ep.22◇月を見上げた夜のこと

 ──衝撃は、何故だか肩に来た。

 何かに強く押された身体が後ろへ傾き、かくりと膝から力が抜ける。腰を強打し勢いのまま背中まで倒れ込むと、押し潰された翼の接合部が鈍く痛んだ。

 耳元で大きな音がした。

 煩いくらいの心臓の音と息づかいは、いったい誰のものだろう。


 なにか温かいものが、手を濡らしていく感覚があった。

 瞑っていた目を緩慢に開ける。左手が動かない。刃は首には届いていない。

 死んでいない。

 死んでいない、のに。


 何故か、ふわりと傍で血が香っている。


「……っざ、けんなよ!」


 燃えるような、怒りに滾る瞳が、すぐ頭上で輝いていた。


「っ、勝手に終わらそうとしてんじゃねぇよ! ざけんなおまえ、俺がどんな思いでこんなことしてると……っ」


 覆い被さるような体勢で、月光を遮ったアルテの顔が、すぐ目の前にあった。

 呆然とその瞳を見返す。

 わずかに私が身じろぐと、アルテは呼応するように息を詰め、顔を顰めた。


「ああもうくっそいってぇな! いいから手ぇ離せ今すぐ捨てろそんなもん!」


 間近で怒鳴りつけられて、真っ白だった頭がゆっくりと回り出す。言われるままに、視線を左手へと移して。

 そこに映ったものに、血の気が引いた。


「あ」


 手。手が。


「あ……あ、あ……!」


 アルテの手が、血塗れだった。


 私の持つナイフの刀身を握りこみ、喉元から無理やり上方へと押し上げて。そのせいで刃が皮膚を食い破り、合間からとめどなく血があふれている。

 温かいと感じたこの手を濡らしていくものは、ナイフを伝い落ちてきた、彼の血だった。


「ごめ、なさ」


 身体が震える。息が、うまくできない。

 指先から力が抜けていき、ナイフを放した手はぱたりと地へ落ちた。

 アルテは掌中に残ったものを、横に放ろうとする。けれど力が入らないのか、ナイフは彼の手から滑り落ち、すぐ側の地面に転がっただけで。

 苦痛を堪えるような表情に、深く裂けた掌に、絶えず滴る血液に、心臓が握り潰されるような心地がした。


 この人だけは、傷つけたくなかったのに。

 私の、せいだ。今度こそ、紛れもなく私の。


 胸が苦しい。どうして。どうしたら。後悔は次から次へと湧いて出て、何も考えたくなくて、いっそこの場から消え去りたいとさえ思った。

 なのに、血の匂いが。すぐ傍で強くなったそれがすごく甘く、芳しく香ってくる。

 流れ落ちる血に喉を鳴らしている自分に気づいて、愕然とした。


「っも、や」


 ぐちゃぐちゃだ。何もかも。

 薄い皮膚の内側には、どす黒く濁った混沌が蔓延はびこっている。

 心は張り裂けそうな程の絶望で曇っているのに、身体は、すぐ側で香る血の匂いに歓喜していた。


 息が詰まる。頭が痛い。

 目の奥が、熱い。


「ころ、して。ころしてっ、はやく、殺して!」


 もう、いやだ。たくさんだ。

 あふれた涙が、まなじりを伝って横に流れた。


「はやく! はやく、しないと」


 どうしてこんな思いをしなければならないの。


「たべちゃう、」


 どうしてアルテを殺そうとするの。


「っ、ふ」


 どうして、この衝動は消えてはくれないんだ。


 きつく目を閉じて、左腕で目元を覆う。隙間から噛み殺せない嗚咽が、零れて落ちた。

 抑えのきかない衝動を、切り刻んで捨ててしまいたい。腹を裂いて、中に詰まった反吐を残らず掻き出して、水の中にでも沈めてそのまま凍らせてやりたい。

 そうでもしないと、おさまらない。止まってくれない。

 この醜悪な化け物は。


「ティア、まだ正気?」

「正気じゃ、ないっ」


 腕の向こうから聞こえた問に、噛み付くように返す。

 正気なわけがない。

 この期に及んで、すぐ近くであふれる血の匂いが、すごく芳しくて美味しそうで、気づくと理性がドロドロに溶けてしまいそうになる、こんな歪な精神が。


「分かってる、わかってるの。私は、人殺しで、化け物で、無価値で、誰にも必要となんかされてないって!」


 あの日私が死ぬことが最良だなんて、初めから分かりきっていた。

 もう見たくない繰り返される記憶も、そのせいで誰かを犠牲にすることも。自分のためにも他者のためにも、私が死ねば全てが丸く収まることなんて明らかだった。


「なのに性懲りも無く、生を求めてっ、縋って! 諦めが悪くて、浅ましくて身勝手でっ! 全部分かってた、その上で自分で選んだの!」


 思考が停滞していただなんて、言い訳にすらなりはしない。理性と良識の一切を取り払ったまま選んだ答えは、確かに私の本心だった。


「血が、欲しくて。欲しくて欲しくて気が狂いそうで。それでも、私ごと終わろうなんて思えなかったから。代わりに肉を裂いて血を啜って、罪もない人を殺して打ち捨てて! 分かってるの! そうして命を永らえたって、得られるものなんてない、化け物は人になんかなれない、この先には何も無い、夢も希望も枯れ果てた、救われたいなんておこがましいっ!」


 ねぇ、私が生きたいと思うことが、そんなにだめなの? そんなの、誰が決めたの?

 今まで誰も助けてはくれなかったのに、私は知らない誰かのために身を賭さないといけないの?

 あの日そんな風に、思ってしまったから。


 ただ生きたくて、生きたくて、その気持ちばかりが肥大して。

 いつの頃からか、生きてあの地獄から抜け出すことさえできれば、無条件に幸せを掴めるのだと思い込んでいた。

 だからあの日、全てに蓋をして思考を放り出したまま、幸せ漠然とした概念なんかに縋って。その後も自分は物だから、感情がないからと罪悪感から逃げて、血を啜ることを受けいれ続けてきた。

 そんな風に自分のことしか考えなかったから、きっとなにもかも間違えたんだ。


 自ら選んで化け物に堕ちた私は、もう人になど戻れない。

 きっと、これが罰なんだ。罪もない人の命を摘んでおいて、身の程知らずに求めたから。


 だから自分の中の衝動ひとつ抑え込めずに、一番傷つけたくない人をこの手にかける羽目になるんだ。


「殺、して」


 涙腺が決壊したように、涙が止まらない。押さえていた腕がふやけて、顔中を濡らしていく。


「殺して。もう、いや」


 不意に、腕が掴まれた。

 ぐいと力を込められて、顔の上から腕がずれる。


「君の境遇なんて、俺は知らない」


 涙で霞んだ世界は瞬きと共に零れ落ち、一瞬クリアになった視界に、アルテが映った。

 射抜くような瞳と目が合って、押し殺したような硬質な声が、「だからなんだよ」と吐き捨てる。


「生きたいんだろ、だったら構うな」


 その言葉に、唇が戦慄おののく。

 涙が、またあふれ出す。


「周りなんて捨ておけ。ただ生きんのに理由も配慮もいらねぇだろ。死んだ方がいい理由なんて知るかよ、どうせ君じゃなくたって誰かしら誰かに恨まれてて、心の底で死ねって思われながら生きてんのが世の常だ。そんなのいちいち真に受けんな」


 強い瞳が、目前で苛烈に煌めいている。


「自分一人が特別だなんて思い上がってんじゃねぇよ。吸血種一匹居ようと居まいと、死ぬやつは死ぬし生きるやつは生きる。はなっからこの世は弱肉強食で通ってんだ。ぐだぐだ御託ばっかうるさいんだよ、生きたいんだろ! 尊厳踏みにじられても、誰かを犠牲にしても、何もかも捨てても、それでも生きたかったら今ここに居るんだろ!」


 嗚咽はかみ殺せずに端から漏れ出て、周囲に無様に響いた。

 顔を背けて、涙の膜に蓋をするように、ぎゅっと目を閉じる。


「それ、で、あなたを殺す、くらいなら」


 息苦しさを感じながら、必死に息を吸う。


 生きたかった。呪いと共にでも、誰かを手にかけてでも。どうしようもなく生に執着して、いつかの願いを夢見ていた。

 けれどそれを貫くことであなたを殺すはめになるのなら、そんなものいらない。

 この吸血衝動を捨て去れないのなら、いっそ。


「死んだ方が、いい」


 あなたと出会ってからの日々は、平坦なのにとても穏やかで、温かくて、鮮やかだったの。

 傷つけることも傷つけられることも無く、ただそこにあるだけの平穏が、たまらなく尊くて。


 そんなあなたの犠牲の元に続く人生なんて、価値がない。


「アルテを殺してまで、生きたくない」


 視覚を遮断した体内に、己の言葉が落ちていく。

 返ってくる言葉はなく、沈黙が痛いほど肌に刺さった。

 それからどれくらい経ったのか分からない。


「………………ああそう」


 ようやく聞こえてきた声は、とても静かで。つられて目を開けた時には、涙はもう止まっていた。


「わかった」


 ぽつりと呟いたアルテが、右手を横に伸ばす。

 傍に落ちたままのナイフを取ろうとするも、掌に負った傷に顔を顰めて。結局アルテは右手でわずかな距離だけ引き寄せて、それを左手で拾い上げた。

 逆手になった刃が彼の目線まで持ち上げられ、その刃先が、私の喉元へ向けられる。

 ぼんやりと見上げたその光景は、どことなく現実味がないけれど。


 ああでも、良かった。

 これで、やっと。


 身体から力が抜ける。薄目を開けたまま、行く末を見守る。

 処刑を待つ罪人は、こんな気分なのだろうか。場違いな考えが、頭をよぎった。

 振り上げられたそのナイフは、風を切って、眼前に迫って、そして。






 耳元で甲高い金属音がした。

 響く余韻を肌で感じながら、緩く瞬きをする。ひとつ間をおいて、視線だけを横に流す。

 痛みは、ない。視界に映る手は、位置が少しずれている。

 振り下ろされたナイフは喉を掻き切ることなく、その真横に突き立てられていた。


「……満足かよ」


 淡々と呟いて、アルテは今度こそナイフを遠くへ放る。

 思考が追いつかなかった。

 どうして。どうして?


「アル──」

「素直に人の頼みをきいてやるほど、俺はいい人間じゃない」


 そう吐き捨てた彼の目の奥には、静かな炎が燃えていた。


「前に言ったろ、君の意見なんてどうでもいい。俺は俺のやりたいようにやる」

「でも」

「何」

「たべちゃ──」

「食いたきゃ勝手に食えば」


 事も無げに言われて、返す言葉が出てこない。


「……ただ、俺だってまだ死ぬ気は無いんだ」


 アルテの手が動く。ナイフでズタズタに裂けた、血塗れの右手が。

 力ない掌が目の前に掲げられて、未だ止まらない血が、ぽたぽたと頬に垂れてくる。

 すぐ鼻先に落ちた濃密な血の匂いに、心臓が跳ねた。


 息が浅くなる。意識が遠のきかける。目が逸らせない。喉が鳴る。

 一度止まった涙が、わずかに湧き上がってきて、一筋流れ出た。

 欲しい。食べたい。


「や、だ、はな、れて」

「ねえ、ティア」


 朦朧としながら見上げた先で、私を呼ぶその口元が、緩く持ち上がっていく。

 血塗れの親指をそっと落として、私の唇をなぞりあげたアルテは。


「俺を殺すくらいなら死ねるっていうんならさ」


 焚きつけるように、不敵に笑った。


「……死ぬ気で俺を生かしてみろよ」

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