黒糸を断つ
「そのフード、この先ずっと脱がんつもり?」
そう言われて顔を上げると、ケイシーさんが渋面を浮かべていた。
内鍵のかけられた玄関の扉に寄りかかり、腕を組んでこちらを見ている。その視線が私のフードに注がれていることは明白だった。
私は促されるように左手を伸ばすと、己の右頬にそっと触れる。
「……、火傷の痕、酷いから」
指先に伝わる皮膚は少し硬く、表面にわずかな
もうずいぶんと鏡を見ていないけれど、この顔がどうなっているのか、その記憶は鮮明に残っていた。
ケイシーさんが不満に思っているのは、私の格好についてだろう。
初めに彼女の家にお邪魔してから、もう数日は過ぎたけれど。ここに戻るたび、毎度私はクロークを羽織り、視界が狭くなるほど深くフードを被っている。
診療所に居た間は何も隠していなかったから、違和感が強いのかもしれない。
けれど、どうしようもないんだ。
こんな顔、誰の目にも晒したくはない。見るものから下される評価や与える印象は、嫌という程知っている。奴隷に堕ちたその時に、檻の内側で散々思い知らされたから。
それならもう、隠すしか。
「半分だけなら髪で隠せばいいじゃん? 前髪長いからどうとでもなるでしょ」
「……髪?」
考えもしなかった発想だった。
ぽかんと口を開けてケイシーさんを見上げると、私の反応の方が意外だったようで、逆に目を丸くされる。
少しして彼女はふっと息を吐き出すと、不敵に笑った。
「良いだろう。あたしに任せとけ」
ケイシーさんに腕を引かれ、私はわけも分からず家の奥へと通された。
◇
「よっし我ながら完璧。隠蔽成功。微塵も見えんぜ」
得意げな声と共に目元の髪を軽く払われて、目を開ける。
元々右目に視力はなく、光だけを感じる程度だ。その右側が暗くて手を伸ばすと、指先に傷んだ髪が触れた。
本当に、隠してくれたらしい。
「でね、弄っててちょっと思ったんけど、ティアちゃん髪切らん? 後ろ髪の方ね」
「え」
言われた言葉の理解には、数秒の時間を要した。
あまりに唐突な提案だった。
少し前に、促されるまま座った椅子の上。そこから立ったままのケイシーさんを見上げれば、目が合った瞬間にこりと笑いかけられる。
「……切る?」
「やっぱさ、後ろ長い上に前髪で顔覆っちゃうと、見ててすごい重いんよ。それに、見るたびボサボサで地味に気になってたんよね。だいぶ髪も傷んでるみたいだし。この環境じゃ、どうせ今後もろくに手入れ出来んでしょ。この機会に切るのもいいんじゃないかなって」
軽く手櫛を通された髪がすぐさま絡まり、「やっぱ傷みまくってる」と苦笑される。事実言われるまでもなく、私の髪はずっとこんな感じだ。
遡ればいつからか。一度奴隷に堕ちた後から、まともに気にしたことなどない。背の半ばまで伸びた、長いだけの無用の長物。
もともと、母に気に入られたくて伸ばしていたものだった。その後どちらの主人にも切られなかったから、そのままにしていただけだ。
古城にいた間は、こうではなかったのかもしれないけれど。
思い返せば食事どころか、身支度さえも整えられていた気がする。私があまりに気にしないせいで、見かねられていたのだろうか。
「あ、嫌だった? 伸ばしてたい?」
黙ったままの私に、ケイシーさんが首を傾げる。その瞳を見返し、「いえ」と小さく否定した。
別に、あまりこだわりは無い。ただ、その選択肢があったことに驚いただけ。
そうか。髪も、身体も。私はもう、自分で好きなように弄っても良いんだ。
今のこの身は、誰の所有物でもないのだから。
「じゃ、やっぱ切らん? 短いのも似合いそうだし。どれくらいがいいとかある?」
「……ごめんなさい。そういうの、自分じゃよく分からなくて」
正解のない問は、私にはまだ難しい。
軽く頭を下げると、ケイシーさんは少し悩む素振りを見せた。それから数秒間をあけて、ひとつ頷く。
「おっけ、あたしがティアちゃんを最高に可愛くしてやんよ」
そう言う様子があまりに楽しそうで、少しだけ息を飲む。優しい眼差しに促されるように、小さく頷いた。
どうしてだろう。
伸びてきたケイシーさんの指先が、髪を緩く梳いていく。酷く、優しい手つきだった。
それを受けて軽く頭を垂れると、ふふ、と含むような笑い声が聞こえてくる。
出会って間もないはずなのに、何故か、この人といると安心感を覚える。
どうして、だろう。
思いながらも胸中に浮かぶのは、遠い昔の穏やかな日々。
似ているからかもしれない。ずっと昔、私を可愛がってくれていたお姉さんに。
遠く、懐かしい故郷の、あの人に。
シャキン、シャキンと、小さく鋏が鳴っていた。
パラパラと黒髪が落ちていく合間に、間を持たせるように会話が続く。
「その右腕、取る気ないん?」
右腕。言われて視線を下げる。けれど首元に巻かれたシーツが邪魔をして、視認は出来なかった。
でも、彼女が言いたい事は分かる。一度取ると自分では再び着けられないから、そこにはずっと白骨が嵌ったままだ。
「それね、取った方が生きやすいと思うんけど。言い方悪いけど、それなければただの隻腕さんだし」
「……分かって、ます」
このままの姿が、周りにどう見えるかなんて。
取るべきなのだろうと、理解はしている。実際そうしたいという気持ちもある。けれどそれでも躊躇してしまうのは。
きっと一度外したら、不要になったこの骨は捨てるしかないのだろうから。
「愛着でもあるん?」
「……いいえ。ただ、捨てる決心がつかないだけなの」
いい思い出などないけれど。身体にかかったシーツの下で、残った左手を軽く握る。
「これは元々、私自身の骨だから」
取ってしまうのは、少しだけ躊躇いがあった。
我ながら、意味の無い行為だとは思うのだけど。
「じゃあ、埋めちゃう?」
あまりにもあっさりと吐き出された言葉に、少しの間思考が止まった。 遅れて脳が、その言葉の意味を理解する。
「埋め……?」
「死んどらんのに、お墓みたいになっちゃうけど」
そういうケイシーさんの態度は、ごく自然なもので。
この人は驚いたり、気味悪がったりしないのだろうか。この骨が本物の人骨だと知って。
……でも、今更なのかも。
顔の火傷もこの腕も、一見の時に大した反応をされなかった。ケイシーさんにとっては、それほど気になることでもないのかもしれない。
埋めるなんて、考えてもみなかった。
お墓、か。
「……そう、ですね。埋めようかな」
小さく返して、目を閉じる。
もし
「私は、『ティア』だから」
「? そうね」
不思議そうに同意する声を聞きながら、過去の自分へと思いを馳せる。
イヴはとうに死に、名も捨てると決めた。メメの残骸だって、無理に残す必要はない。
背に縫い付けられていた翼は、既に外れている。顔の火傷は髪で隠され、骨の腕は土に埋めて。そうして過去の遺物は、まとめて葬ってしまえばいいのかもしれない。
ただ捨てるのではなく、最後にお墓を作って、過去の自分を弔うことが出来たなら。私はこの先も、ただの『ティア』として生きていけるような、そんな気がした。
「どうせ取んなら、あの義手使えるよね? あーでも腕、肩から丸々ないのかぁ……リハビリも大変そ」
「リハビリ……」
「まー、ないよりいいよね。早く慣れるよう頑張りましょ」
どうして『頑張れ』では無く、『頑張ろう』?
内心で首を傾げていると、「お手伝いくらいはしますよ」と付け足されて、瞠目する。
そんな風に気にかけられる日が来るなんて、思っていなかった。
頭の上で、ケイシーさんが笑う気配がする。
「はー、もーティアちゃんほんっと癒し。アルちゃんほっといてずっとここ居て?」
「え、と、ごめんなさい?」
「あーあー振られたー。……──ほら、出来たよ」
最後に櫛で髪を梳かれ、ケイシーさんはそう言った。
手鏡しかなくてすまんね、と言いながら鏡を持たされて、その鏡面に私が映り込む。
「どう?」
どう、と言われても。
鏡に映った顔の右半分は、ほとんど前髪で隠れていて、火傷痕は見えなかった。後ろの長さは、肩の辺りで切られている。
見ればどうなっているのかは分かる。けれど似合うとか似合わないとか、気に入ったとか気に入らないとか。そういう感覚的な評価は、私にはまだ難しい。
「……分からないです」
「そっかー、じゃああたしが代わりに言ってあげる」
申し訳なくなりながら小さく言うと、ケイシーさんは見越していたかのように朗らかに笑った。
「可愛いよ、ティアちゃん。ほんと、最高に可愛い」
だからもう、フードで隠さんでいいからね。
付け足された言葉に思わず顔を上げる。目が合ったケイシーさんは、穏やかに目を細めた。
ああ、そうか。最初から、そのつもりで。
「頭、軽いでしょ?」
「……はい」
「火傷も隠して、骨も取るって決めて。……あと、嫌なもん残ってない? どうせなら、要らんもんはここに全部捨ててきな」
頭にそっと置かれた手が、じわりと仄かな熱を伝えてくる。少しだけ考えて、色々なことを気遣ってくれる優しい人に、小さく首を振る。
そのつり目がちな瞳を見ながら、私は笑みを返した。
「もう、大丈夫です」
以前の私の世界は、どこも閉じられた場所ばかり。いつも誰かに管理されている、狭い檻の中だった。
だから最近は、突然世界が広がりすぎて、足が竦みそうになる。自由という言葉の元に放り出されるのは、あまりにも心細く、不安が強い。
だけどもう、独りきりじゃないから。きっと頑張ればどこにだって行けるし、どういう風にも変わっていけるのだろう。
この先も、ずっと。
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