ep.16◆月が見ていた夜のこと

「いいからさっさと逃げろってば……」


 うんざりしながら繰り返しても、ジェイドはやっぱり頑なだ。「行かねえ」と全く引く気を見せない。

 路地から飛び出してきた通り魔の方は、一時的に固まってる。うつむいて微妙に顔を庇ってるから、また月光に目が眩んでるのかもしれない。

 今ならまだ逃げられそうなのに。馬鹿じゃねぇの、と思わずため息が出た。


 しょうがない、ここは俺が折れるしかないか。

 それで時間稼ぎって、どうするつもりなんだろう。通り魔に視線を固定したまま横に聞こうとして、ふと違和感に気がついた。


「ジェイド、そういやいつものナイフは?」

「…………廃墟で落とした」


 その返答に口の端が引きつる。おまえ、それでよく残るとかほざけたな。


「間抜け」

「んだと」

「あーわかった、これ持ってろ」


 ポーチから手探りで掴んだ折りたたみナイフを横に差し出すと、すぐに抜き取られる感覚がする。


「言っとくけどそれ作業用だから。切れ味期待すんなよ。あと変に使うとすぐ壊れんぞ」

「……お前はどうすんだよ」

「俺はそんなの使う余裕ない──って!」


 いきなりだった。

 ぐっと通り魔が距離を詰めてきて、目の前にまっすぐ刃が突き出される。耳に届くのは風を切る音。考える時間すらない、突然のこと。

 後ろに跳んだのはほぼ反射だ。

 下がりながら、直前まで首があった場所を刃が通るのを見て、血の気が引いた。


「え、ちょ待っ」


 息つく間もなく距離を詰められて、慌ててまた下がる。刃がすぐ目の前を横切っていく光景に、嫌な汗が止まらない。

 首、狙われてるっぽい。いや確かに頸動脈やられんのが多いとは聞いたけど。

 避け損なった時点で終わるやつだこれ。怖。


「おい、お前他に武器ねえのか!」


 反対側から聞こえてくる怒鳴り声に、思わず苛立つ。言いたいことはわかるけど、とんだ的外れだ。

 こっちは避けるのでやっとの一般人なんだよ、おまえと一緒にすんな馬鹿。


「俺反撃までは無理! おまえがなんとかして!」


 てか、まじで余裕ないこれ。

 追い立てられて下がれば下がるだけ、すぐに距離を詰められて。このままだと通りの横端まで追いつめられる。そう気づいた瞬間、思いきって横に跳んだ。少しでもナイフの刃が届きにくいように、相手の持ち手とは逆の、左の方へ。

 跳んだはいいけど。


「った、」


 やべ、かすった。

 首元を押さえるとぬるっとした感触がする。でも出血は少ないっぽいから、たぶん薄皮一枚切ったくらい。ギリギリだ。

 ゆらりとこっちを向いた通り魔に、また来るのかと足裏に力を込めた時、突然動きがピタリと止まった。


「?」


 訝しむと同時に、視線の先でフードの下の口元が動いて。かろうじて聞き取れたその呟きは。

 ……「血」?


 考える間もなく、通り魔の背後に影が差す。

 ジェイドだ。


「チッ、なんか仕込んでやがる」


 背後でナイフを横薙ぎにしたジェイドは、そのまま素早く飛び退る。瞬間通り魔が後ろに振り上げた刃は、何も無い場所を切り裂いた。

 半身だけ後ろを向いたその背中には、横に切れ込みが入っている。そこから覗くのは白い何か。

 仕込んでるって、背中もか。


 てか、って何だろう。今さら言われるまでもないのに。そこまで思ってふと、廃屋で出した提案が頭をよぎった。

 ああそっか。ジェイドのが血みどろなのに、なんで俺の方に来るのかと思ってたけど。

 指先についたままの血を軽く擦り合わせて、思わず笑う。


「ねぇ、俺が血をやるっつったの、まだ覚えてんの?」


 目の前の通り魔に投げかける。後ろを気にしていた身体がこっちを向いて、小さく頷くのが見えた。

 廃屋でも思ったけど、頭おかしい割には反応がやけに素直だ。さっきのあれも止まったというより、俺が黙って血を差し出すとでも思ったのかもしれない。


「条件、言っただろ。ただじゃないよ」


 フードを被った首がすこしだけ傾ぐ。見方を変えればこの展開も、かえって好都合かもしれない。

 だって俺が囮になるなら、その間ジェイドの動きは制限されない。


「後ろの奴は一切気にしないで。諦めて捨ておいて。その上で俺を捕まえられたら、好きなだけあげる」


 静止する通り魔に優しく見えるよう微笑んでから、いつでも逃げられるように足に力を込める。

 めちゃくちゃなことを言ってる自覚はある。果たしてどこまで応じるだろう。少しの不安を覚えながらもその動向をうかがうと、一拍置いてこっちに来るから。

 ……ほんと、判断力がまともじゃないようで何より。


 切り上げられた刃の軌道を下がって避ける。

 そうするとすかさず追撃が来るので、刃より遠い左側へ。


 ちょっと、慣れてきた。

 初めはいきなりすぎて、考える余裕もなかった。でも冷静に見れば、特別速いってわけでもない。ただ相手の動作と足取りがちぐはぐだから、タイミングずらされてやりにくいだけだ。

 頭がイってるせいか、動きは単調で捻りがないし。俺は元々ジェイドのせいでナイフを避けるのは慣れてるし、首狙ってくるってわかってるし。

 意外といける、かもしれない。


 通り魔の後ろにジェイドが迫る。

 ジェイドはその横腹を切りつけて、またすぐに跳びすさった。小さく悪態ついてるから、不都合があったのかもしれないけど。

 そういやあそこ、廃屋で俺が蹴った方か。


「こいつ、そっちも何か仕込んでるよ」

「早く言えよ!」

「言うような暇なかったろ」


 たぶん、通り魔は特別強いって訳じゃない。注意力は散漫で、不意打ちも結構当たる。背後からのジェイドの攻撃も、受けた直後以外は気を払ってる様子ないし。もう少し時間かければ、何とかなるのかもしれない。

 しれない、けど。


 ちょっと訂正、俺の方がバテてきた。

 上がる息を整える間もなく、避け続けて。ジェイドの反応が鈍くて合間にちらっと視線を投げると、攻めあぐねているような雰囲気が伝わってきた。


 ああそっか。背中が駄目で右も駄目なら、他への攻撃はリスクのが大きいか。

 左手側は武器持たれてるし、まだ下になにか仕込んでる可能性もある。あいつ自身右腕怪我してるから、慣れない左手しか使えないし。

 それなら。


「ジェイド」


 反対側のジェイドに声をかけると、すぐ「んだよ」と返事が来る。

 簡単なことだ。

 被った布の下が気になって攻められないのなら、いっそそれごと取り払ってしまえばいい。目の前に本人がいるから、懇切丁寧に言えないけど。


「この布、切って」


 付き合いだけは長いから、これでも理解してくれるはず。


 さすがにすぐはわからなかったようだけど、数秒後には察してくれたらしい。通り魔の注意がまだ逸れてない状態で、ジェイドが再び前に出てきた。

 何回かの切り合いの後、通り魔の腕が横に大きく振り切れて。その隙を狙ってジェイドが持つナイフの切っ先が、前に合わさった留め具に吸い込まれていく。

 それを見て、これでどうにかなると思った。でも、暴かない方が良かったのかもしれない。


 瞬間、世界が止まったような気がした。


 留め具が弾け飛び、横を向いたその身体からクロークがずるりと滑り落ちて。布の下から現れたのは、長くてぼさぼさの黒髪と、袖の短い白い服。

 だけどそれより次いで見えたものの方が、強く、強く目に焼き付いて離れなかった。


 右を向いているその身体の、本来右腕があるべきところにぶら下がっているのは、白骨の腕。

 大きく開いた背中には、作り物じみた小ぶりで白い両翼が、執拗に糸で縫い付けられている。

 前髪の間から覗く右の横顔は、酷い火傷の痕を残していて。


 振り返った残りの左側は、人形みたいに整っていた。


「アル!」


 切羽詰まった声にはっとする。すぐに後ろに跳んだけど、駄目だ。

 間に、合わない。


 目の前で、白刃が煌めく。

 とっさに首を庇い、間に挟んだ両腕から、血が吹き出した。

 息を詰めたすぐ後に、滑り込んで来たその顔が、目の前で呟いた。


「つかまえた」


 いつも無表情を貼り付けていた少女の顔は、その瞬間、とても嬉しそうに微笑んでいた。


「──っ」


 考える余裕なんて、なかった。

 頭上に刃が振り上げられるのを見た瞬間、反射的に腕が出てて。目の前の身体を思い切り突き飛ばすと、振り下ろされた刃先は軌道がそれて、俺の右頬を抉っていった。

 押された少女は、簡単に仰向けに転がって。上体を起こそうとしては、すぐに潰れている。不思議そうに瞬いたその視線は、自らの右肩に向けられていて。


「……なんで」


 少女の服は前面だけ一部が破れていて、覗いた左足には、ベルトで括り付けられた数本のナイフが見えた。

 腕の代わりに収まった白骨は、義手でもなんでもないらしい。彼女がいくら起き上がろうともがいても、骨は微塵も動く気配がない。

 ただカタカタと、地面に擦れて音を立てるだけ。


「なに、してんの」


 目の前の景色が、全部他人事みたいに見えた。

 頭の中が真っ白で、どうすればいいのかわからない。

 何を考えればいいのかも、わからなくて。わからないまま、頭の隅で生まれた疑問が、ただ口から垂れ流されてて。


「君は、城に閉じこもっていたはずだろ」


 もがいていた少女が、ふと気づいたようにこっちを向く。その見慣れた顔に乗っているのは、見慣れない火傷の痕。


「ティア」


 小さく呼ぶと、どこか虚ろな瞳は無感動に瞬いた。


「だあれ、それ」


 その言葉に、口を引き結ぶ。

 舌足らずな声は囁きのように小さく、カサカサに掠れている。でもよく聞けば、それは確かに彼女のものだった。


 唐突に、すべてが繋がる。

 いつかの夜の、暗色のクロークを羽織った姿。

 城から出る時に遠目で見た影は、やけにふらふらと覚束無い足取りをしていた。


 ああ、なるほど。


『時間がかかるほど、駄目になる。狂っていく』

『逃げて。ここから。──私から』


 あの日の、どこかおかしかった態度のわけも。


『本当の意味で化け物になったんだ』


 狂ったように笑う髑髏の、あの言葉の意味も。


 月光の下に晒された少女の身体は、まるでよくできた美術品みたいだった。

 人の腕の代わりに垂れ下がる乳白色の骨は、不気味ではあるのに、彼女の肌と服の白にどこか調和している。背に縫い付けられた小さな翼は、まるで彼女を人ではないと断じているようにも見えた。

 一方で顔に残る火傷痕は、妙に生々しく人間的で。理性を手放し血を求める澱んだ目には、どこまでも暗い狂気が宿っている。


 どうしようもなく歪んでいておぞましく、なのにどこか美しい、これは。

 ──確かに、化け物だ。




「──っおい、アル!」


 不意にすぐ横から、よく知った声が聞こえてきた。

 顔を上げると、強い視線が俺を睨みすえていた。


「ぼーっとしてんな、もういい逃げんぞ!」


 腕を引かれて足が出る。掴まれた腕に視線を落として、瞬きをする。その時になってようやく、血で汚れたその傷が、じくじくと痛みだしてきた。

 逃げるって、なんで。……なんで? なんでって。


 だって、そうだ、逃げないと。

 散々考えただろ、猫を見失った後に。あの静かな、廃墟街の通りの中で。


 ティアは俺の手に負えない。


 視線を上げる。目の前に居るのはいつも見ていた彼女ではない、狂気に呑まれた哀れな化け物。

 どうしたいんだよ。俺は、これを。何とかできると思ってんの。

 本心を隠して、友人と偽って近づいて、一時期一緒に居ただけの盗人のくせに。


 全部、忘れるべきだ。

 ティアなんて知らない。最初から出会ってなんてなかった。


「知り合いか」

「…………違う」


 横からの問いかけに、小さく零して首を振る。


「違う」


 もういい、いらない。このまま知らないふりして逃げればいい。

 だって、それがいちばん──


 不意に前から物音が聞こえてきて、思考が途切れる。

 一瞬固まってから顔を向ければ、立ち上がろうとしている少女の姿があった。

 俺の足は動かずに、目だけが動作を追ったまま。彼女が左手だけで起き上がってから、落ちているナイフを拾うその動きを、見たままで。

 突然俺の横から伸びてきた腕に、まともに反応することも出来なかった。

 腕を捕まれ後ろに投げられて、身体が地面に投げ出される。俺を投げたジェイドが、少女に向かって行くのが見えた。


「っ待て! ジェイ!」


 思わずあげた声に、ジェイドが振ろうとしていた刃先が止まる。少女は一瞬だけそれを見たけど、すぐに横を素通りしていった。


 何、してんだ、俺は。なんで止めた。

 止める必要なんてない。逃げるためには、俺の平穏のためには、切り捨てた方がいい。

 そうするべきだ。


「──っ」


 わかってんだよ、そんなことは。


 地面に手をついて立ち上がる。

 すぐ側まで来ていた少女が、虚ろな瞳で刃を振るう。

 もう、首だけ狙うのはやめたらしい。下がったタイミングが少し遅れ、切っ先は右肩をかすめた。


 身体の動きが、鈍い。今までどうやって避けてたのか、わからない。

 避けきれなかった刃が皮膚を裂いて、また薄く、血が滲む。そのたびに目の前で、遮る布を取り払った少女が、あでやかな笑みを浮かべる。


「アル」


 向こうからするジェイドの声に、視線は向けられなかった。

 そんな余裕、なかった。


「そうやっていつまでもうじうじ悩んでんなら、いっそしがらみ全部捨てちまえ」


 でも声だけは、よく届いた。





「──そ、か」


 するりと入り込んできた言葉が、心の間に染みていく。ぐちゃぐちゃに絡まっていたものが、ほどけて消えて。

 唐突に、すべてが凪いだ気がした。

 そっか。捨てればいいのか。


「そう、だよな」


 息を吐く。凶刃に晒されながら、ふわりとどこかを彷徨っていた心が、自分の元に帰ってくる。

 足が地面の感覚を思い出す。

 五感が正常を取り戻す。

 目の前の少女を見返して、その狂気に向き直る。


 わかった。良く、わかった。

 もう、考えるのはやめる。


「ジェイド」


 ぽつりと名前を呼ぶ。


「この先どんなことになっても──手、出すなよ」



 ぐだぐだ考えても答えが出ないのなら。いつまでも未練がましく答えを出そうとしないのなら。出た答えに納得出来ずに躊躇しているくらいなら。

 そんな役に立たないもの、もう知るか。


 思考も理性も正しさも冷静さも慎重さも経験則も、まとめて全部ドブに捨ててやる。

 ただ感情のままに、心のままに。

 納得できるまで、限界まで、惨めったらしく喚いて足掻けばいいんだろ。

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