。そう思って、安心していたのに。
アルテの顔を盗み見る。そこにいつもあった笑みは見えない。
やはり、怒っているのだろう。言葉遣いも前より荒い気がする。
でも、それならどうして、またここに来たのだろうか。
「あなたは私に、怒っていたのではないのですか」
「……怒ってるっつーか」
恐る恐る尋ねると、アルテは少し言い淀む。それを不思議に思ったものの、結局その後すぐ彼は、私の言葉に同意した。
「あーうんそう。怒ってる。すごい怒ってる。だからもう、ティアに遠慮するのはやめた」
え、と短く声が漏れる。
「それは、どういう」
「君が何を思ってどう行動した所でどうでもいい。知ったことじゃない。俺は俺のやりたいようにやらせてもらう」
やりたいように。内心で反芻して首を傾げる。
今までも十分勝手に行動していたような気がするのだけど、気のせいだろうか。
そう思った矢先のことだった。
突然アルテの腕が伸びてきて、驚きに固まる。
そうしているうちに、不意に掛けられていた毛布ごと、抱き寄せられた。
「……軽」
アルテの口から声が漏れる。それが、酷く近い。
身体が浮いている。足が地に着いていない。
抱き上げられている。
そう認識するのに数秒かかった。
「あ、の」
アルテ。
呼びかけようとして口を噤む。
私は、誰かの名前を口にするべきではない。
名前は願いであり呪いだ。大切なものだ。物風情が、軽々しく呼んでいいものではない。
身体を強ばらせたまま、アルテの腕に揺られて、自分ではない足によって前に進む。
不安定な体勢が心許ない。
どこに向かっているのだろう。
移動はそれほど長くはなかった。
エントランスから伸びた一階廊下の、手前から三つ目の扉。
少しだけ開いていたその扉を足で蹴り開けると、アルテは躊躇なく部屋の中へ踏み込む。
室内の様子を確認する暇もなく、どこかに降ろされるのを感じる。起き上がろうと後ろ手についた手が、柔らかい場所に沈み込む。
怪訝に思い見下ろすと、そこは床ではなく、スプリングのきいたベッドの上だった。
心臓が、大きく音を立てる。
『作り替えてあげよう。外側も内側も。僕の理想とするものへ』
ああ、なんだ。
一瞬の空白の後に、唐突に理解した。
感情が凪いでいく。同時に寒々しい風が、心の合間を通った気がした。
アルテにとっては、私が何を思おうとどうでもいい。
『友達』の関係を望むのは、もうやめたのだろう。
彼が必要としているのは、『奴隷』の私だ。
好き勝手しても文句一つ零さない、都合のいい人形。
『その眼球も、取り替えてしまおうか』
大丈夫、苦痛には慣れている。
頭の上に影が落ちる。手が伸ばされてくる気配を感じて、俯いた。
だから、気のせいだ。
胸が疼くような小さな痛みも、わずかに感じる息苦しさも。
全部、気のせい。
夢の残滓が見せる幻影だ。
「……なんて顔してんの」
温かな手に包まれた。
頭に乗せられた手はただ触れているだけで、押さえつけるような圧力は感じない。
止まった思考のただ中で、その小さな重みを受け止めていた。
「そんな怯えなくても、何もしないよ」
手が動く。頭の上で、繊細な手つきで。
聞こえた声は、酷く静かでいて、心地よかった。
思わず上げた視線の先で、アルテは形容しがたい表情を浮かべていた。
ただ怒っているわけでもなく、ただ困っているわけでもない。
その表情をなんと呼べばいいのか、私にはわからない。
緩やかに頭を撫でられるその手を享受しながら、ふと記憶を掘り起こす。
こんな風に、誰かに頭を撫でられることがあっただろうか。
分からない。覚えていない。きっと、なかったのかもしれない。
「寝るなら今後そこで寝て」
落とされた言葉に、目を瞬かせる。ようやく、アルテが何を思って行動したのかが分かった。
納得すると同時に、その内容を咀嚼して、起き上がる。
「いえ、もう起きます」
「そんな顔色で何言ってんの。寝てろって」
「顔……?」
「無自覚かよ……
呆れたように言い捨てて、アルテはため息をついた。
「いいから寝てろって」
「でも、あなたは?」
「俺? あー、……別に無闇に歩き回ったり、物色したりしないよ。不安ならここに居るし。なんなら縛るなり鍵かけるなり好きにしたら」
「……いえ、でも」
「あーもう! でももクソもねぇよ、寝ろ! そんで満足するまで起きてくんな!」
アルテは声を荒らげると、呆然とする私の肩を押してベッドに沈め、その上に肩まで毛布をかけた。
「大体俺あなたじゃねぇんだけど。そう呼ばれるたび胸糞悪いこと思い出すから止めてくんない? てかティア俺の名前覚えてる? アルテ! はい復唱!」
「……でも」
返そうとした言葉は、ふいに途切れた。
唇に触れる手の先を辿ると、アルテは眉根を寄せたまま、「いいから」と呟く。
「物は物らしく、黙って人間様の言うことに従ってろ」
その言葉に、冷たさはなかった。
真っ直ぐに見てくる視線が、急かすでもなく、ただ私を待っている。
言葉自体の響きは聞き慣れたものなのに、裏腹のその態度は、戸惑うほどに温かみがあって。それは、あまり馴染みのないもので。
私は。
意固地に立場をわきまえようとして、その実彼に甘えていたのかもしれない。
口を開く。
あれほど躊躇っていた三文字は、思いの外すんなりと形になる。
「アルテ」
「ん」
アルテの頬が緩む。
満足気に微笑むその顔は、数日前によく見ていたものよりも、ずっと輝いている気がした。
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