ep.11◆黒猫と塔の上
「汝、死を忘るなかれ」
壁に背を預け本を開いていたノルは、不意に呟いた。
あれ、俺古城に居たんじゃなかったっけ。
ぼんやりと思いながら辺りを見渡すも、背景はどことなく曖昧だ。見慣れたイーストエンドの廃墟に見えるけど、なんだか夢みたいにふわふわして、ぼやけてる。そこまで思ってああと気づく。
夢みたい、じゃなくて、夢だこれ。
そっか。なら、何も不思議じゃないか。
「メメント・モリ。死を忘れるなという意味の警句だよ」
端の焦げた手帳から顔を上げ、ノルが面倒そうに言う。
あれは確か、誰かが持ってきたもんだっけ。中身は全部手書きなんだ。文字がびっちり詰まってて、俺は読めなかった。
ここじゃ、あれを読めるのはノルくらいだ。
ノルは以前からやけに教養がある素振りをする。俺の読み書きの先生も、元はといえばノルだし。実は良いとこの出なのかもしれない。
だから難しい言葉を知ってるのは、そんなに変には感じないんだけど。
──でも、どういう意味?
「そのままだよ。人はいつか必ず死ぬ。そのことを忘れるなということ」
よくわからなかった。
そんなこと、わざわざ言うほどじゃない気がするんだけど。
「日常の中にいると、つい死の観念を忘れてしまう。変わらず明日が来るように、それを疑わずに行動する。だから戒めているんだ。どんなに『今』や『未来』に固執しても、何を欲して何を得ても、それが終わる時を忘れてはならないと」
──それが、『普通』?
「そうだね。
そっか。
いいな、羨ましい。
俺も、そんな風に生きてみたい。明日は当たり前に来るんだって思いたい。
もしこの場所から出たら、そんな『普通』を手に入れられるんだろうか。
ぼうっと考えながら、ふと記憶の一片を思い出す。ああでも、結局駄目だったんだっけ、そういえば。
──それでノル、さっきから開いてるその本、何?
「これは」
手元の手帳に目を落としたノルは、少し眉根を寄せると、つまらなそうに吐き捨てた。
「頭のおかしい芸術家の手記、みたいな物かな」
◆
どこからか聞こえる鈴の音で目が覚めた。
座り込んだ木の床は固く、反対に上体だけ伏せているベッドは柔らかい。寝起きのぼんやりとした思考のまま数度瞬いて、顔を扉の方へ倒す。頬に触れる白いシーツは、干したてのようにサラサラとした心地がした。
いつもは一定の温度を保っている部屋が、今はわずかに肌寒い。
寝る前に窓を開けといたせいかもしれない。少しだけだけど。
狭い部屋の中にチリンチリンと音が響き、同じく少し開いたままの扉から、何かが滑り込んでくる。黒い身体に赤い首輪の。
……また来た、黒猫。
「おまえのせいで、ますます寝られねぇんだけど」
うんざりしながら呟いた声は、寝起きのせいか少し掠れる。だけど猫は素知らぬ顔で、また餌をよこせとにゃうにゃう鳴き出した。
閉じ込められてから今日で四日目。とりあえずこいつは……まぁ、初日にはしごから落とされた以上の実害はない。あのせいで背中は痣になってるけど。
何故かまとわりついては来るものの、基本餌の時間以外は邪魔してこなかった。
とはいえ日に何度も鳴く様子に、食いすぎだろとは思うけど。
「厨房の扉、開けてあるだろ。勝手に入って食ってろよ」
もう何度言ったかわからない言葉も、猫には一向に伝わらないらしい。にゃうにゃうにゃーにゃー。うるせぇ鳴くな。
なんでいちいちこっち来んの。
無視してやろうかと思ったけど、鈴の音と共に近づいてきた猫を見て、諦めてベッドから上体を起こす。このまま放っとくと、また擦り寄ってきそうな気がしたから。
探索を始めてから昨日までの三日間で、ぶっちゃけほとんど成果はない。
一番逃げやすそうな古城周りの塀は、初日にあらかた調べ尽くした。結論から言うと、あそこからはどう足掻いても出られそうにない。塀は壊せないし上も通れないし、いつも使ってたとこ以外の抜け道も見つからなかったから。
だから結局は、城内の隠し通路やら抜け道やらを探すしかないんだろう。それで一昨日から色々城内を見て回ってるんだけど。
……まだなんの手がかりもないんだよなぁ。
ふぁ、とあくびをしながら窓を閉める。妙に肌寒いと思ったら、今日はどうやら曇りらしい。
外套のポケットに突っ込んでいたストールを引き出し、首に巻く。少し開いたままだった部屋の扉を引き開けると、飛び出した黒猫に続いて部屋を出た。
やっぱ、あんま寝られない。
しょぼしょぼする目を瞬かせながら廊下を歩く。
ベッドに横にならないのが悪いのかもしれないけど。でも、普通に寝るといざって時起きれないと困るし、寝首かかれんの嫌だし。
ただでさえ敵の敷地内なんだから、用心するに越したことはない、とは思う。
窓と扉をそれぞれ少し開けてたのも、そういう理由だ。部屋の外で何かあっても、音がすぐ拾えるように。今のところ鈴の音くらいしか聞こえてこないけど。
警戒しといて損は無い。
だけどやっぱ、眠いもんは眠い。
鈴の音に続いて歩きながら、少し先でくねくねと動いているしっぽを、なんとはなしに目で追う。そのままつらつらと考え事をしていると、ふと夢の内容を思い出した。
「……メメント・モリ」
起きた瞬間から、やけに既視感のある夢だったな、とは思っていた。だけどそういえばあれ、前にノルと実際した会話だ。忘れてた。
こんな状況だから変な夢を見たのかもしれない。
内容がこれから先を仄めかしているみたいで、あんまり気分は良くないけど。
「っと、何?」
鈴の音だけが響いていた道中に、唐突に猫の鳴き声が混ざって、顔を上げる。
黒猫が少し先の扉の前で座り込んでいた。
「……」
そのドアノブにぶら下がっているものは、明らかに場違いで、でも見覚えのあるものだった。
布巾に包んだパンをそこに括りつけたのは、俺。
初日に施したそれは、今日も変わらずかかったまま。
『アルテは城内を好きに調べ回ってくれて構いません。私は、どこかの部屋に入って、そこから出てくる気はないので』
確かに、初めにティアはそう言っていた。だけどそれ以降、本当に出てくる気配がない。
呼びかけても全く反応がないから、どうしてるのかもわからない。ベッドしかないあの部屋じゃ、寝ることくらいしかできないのに。
近づいて駄目元でドアノブに手をかけても、変わらず鍵がかかったままだった。物音もしない。あまりに気配が薄いから、誰もいないと錯覚しそうになる。
入っていくのは見たから、居るのは確かなんだけど。
そこまで考えて、閉じ込められた初めの夜を思い出し、目を伏せる。
あの日。宵に話して以降、ティアはふらりとどこかに姿を消した。
戻って来たのは深夜になってからで、それを見かけたのは偶然だった。
俺がさっきの部屋で寝ようとしていたところで、廊下から物音が聞こえて。そっと覗いて見たら、遠目にティアを見たんだ。
壁の燭台しか光源のない廊下は薄暗くて、初めはよくわからなかったけど。
あの時のティアは暗色のクロークを身にまとい、フードを深く被っていた。
一瞬あれが魔女なのか、とも思ったけど、その背格好と俯きがちに歩く様子には、どこか既視感があって。その後この部屋に入って、そのまま。
なんだか、どこか様子がおかしかった。
にゃー、と足元で猫の鳴き声がして、我に返る。
視線を落とすと、黒猫が急かすように何度も鳴いていた。
目が合うなり猫はくるりと背を向けて、また少し先で俺を伺ってくる。それを見てため息をつきながら、渋々後を追う。
大丈夫。やることはもうわかってる。
ここから出る。それだけでいい。それで全部、解決する。
『死を忘れるな』
俺はこんなとこで、死ぬ気なんてない。
◆
黒猫が催促するように鳴いたのは、外への扉の前だった。目的地が厨房じゃないんだと気づいたのはその時だ。
それでも扉を開けたのは、ほんの気まぐれだった。
この城の中は広大で、出口を闇雲に探すのは無謀すぎる。それがわかり切ってるのに、実際はヒントの一つも転がってはいない。
そもそも出口自体あるかどうかも不確定な上に、仮にあっても巧妙に隠されてるんだろう。そう思うと、尚更見つけられる気なんてしなくて。
この黒猫について行ったら、今度こそ、ろくでもない場所へ連れてかれるのかもしれない。
だけどこのまま一人で探し続けているよりは、何かしら収穫が得られる気がした。
古城の裏手。だいぶ城から離れた位置に、小さな塔が建っていた。
高さはだいたい三、四階建てくらい。壁面は石レンガ造りで丸みを帯びていて、ところどころに窓と思しき四角い穴が空いている。天頂は平らで、屋根はない。
「……ここ?」
足元に声を投げると、黒猫は応えるように鳴く。
少しの段差の上に作られた扉は鉄製で、特に鍵はついていなかった。
ひとつ息をついて、重い内開きの扉を押す。その瞬間カビ臭さが鼻をついて、勝手に壁の燭台に火が点った。
なんなんだろ、ここ。
見渡してみるものの、小さな部屋には変わったものは何も無い。ただ隅に、壁の内側に沿うような形で階段が続いている。
猫がそこを器用に上がっていくのを見て、後ろに続く。
窓は吹きさらしのものなのに、空気が淀んでいるような気がした。
階段を上りきった先にあったのは、入口と同じような鉄の扉だ。
所々茶色い錆が付着しているのが、なんだか変な感じがした。雨風に晒されてきたはずの外の扉には、錆なんてなかったから。
黒猫は扉の前に座り込んで、こっちを向いている。その真ん前には鍵束が転がっていて、そのまま扉に視線を向けると、無骨な三つの錠前が絡まっているのが見えた。
見るからに何かありそうな場所だ。
「開けろって?」
鍵束を拾い上げながら呟くと、猫は丸い目で俺を見上げたあと、鳴きもせずに立ち上がって。
「え? ちょ」
するりと横をすり抜けて、そのまま来た道を戻って行った。
鈴の音がだんだん小さくなって、階段の向こうへ消えていく。俺を置いたまま。
「……なんだあいつ」
まるで案内したから後は勝手にどうぞ、とでも言うような態度だ。
数秒、手の中の鍵と錠前を見比べて悩む。どうしようか。引き返すのは簡単だけど。
でもここなら、本当に何か見つかる気がする。一人で探していても見つからないような、何かが。
顔を上げる。意を決して、鍵のひとつを手に取った。
扉を開けた瞬間、微かに漂ってきたのは、何かが焦げたような刺激臭。
それにわずかに顔をしかめ、ついで目に飛び込んできたものに、息を飲む。
塔の壁に沿うように作られた部屋は丸い。目線の高さにある吹きさらしの窓は一つだけで、他は手の届かないような高い位置に設けられている。
それよりも、何よりも、目を引くのが。
中央よりやや左寄り。壁に背を預けるようにして座り込んだ、黒焦げの──死体。
「……」
焼死体の足元には、それとは別の髑髏が一つ転がっていた。焦げているのは死体だけで、周辺には他に焼けたような跡はない。
壁に取り付けられた拘束具は使われた気配がない。
部屋の隅に置かれた簡素なベットも、乱れることなくなく整ったままだった。
塔の上に据えられた一室。入口を閉ざす鉄の扉に、いくつもの鍵。
ここは、この塔は。
「……牢獄」
罪人を繋ぐ為の檻だ。
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