四.故郷
疲労
砂漠の日中は極度に暑くなる。生身の人間が軽装で踏み込めるような場所ではなく、馬も預けなくてはいけない。
ひとまずジュラの案内で街に入り、馬舎が備えられている宿を借りて馬を預け、疲れ果てていたティルシュはその日の夜は泥のように眠った。
夢を見たかもしれないが、覚えていない。深く寝入るほどに疲労感は全身にまとわりつき、気怠く鈍った意識が曖昧に朝を知覚する。
起きなければ、と頭の片隅で考えつつも、手足は鉛のように重く動かなかった。
「ティルシュ、朝だよ。起きなよ。……起きれない?」
ジュラの呼びかけが耳を通り抜けていくが、返答したつもりで声も出ていないのが実情である。深淵へ引きずり込もうとする睡魔と闘うことしばし、ようやく身を起こしたころには、室内にジュラの姿はなかった。
ぼうと霞む思考のまま、服を着替え髪を整える。
肩に落ちかかる赤銅色をぼんやりと眺めつつ、同じ髪色の母と、身体の不自由な父を思った。
ここ
白馬にしてもこの髪にしても、今の状況では目立ちすぎる要素だったが——一緒にいたのがそれ以上に人間離れした青年だったため、すっかり失念していたことに今さらながら思い至っていた。
今後はもっと慎重に動かねばならない、と決意を固める。
そうこうしているうちにジュラは戻ってきたようだ。
開いた扉を振り返り、入ってきた彼の手に二人分の膳があるのを見て、ティルシュの背中がぴんと張った。
「すみません……!」
「ん、起きた? 疲れてたんだし気にしなくていいよ。それより朝ごはんにしようよ」
ジュラは恐縮するティルシュを椅子に追いやり、テーブルに朝食を並べる。
手際よく寝具をたたみ、紅茶を
「いただきます」
どうしていいか分からないままその動きを目で追うだけだったティルシュも、ジュラに倣って手を合わせる。
いただきます、と小声で言えば、気分だけでも目が覚めたように思えた。
朝食は、王宮育ちのティルシュが口にしたことのない質素なものだった。あら麦のパン二つに、焼いたベーコンとスクランブルエッグ。少しの野菜が添えてある。
薄味のミルクスープに、甘い香りの紅茶。
ジュラはパンにナイフを入れて皿の上のものを器用に挟み込み、楽しげな表情で食べていた。ティルシュもそれに倣ってみる。
パンを手づかみにしてかぶりつくのははじめての経験だったが、想像していたより美味しくてつい無口のまま食べ続けてしまっていた。
向かいのジュラはしげしげとそれを観察し、にこにことパンを乗せてくる。
「え、これジュラさんのですよね?」
「大丈夫ー、食べて食べて。あと、君、王様なんだから畏まらなくていいよ」
食べはじめれば、昨日の朝からろくに食事をとれていないことを思いだした。
それほど量の多い朝食ではないので申し訳ないと思いつつも食欲には勝てず、ティルシュは三つ目のパンを口にする。
「……僕の国でなら、お腹いっぱいに食べさせてあげられるんだけどなぁ」
綺麗に空になった皿を眺めつつ、ジュラが呟いた。
痩せた土地で育つ作物は種類が限られる。城の食事が誰かの辛抱の上に成りたっていたことを痛感して罪悪感が胸をよぎったが、それよりも。
「ジュラさんは、どこから来たんですか?」
不思議なことを耳にしたように思えて、尋ねてみる。途端、ジュラの両眼が不満げにすうと細められた。
「畏まらなくていいって。敬語は好きにすればいいけど、名前はもっとこう……親しみを込めて呼んで欲しいな。それで、僕の国? きっと聞いたことがないと思うよ。『
いっぺんに言われた内容を一度には飲みこめず、胸中で思い巡らす。
名前は……善処しようと考える。『
「聞きたいことは遠慮なく聞いていいんだよ」
紅茶のカップを手にしたまま黙考をはじめたティルシュに、ジュラは笑いながら声をかけて意識を連れ戻した。
「
「
この荒れた大地を開墾する技術、というものに興味をひかれ、ティルシュは聞き返す。可能であれば国交を開いてその技術を教わることはできないだろうか、と思ったのだった。
ジュラは二、三度瞳を瞬かせ、柔らかく笑った。
「ううん、竜の国は王様がいない国。
「共和国? 王がいない? それはどういう統治なんですか?」
「え、ティルシュはそこが気になるの?」
思わぬ食いつきだったのだろう、政治という専門的な分野に問いを向けられて、ジュラの顔に焦りが浮かぶ。彼にとっては不得手な話題なのである。
「はい。ジュラさ……、に、分からないのなら、
「んー、ティルシュ落ち着いて」
どうどう、となだめられ、腰を浮かせていたティルシュは素直に椅子へ座り直した。ジュラは目を伏せ少し
「まず、ごめん。
「…………」
黙って目を見開くティルシュにジュラは、少しさみしげに笑いかけた。
「
「ハル?」
何度か耳をかすったその名前を、今度はティルシュも聞き逃さなかった。ジュラはうなずき、そして立ちあがる。
「ハルについてはきちんと話すよ。でも今は時間がないから、先に砂漠に踏み込む準備をしよう。街に出て旅装を整えて、仮眠をとって陽が沈んだら出発しないと。さ、早く出掛けよう?」
そうやって手早く食器を片づけはじめたジュラはやはり手際が良かった。
結局この
街に出て、砂よけの丈夫な
夕暮れの頃合いにジュラに起こされ、夕食をとって身支度を整える。
砂漠を徒歩で越えるのであれば、日のない時間——夜間から明け方に動くしかない。砂漠の夜は非常に寒くなるが、防寒対策でしのげる分、生命の危険がいくらか少なくて済むのだ。
「さ、行こうか」
手を差しだし、ジュラが言う。
うなずいて応じ、ティルシュは彼の手を取った。
雲ひとつない夜空には、銀砂をばらまいたように星の川が流れている。凍てつく風が通り抜け、物悲しい音で岩が鳴いていた。
生き物の気配は感じられず、凍った砂がキラキラと光を発している。
ここを越えた先に何があるのかを、ティルシュは知らない。
それでも今は、怖いとは思わなかった。それは隣に立つジュラが強い瞳で楽しげに、闇がたゆたう地平線の彼方を見据えているからかもしれない。
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