終章

十二.新たなる誓約


 夜の砂漠には闇が落ち、月光が凍る砂をきらめかせている。

 用意周到なシエラは野営のための設備を持ってきており、竜族たちは手分けをして風と寒さよけの結界を張ると火をおこし、天幕を組み立てた。

 ほのかに明る焚き火を囲んで旧知の仲である彼らが喋っているのを、ティルシュは黙って聞いていた。


 噂の光の王は金ではなく漆黒の髪色だったが、やはり人間とは違う雰囲気をまとっている。

 シエラのような鋭さはなく、ジュラのような懐っこさとも違う。穏やかさを感じさせる紫水晶アメジストの双眸は終始ティリーアを追っていて、その様子だけでも二人の間にある深い絆を感じさせられた。


 二人はきっと、あの小さな家に帰って一緒に住むのだろう。

 ジュラも、ラシェールも、帰るべき場所があると言っていた。シエラもおそらく同じだろう。


 では、自分は——?


 ティルシュはまだ、最後の決断を決めかねてる。





「ハル様、お願いがあるのです」


 全身の勇気を振り絞って口を開いたティルシュを、ハルが視線を傾けじっと見返す。紫水晶アメジストの双眸が優しげに細められ、彼は言った。


「妻でもない者にハル様と呼ばれるのは、妙な感じだ」

「…………」


 思いきり出鼻をくじかれ、二の句が継げずに固まるティルシュを楽しそうに眺めながら、ハルはくつくつと笑っている。


「ハルさんまで、ティルシュを揶揄からかわないでよね」

「いや悪い、ついね。だがティルシュ、私のことはハルでいい。それで、何かな?」


 ジュラの抗議を受けてハルは表情を取り直し、ティルシュに先を促した。だが本人の希望とはいえ、いきなり呼び捨てにできるはずもない。

 複雑な思いを巡らせつつ、呼び方に関してはジュラに倣うことにする。


「ハルさん。私は王族でありながら王座を追われ、逃亡している身です。よろしければ再び王となり、私の国を引き受けてくださいませんか?」


 すべてが本心とは言えない。それでも、先へ進むためには、自分の中にある迷いを形にしなければと思ったのだ。

 黙って聞きながら静かに笑むハルの表情に、そんな思いが見抜かれていることを実感し、ティルシュはつい姿勢を正す。


「それはあまり、良い考えとは言えないな」


 ハルの答えは予想に違わず、ティルシュは瞳を瞬かせて視線を落とした。


 遠い過去の時代、人は竜を退けた。だが今の時代、人は救いを求めている。

 伝説の時代に自国を繁栄させ安寧あんねいをもたらした王が再臨したとあれば、この枯れゆく世界にあってどれだけ強い希望になるだろうか、と思ってしまうのだ。

 だが同時に、訣別けつべつを突きつけた人間の側から竜族の王を求めるのも、今さら虫のいい話だと思う。

 人にとっては記録に残らぬいにしえ時代であろうと、ここにいる竜たちはそれを身にこうむり、あるいは見届けた当事者たちなのだから。


 果たしてハルは、黙考にふけるティルシュをしばらく眺めていた。

 結論を急かすのではなく彼が答えを出すのを見届けよう——というつもりだったのだろうが、隣に座っていたジュラがふいに、うつむくティルシュの頭に手を乗せて言った。


「また悪い癖が出てる。ティルシュ、……何だって、聞いていいんだよ」


 その言葉が思考に沈む意識を引きあげる。

 旅の間、何度も言われた台詞だった。皆の視線が集中するのを感じ、ティルシュの顔に熱がのぼってゆく。


「……はい」


 国を追われ遺跡に逃れたとき、自分は白馬と宝剣以外に何も持っていなかった。

 おのれの血筋についても、宝剣の意味についても、忘れられていた伝承についても、知らなかった。

 けれど今は違う。

 この世界ほしが何を失ったのか、目指すべきは何なのかを知った。

 答えはもう出ているはずなのだ。

 それを口にするのに、覚悟と勇気が必要なだけで。

 何より、あの暗い深淵から帰ってきたときに強く思ったのだから。


「私は、国を取り戻したい。異国の血を引いているという些細ささいな理由で命を軽んじるような者に、国を預けたくはないのです」


 それ以上の理由を、今はまだ持ててはいない。それでも、自分と国を愛さなくてはと言ったジュラの言葉が胸に残っている。

 時間がかかるとしても、その言葉にかないたいと願う。

 ハルが、ティリーアが、シエラが、ラシェールが、そしてジュラが。ティルシュの言葉にそれぞれが、笑みを零した。


「それはとても、いい考えだと思うよ」


 ハルが答えて嬉しそうに笑う。それから天を仰ぎ見て、言った。


「であれば俺は、世界を変えよう」


 凍度とうどの和らげられた夜風が彼の漆黒の髪を踊らせている。つられるように見あげた空には、白く抜けた満月と、全天に広がりきらめく銀砂の河。

 いにしえの時代に竜はあの星々と誓約を交わし、人へ贈る奇跡の力を願い求めたのだという。

 はるかな過去へと想いを馳せるティルシュの耳に、ハルの言葉が届く。


「今の私に特別な権能ちからはないが、できることならあるはずだ。だからティルシュ、ともに誓おう。君は王として人の心を未来へ向かわせる。私は世界を崩壊から再生へと変えてゆく。その願いを、誓いを、未来へ継承してゆく——どうだい?」


 竜と人が星々を介して新たに交わす、壮大な誓約だった。ティルシュは息を飲み、ハルを見返し、そしてうなずく。言葉にのせて受け止める。


「はい」


 人の生は短い。自分が生きている間に成せることなどごくわずかだろう。だが、人は未来に命をつなぎ、願いを託してゆく。

 そうやって、いつかは実現できるだろうか。

 冴えた夜気をひと息吸い込み、ティルシュは意を決して宣言した。


「私は夜が明けたらクフォンとともに、国を取り戻しに行きます。皆さんと会えて良かった、特にジュラ、貴方には……感謝してもし尽くせません。皆さんと別れるのは寂しいですが、私が目的を果たしたあかつきには、ぜひローヴァンレイ国へ遊びにいらしてください」


 一大決心で言ったのに、聞いていたジュラは不思議そうな表情かおで首を傾げた。


「なに言ってんの、ティルシュ。他のみんなはともかく、僕はつきあうよ。だから、まだお別れじゃないって」

「え」


 驚きのあまり目を見開くティルシュに、ジュラはいつもの無邪気な笑みを向けた。


「手助け、必要だよね? 勇者には剣士と魔術師がついてるのが、定石セオリーってものじゃん」

ちげえねえ。……だが、盗賊が足りてねえな」


 子供たちならば喜ぶであろう冒険譚になぞらえて、ジュラとシエラは目配せしあうとティルシュを見る。


「僕は君を守ると誓ったんだから最後までそれを果たすよ。一緒に、君の家族と国を取り戻そう?」

「おれも付き合うぜ。あー、……なんつーか、埋め合わせさせてくれ」


 優しい藍の竜と義理がたい闇の竜が申しでてくれた協力は、宝剣さえも失い身ひとつになった今の状況で、例えようもなく頼もしかった。


「……はい。ありがとう」


 感涙に声を詰まらせつつティルシュは答える。

 これからも一緒に過ごせる嬉しさと、彼らの力を借りられる心強さと。温かな感情が胸を満たしてゆく。


「すぐには無理だが、いずれ落ち着いたら俺たちも力になろう」

「僕は店があるから一緒には行けないけど、必要なものがあったら工面してあげるからさ。たまにはジュラと一緒に顔見せに来なよ?」


 ハルとラシェールの言葉に、ティリーアは嬉しそうに微笑んでうなずいている。

 ティルシュはもう、うつむかなかった。


「ありがとうございます」


 顔をあげ精一杯の笑顔を向けて、答える。そうして藍に変わりつつある空が目に入り、夜明けが近づいていると気づいた。

 いつか見た鮮やかな夜明けの空を、思いだす。それに思い描く未来を重ね、ティルシュはそっと目を伏せた。






 山際やまぎわが明るさを増してゆくのを眺めつつ、宿で待っていたクフォンは無意識に剣の柄を握りこむ。本当はついて行きたかったが、部外者である自分が立ち会えるものではないということは、よく分かっていた。

 優しいが気弱で、剣を扱えるとはいえ自衛すら頼りない幼馴染み、それがクフォンの仕える主君だったはずだ。だがわずかの隔絶かくぜつの間に彼は、ひと回りどころかそれ以上に成長していた。

 一抹いちまつの寂しさは否定できないが、それに勝る誇らしさも嘘ではない。


 今の彼なら支持者を集めることは容易だろう。

 今の時代、求められるのは武の立つ王ではない。先見の明を持ち、他者の言葉に耳を傾け、思慮しりょ深く国を導ける者こそが必要とされているのだ。


 あいつならできる。

 予感は今、確信へと変わっている。

 であれば幼馴染みの親友として、第一の臣下として、彼に剣を捧げた者として。彼の身は自分がなんとしてでも守ってみせる、と。



 そんなクフォンの誓いと、砂漠の空の下でティルシュが交わした誓いとが絡みあい、未来へと伸びる。

 それは新たなる歴史の縦軸になるだろう。






 途方もなく満ちてくるあおく深い海を眺め、彼は遠い記憶に心を馳せる。

 エフィンの色の濃い双眸に映る、過去と未来。

 指の間をすり抜けてゆく現在はあまりに刹那せつなで、残るのはいつもうずきと苦味をともなう過去のみ。思い描いていたはずの未来は、いつの狭間に過去の残像へとすり替わってしまうのだろう。


 今も過去も自分の在るべき場所などつかめなかった。

 ここに在るのは、ただただあおい混沌。

 このふちに身を浸しているのはひどく心地よく、それゆえに自分はこの先へ歩きだそうとはしないのだろう——これからも決して。

 その光にどれほど惹かれようと、彼のもとにひざまずくことはしない。


「今さらおもむいてゆるしを乞うなんて、俺の矜持きょうじが許さねぇ」


 吐きだすように呟いて、それから表情を歪めた。


 ——違う。


 失くしたはずの心が裂けそうなほどに痛い。薄っぺらい矜持など、なんの盾にもならないのだと知ってしまった。

 本当は、とっくの昔に気づいていた。

 変われないのではなく、変わろうとしない……自分には勇気がないだけなのだと。



 混沌のふちにうずくまる獣が、いやおうなく新たな道に踏みだすことになるのは、未来のいつかの物語。

 絡まり伸びゆく歴史の軸に、それはさらなる横糸を広げてゆく。




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