ep.21◇黒と赤
柔らかな夢の残滓が、目の前に広がっていた。
窓から差し込む夕日が、金色の髪を照らしている。
膝に本を乗せたまま、外を眺めるその人の顔が、良く見えない。
こちらを向いたその人の声が、何も聞こえない。
ただ色だけがやけに鮮やかで、暖かくて。
何も分からないのに、感じないのに温かくて。
淡々といつかの光景を、ただなぞっていた。
廊下を進む。服の裾を掴む。振り返った、その顔に。
別れ、を。
──「あら、そのまま帰しちゃうの?」
その声が聞こえた瞬間、一気に現実に叩き落とされた気がした。
◇
既視感を覚えた。
初めて見るはずの目の前の光景が、頭のどこかに結びつく。
「あなたは血に縛られる」
焼けた額から唇を離した彼女は、代わりにとんと指をのせた。
置かれた指先から、じわりと熱が広がっていく。
「あなたの身体は、血を求めて
呑まれていた意識が、不意に現実に立ち戻る。淡く結んだ過去の虚像が、この空間を自覚した。
ああ、そうだ。今まで忘れていた。
これは全部──記憶だ。
『ただ、一度に一定量の血を飲めば、全てが元通りになるわ。その背の紛い物は消え、顔の火傷も消える。右腕も動くようになるし、目も、両方見えるようになるの。──飲んでから、ある程度の期間ならね』
『魅力的でしょう?』言葉を紡ぐその口元を、じっと見上げる。
聞き覚えがあった。何度も何度も、記憶の中でかけられた言葉だ。
これは、この視界は、感覚は、痛みを伴う追体験。彼女がかけた呪いの産物。
『あなたは誰かを犠牲にして、元に戻ることが出来る。それを拒めば、狂って終わり。──正気に戻った時には、大量の死体の上にいるかもしれないわ』
彼女は楽しげに笑いながら、『それとも、誰かに討伐されて死んでいるかしら』と言った。
その言葉に何も反応をしないでいると、彼女はつまらなそうに笑みを引っ込める。
『選択肢をあげる。この道の先を生きるか死ぬか、あなたが決めていいわ』
燃え盛る炎のただ中で、彼女は静かにそう告げた。
額に残っていた少しの熱が、周囲の熱さに掻き消える。
『だめ、あなたが選ぶのよ』
彼女は非難めいた声を上げる。裏腹に穏やかな表情を浮かべて。
そうだ、選んだ。私はこの時、確かに自分で選んだのだ。
生か死か。彼女が提示した、その選択を。
なぞる。なぞる。
これまでの記憶を、軌跡を、繰り返し、繰り返し。
短い時間の中で何度も同じ経験をし、痛みを、悲嘆を、後悔を心に刻み込み、同じ結末に辿り着く。
そうしてまた、最初の時に巻きもどる。
朦朧としながら昔に戻って、再び顔を焼かれるのだろう。耐え難い痛みを伴って。
あの時生を願ったから。なのに、しばらく血を口にしていないから。
ぽた、と指先から雫が滴った。
音を立てて倒れた身体を見下ろして、私は自分の腕を持ち上げる。
指先の雫を舐めとると、口内に甘さが染み渡った。
血が、欲しかった。
生を選んだ身体は、呪いの影響で常に血に飢えている。
後戻りはできない。
目の前に横たわった身体から、甘美な香りがする。舌先に残る血の残滓は、痺れるほどに甘い。
まるで麻薬のような依存性は、断つことを許さない。気づけばその味を求めている。
そういう風に、作り替えられてしまったから。
感情は無くしたままで良かったんだ。
私は、間違ってばかりだ。
薄れていた感情が戻るたび、罪悪感が胸を締め付ける。
分かっているんだ。この命に、価値なんてない。
誰かの命を糧にしてまで、永らえる程の価値は。初めから誰にも望まれていない、この命は。
私はあの日、あのまま死んだ方が良かったんだろう。
受けた呪いに怯え続けることも無く、誰かを犠牲にすることも無く、人のままで死ねたはずの穏便で最良の選択は、私自らが生を望み棒に振った。
そのうえ選択を後悔するようになってなお、自死を選びとれない程に愚かしく、生き汚くて。
もう、手遅れだ。
この身は既に、芯から化け物に成り果てた。
「──いつまでここにいるの?」
声が聞こえた。
今までのような、現実か記憶か曖昧なものでは無い。もっとはっきりとした、直接耳に聞こえる声。
全ての雑音が掻き消えたのに気づいたのは、その後のことだ。
顔を上げると、周囲は一面闇の底だった。
「あなたは、いつまで閉じこもっているつもりなの?」
姿はない。何も見えない。
なのに酷く近いところから、あの人の声が聞こえてくる。
「私は、あなたの顔が歪むのを見たいの。能面のようなお人形さんじゃなくて、あなたの生きた顔が見たいのよ」
──あなたは、いつもそう言う。
唇を引き結び、両手を伸ばして耳を塞ぐ。何も聞きたくない、見たくない。放っておいて。
こんな面白みのない顔の、一体どこを気に入ったというの。
歪むの、なんて。いままで、散々してきた。
どうしようもなくなって、泣いて、いつしかそれも枯れ果てて。
もう、これ以上どうしろというの。
どこまで沈んでいけば満足なの。
「過去のあなたなんてどうでもいいわ。そんなもの、いつでも見られるもの」
不意に、頬に何かが触れた。
両頬を包み込まれるように温かな何かに挟まれて、ぐいと顔を上向かされる。
耳を塞いでいても、届く声は鮮明だった。
「下ばかり見ないで。これ以上自分を殺さないで」
頬に触れられた場所から、するすると闇が解けていく。
両腕が、身体が、顔が現れる。姿は予想通りのものなのに、その表情に見慣れた愉悦の色は無かった。
合わさった彼女の炎色の瞳は、あまりに真剣に、真っ直ぐ私を捉えていた。
「過ぎたことなど捨て置けばいいのよ。そんなくだらないものにいつまでも縛られて心を殺してないで、全て放って今を見て」
……今。
「今を見て、内側全てをさらけ出して、今のあなたの表情で、感情で──泣き叫びなさい」
頬に添えられていた手の、親指が動く。
「私は、それが見たいのだから」
唇を割いって差し込まれた指先から、求めていた甘い味がした。
呆然と見上げたその先で、指を引き抜いたその手が、私の目元を覆う。
どうして。どうして、あなたは。
「……っの、いい加減目ぇ覚ませ!」
声が。
「ティア!」
真っ暗だった視界が、いきなり拡がったかのような衝撃だった。
空に昇った満月が、溢れるほどの光を湛えている。
額がじんと痺れて、後から鈍痛がやってきた。
至近距離で、荒い息をつく少年が、自らの額を押さえながら目を釣りあげている。綺麗な顔立ちをした、知らない少年。……知らない?
頭の隅に引っかかったものに、緩く瞬く。
でもなんだか、知っている様な気がした。
月光を受けて輝くプラチナの髪は本当はアッシュブロンドで、逆光で黒く見える目は、日の下だと深い緑色をしているの。
一見線の細い身体は思ったよりも力があって、自分勝手で、強引で、少し優しい。
──ああ、そうだ。
この人は、私の。
「……アル、テ?」
声は喉に張り付いて、酷く聞き取りにくかった。
間近で視線が交差する。惚けて口を開けていると、少しの間を置いて、盛大にため息を吐き出された。
「やっと戻った……おっせぇ」
落とされた言葉には、濃い疲労感が滲んでいる。
アルテが後ろに下がる。左腕の圧迫感が消える。そこで初めて、今までそこを押さえられていたのだと気づく。
突然湧いて出た光景に、思考が追いつかない。思い出そうとしても、頭に浮かぶのは直前に見ていた過去ばかりで。
それより前に、何があったんだっけ。
確か、アルテが城に来て。閉じ込められて。別行動を取って。私は、部屋に閉じこもって。そして。……そして?
その、先は?
混乱しながら目の前のアルテを改めて見た時。
「…………ぁ」
ドクン、と心臓が鳴った。
下がったことで
右頬に、うっすらと滲んだ赤い線が、乾いて固まっている。首には薄く引かれた小さな傷。
身体に刻まれた跡は、その比ではない。肩に、腕に、腹に、腿に。切り裂かれた服の間から、代わりのように赤黒い染みが広がって。
全身、真っ赤だ。
「……ティア?」
足が下がる。
呼吸が浅くなる。
息つく合間から、鼻腔に濃く甘い芳香が漂って、思考が溶ける。
地面が月光を反射して光る。思わずそちらを見やると、アルテの足元に、赤く染まったナイフが落ちていた。
視界に入った自らの左手の甲には、赤い飛沫が飛んでいる。それは自分のものでは無い。
私?
私が、やったの?
この人を傷つけたの?
「ッはっ」
息が上がる。
しせんをあげれば、傷だらけのアルテがいる。
あしを下げる。
甘いにおいが、頭をおかしくさせる。
目をそらせない。
真っかな身体が、あまい匂いをまとって、とても、とても
おいしそう
「………………」
理性が、弾けそうだ。
つかの間の正気が侵される。
全てを無理やり視界から追い出すように、きつく目を閉じる。香りを遮断するために息を止める。
閉じた瞼の裏側で、正気と狂気が境界をなくして溶け合っていく。
「ちがう」
ちがう、こんなのはちがう。望んでなんかない。嫌だ、傷つけたくない。
(どうして?)
殺したくない。
(すぐ終わるのに)
そんなのは許されない許さない。
(もうあの記憶は見たくないよ)
だって彼は私の、
(喉が渇いたな)
私があの日以来初めて、
(はやくちょうだい)
あなたを好きになったのは、
(血はまだ? 飲もうよ)
血が血を欲しかった訳じゃなくて、
(嫌、嫌、嫌、早く抑えて)
私は……?
(ねえ、楽になりたいね)
誰かを殺してでも、化け物のように血を啜ってでも、周りの全てに背を向けてでも、もうあの記憶の中には戻りたくないの。
何度も何度も何度も何度も、果てなく終わりなく限りなく繰り返し、炙られて痛めつけられて置いてかれて壊されたくないの。
もう嫌、嫌だ。助けて。許して。逃げたい。たすけて。
ねぇ、だからいいでしょう?
(早くこの呪いから解放して)
「ち、が、」
首を振る。咥内に唾液が溢れる。唾を飲み下す。
(ああ、いい匂い。もっとちょうだい)きっととても美味しいのでしょう。
このままあなたで私を充たして。
『君と友達になりたかったから、また来たんだ』
私は。
『よろしく、ティア』
私、は。
手を足に伸ばせば、まだナイフが一本残っていた。
柄を掴んで引き抜いて、目をつぶったまま切っ先を固定する。
心は驚く程凪いでいた。
──もう、いいや。
選んでしまえば、至極簡単な事だった。
一つ呼吸をしてから、手の中のナイフを、自らの喉元へと突き立てる。
化け物など殺してしまえばいい。
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