ep.2◆屋根裏部屋の住人
極貧層ばかりが固まってるイーストエンドとは違って、ここは貧富の差が激しく、場所によって活気がまるで違う。色んなものが一緒くたになって、どこか混沌としてるのがこの地域。
それでも大枠で見ると、イースト区の中では不思議と治安がましな方だ。
もっとも比較対象が悪すぎるだけで、他区よりはやっぱり物騒なんだけど。
とある集合住宅の最上階、その一番奥の扉。そこを開けると微かに古びた匂いと共に、上へと続く階段が現れる。
幅は人が二人すれ違えるほどしかなくて、照明もないから薄暗い。扉から階段の一段目までの間にあるのは、わずか二歩くらいの狭い空間だけ。
後ろ手に閉めた扉に鍵をかけてから、そのまま扉に背を預けて脱力する。鈍い動作で被っていたストールを取ると、ぐっしょりと濡れていた。
ちょっとは軒下で絞ってくれば良かったかも。そんなことを思いながらも、再び出てく気にはなれなくて。
なんだろ。何があったわけでもないのに、妙に疲れた。
下を向いていると、濡れた髪からぽつりと雫が垂れていく。それを見ながら、この外套も脱がないと、とボタンに手をかけた時。
──不意に上から足音が聞こえてきて、顔を上げた。
上の手すりから身を乗り出したのは、酷く見覚えのある顔だった。
肩の辺りで切られた黒髪。長い前髪が顔の右半分を覆い隠して、合間から左目だけが覗いてる。
その空に似た青い瞳が、俺と合うと少しだけ丸くなって。
「アルテ、びしょ濡れ」
「……ああ、うん」
反射的に返してから、内心で首を
つーか、なんで今日も居るんだろう。雨なのに。
「ティア、暇なの?」
思わず聞くと、ティアは不思議そうに瞬きをして、「暇です」と返事をした。
この階段の先にあるのは、なんてことない屋根裏部屋だ。
元々は物置として使っていたというここは、初めから家具やら本やら小物やらであふれてた。そして、今でも変わらずあふれてる。
俺が今ここに居るのは、この物置を間借りしてるからだ。正確にはものが置かれていない、余っている狭い空間だけを。
安く借りる代わりにと、他にもことあるごとに大家に雑用を押し付けられんのが条件で、だいぶめんどくさいけど。本来なら部屋を借りること自体難しいのを考えたら、鍵までついてるここは破格と言っても良い。
それにぶっちゃけ部屋なんて、安全に寝られんならそれでいいし。
「あの、もしかして今日は来たらだめでした? なにか不都合、あった?」
ティアはちょっと不安そうな顔をすると、回り込んでゆっくり階段を降りてきた。左手で壁をつたいながら、少しおぼつかない足取りで。
その時ティアの身体の横で、やけにだらんとしている右腕が目に入る。
その服の袖口から見える手は、部屋の暗がりでも隠せないほど、不自然な鈍色だ。
……そうだった。
「いや、別にいいんだけど。こんな雨の日にまで居ると思わなかっただけ。わざわざ降りてこなくていいよ」
言うとティアは一度
ティアの右腕は、ここに移ってから一週間後くらいに、いつの間にか変わってた。金属製の鈍色の義手は、俺がぶっ倒れてた間に魔女から貰ったものなんだという。
ただ義手は着いたけど、まだいまいち慣れてないのかもしれない。そこから半月くらい経った今も、右腕はだいたい身体の横に垂れたままだ。使うのも
片腕しか使えないんじゃ何するにも不便だろうし、暇を持て余すのもしょうがないんだろうけど。
雨でぐちゃぐちゃになった靴が気持ち悪くて、一度乾かそうと指をかける。靴下と一緒に脱いでから裸足で床を踏むと、冷たさが染みた。
そのまま外套も脱ごうとボタンに手をかけて、ふと気づく。
これ脱いだところで、下の服まで濡れてんだよな。
「えと、脱がないの? 風邪ひくよ」
「…………後で」
首を傾げるティアから目をそらす。
脱げるか。
「けれど、そのままだと風邪」
「ひかない」
「えっ」
「濡れてるように見えんの、表面だけだから。別にこの下は平気だよ。部屋寒いし、びっちゃびちゃの外套でも着ないよりまし」
外で打たれたのは小雨だったから、見た目はそこまで酷くない。下は濡れてるって言っても、隙間から滲んで来た程度だし、誤魔化せるはず。
「え、と、せめて拭きませんか」
戸惑ったような声が聞こえてきて、返答に詰まる。いや、確かにああ言えばこう返されるのは当然なんだけど。
でも今拭くような布持ってないし、上の部屋に行ったとしてもあんまないし。思いつつ外套の袖で顔を拭ってみるけど、意味ない気がする。てか濡れてるから冷たい。
どうしようかと迷っていたらまた足音がして、下を向いていた視界の中に、急にハンカチが現れた。
一瞬固まってからそろりと視線を上げる。見えたティアの口は、なんだか少し緩んでて。
「……ありがと」
内心を悟られた気がして、ちょっといたたまれなくなった。
最近のティアは、初めの頃の無表情っぷりが嘘みたいになってる。とはいっても、表情豊かって言えるほどじゃない。
なんだろ。表情がころころ変わるというより、考えてることが全部顔に出る、みたいな感じ。言動は素直だし嘘もつかないから、慣れれば結構わかりやすい。
「てかティア、今日ここに居てもやることあんの? 雨で部屋暗いし、いつもみたいに本読めないだろ」
階段を登り切ってから、ふと気になってティアに聞く。ついでにストールを手すりに干しながら。
屋根裏部屋の例に漏れず、この部屋も壁の一面は屋根に沿って傾いてる。窓の周りだけは屋根の外側に突き出してるから、壁一面が傾いてるというよりは、ちょっとでこぼこした感じなんだけど。まぁその形状のせいか、窓の辺りだけは普通の部屋みたいに、結構光は入ってくるんだ。
でも今日は雨のせいか、部屋は全体的に薄暗くて、そもそもの光が足りてなかった。
いつも見るたび本しか読んでないけど、今日はさすがに無理じゃねぇの。
そう思いながら窓前の椅子を見てみたのに、そこにはいつものように本が置かれてて、顔がひきつる。
「え、嘘。まさか今日も読んでんの。てかこの暗さで読めんの?」
「窓辺なら、そこまで支障はないから」
「……まぁ程々にして帰って」
読書なんて、何が面白いんだろ。全然良さがわかんねぇ。
ここに本があるのはわかってたけど、それがどんなものかはいまいち把握してない。俺は極力、部屋のものには触らないようにしてるから。ティアが何読んでんのかもわからない。
……中身を読む気にはなれないけど、題名はちょっと気になる。
好奇心が疼いてきて、椅子に近づく。そうして改めて見た時、さっきは気づかなかった背表紙の分厚さに、即効で顔を背けた。
何あれ無理。頭おかしい。
「あ、そういえば聞きたいことがあったの。あの、少し前に部屋の隅で、国内地図を見つけたのだけど」
声につられて視線をずらすと、ティアは後ろで大きめの紙を広げている。
ガラクタに埋もれるように置かれた、テーブルの上で。
「……地図?」
「この街って、どの辺りにあるのか分かりますか? 見ていたら気になって」
「いや、それ今じゃなきゃ駄目なの?」
思わず返すと、ティアは面食らったような顔をする。
何その顔。程々にって言ったばっかじゃん。こんな天気悪い日じゃなくて、今度で良いだろ。
呆れながらも口を開こうとしたら、目の前の顔がだんだんしょんぼりとしてくる。その表情に、かろうじて出かけた言葉を飲み込んだ。
なんなんだよもう。
「……まぁ、いいけど。でも俺、国内地図? とか見るの初めてだから、それ見てもわかんないよ」
「えと、大まかな位置とかでも」
「だから、それがわかんねぇんだって。街から出ないから、地理知らなくても困んなかったし」
少し近づいてティアの手元を覗き込んでみるけど、やっぱり全然わかんない。書かれてる字はやけに小さいし、なんでいちいち線の太さが違うのかもわかんねぇし、てかそもそもどう見んのこれ。
「そういえばあまり聞かないのだけど、この街の名前って?」
「んー……たしかルイン、だっけ」
普段は街自体の名前なんて気にしてないから、思い出すとき少し詰まった。イースト区と他区との隔たりのが強すぎて、街全体を考えることって中々ないし。
思いながら「場所わかる?」と横に聞いてみるけど、何かしら地理情報を教えてくれないと無理だと言われて。
「東に森あるし、そっから探せねぇの?」
「森は、この地図だと描かれていないので……他に情報はありますか」
「えー…………あ、なんか南の方に海があるって聞いた。あと、帝都までの街道沿いにあるらしいよ」
どっちも又聞きだけど。
わからないなりに薄暗い紙面を見ていると、しばらくして「あった」と声がする。横から伸びてきた指先を辿ると、左下の辺りにある点を指していた。
その場所をじっと見てみるけど、そもそも地図の見方がわかんないせいで、何がどうなのかさっぱりだ。だからなんだってんだろう。
「それでね。私の故郷、この辺りなの」
そう言いながら次にティアが指さしたのは、そこから数センチ右上の辺りで。「思ったより、遠いね」と呟くその言葉が、よくわからなかった。
紙の上では数センチしか距離ないのに、遠いの? そんなのどっからわかるんだろう。
「……ティアは帰りたいの?」
「え」
「帰りたいから、場所知りたかったんじゃねぇの?」
言いながらティアの方を向くと、その目は少し丸くなっている。
考えたこともなかった、とでも言いたげな顔だった。
「あ、いえ、そんなつもりじゃ……私は帰れない、です。売られた身だし、遠いので」
「できるできないの話じゃなくて。ティアはどうしたいの?」
「…………、どう、なのかな」
この街は、ティアには合わない。
確かに話を聞く限り、故郷にいい思い出はないんだろうとは思う。でも、その代わりにするには、この街は殺伐としすぎてる。
ここと比べれば他の街の方が遥かに安全だろうし、少しでも帰りたいと思えるなら、帰った方がいい気はするんだけど。
途方に暮れた子供のような顔を見てから、自分の右腕をさする。外套の下、少し濡れた布地が張り付くそこは、意識すると微妙に疼いた。
どうすんのがいいんだろう。
「アルテ。あの、話が変わるけど、いい?」
ぎこちない声に視線を戻すと、ティアが窺うようにこっちを見てた。
「何?」
「えと、ね。今更だけど、あの人から伝言があって」
あの人?
一瞬考えてから、ああ、と腑に落ちる。またか。いつものやつだ。
長く根づいた考え方って、そう簡単には変えられないのかもしれない。
「あの人って?」
聞き返すと、ティアはハッとしたような顔をしてから、もう一度言い直した。
「ケイシーさんが、アルテに用事があるらしくて。日が暮れた頃に来て欲しいって」
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