三.慟哭


「エティカ——っ!」


 ジェラークの悲痛な声が、凍りつきかけていた空気を引き裂いた。


 少女の瞳はうつろに開かれたまま、光を失っている。胸を貫く剣は大振りで、力を奪われた小さな身体を支えている。

 騒ぎに、自然と遠巻きになっていた人々が、騒ぎだす。

 小さな竜の子供の見開いた目から涙があふれた。


 黒髪の男は嘲笑ちょうしょうを顔に貼りつけたまま、勢いよく剣を引き抜いた。鮮血が噴き出し、少女がその場にくずおれる。

 悪趣味な芝居のように眼前で繰り広げられる現実を、ジェラークは声もなく見つめていた。


「この俺に、生意気な口をきくからだ」


 血染めの得物をひと振りし、それをまっすぐ突きつけて海賊は宣言する。


「覚えておけ! 弱ぇくせに俺を侮辱しやがる身の程知らずを俺は絶対に許さねぇ。おまえもすぐ、ソイツの所に送ってやる!」

「貴様っ……!」


 血の気が引いていたジェラークの全身を激情が巡り、熱が一気に頭に上った。衝動のままに踏み込み斬りかかるが、男はそれをいとも容易たやすく回避する。


「邪魔だ」


 ひとこと言って抱えていた子供を少女のむくろの側へ放り投げ、続けざまに斬りつけるジェラークの剣を受け止める。力任せに押し返し、体勢を崩した青年の腹をかかとで蹴り飛ばした。

 踏ん張りきれず跳ね飛ばされたジェラークは、それでもすぐに立ち上がり、挑みかかる。未熟さの目立つ彼の剣戟けんげきたのしげにさばききり、海賊は致命を狙って全力の一撃を打ち込んだ。


 が。

 ざく、と肉を断ち散った鮮血は、ジェラークのものではなかった。


「何をしている! エフィン」


 雷鳴のように耳を打つ怒声に、エフィンははじめ驚きの、次いで怒りの眼差しを声の主に向ける。

 これで、二度目だった。


「……ハル」


 光の王は素手でエフィンの剣をつかみ、二人の間に立っていた。

 ジェラークは、二、三度目を瞬かせ、自分の手もとを見て震えあがる。彼の剣はハルの背に突き立つ形で止められていた。裂けた衣服に血がにじみ、広がってゆく。

 いかにハルといえど、勢いづいた剣を生身でつかんで無事でいられるはずがない。

 痛みに表情を歪めながらも、ハルは不機嫌そうに自分を睨む元海賊をもう一度、恫喝どうかつした。


「何をしている! ここは、私の国だぞ!」

「煩せぇ、あんた千里眼なのかよ」


 冷静に考えれば、誰かがしらせを城に送りハルは転移の魔法でここに割り込んだのだろうが、頭に血が上っているのはエフィンも同じだった。

 軽い混乱ときまり悪さを誤魔化すように、威嚇いかく表情かおでハルを睨み返す。

 ハルは険しくエフィンを睨み、そして悲しげに頭を振った。


「おまえは私に誓ったはずだ。もう、人殺しはやめると」

「ならあんたは、俺がこいつに大人しく殺されれば良かったってのかよ!」


 エフィンがジェラークを指差し、食ってかかるように叫ぶ。ハルは剣身をつかんだまま数歩進んで、倒れている少女とうずくまる子竜に視線を落とした。


「おまえにも、憤る理由はあったのかもしれない。しかしなぜ、このを殺した? このにおまえを害する手立てがあったと言うのでは、ないだろうな」


 ハルの背からずるりと剣が抜け、支えを失って石畳の上に硬い音を響かせた。ジェラークはそれを虚ろな気分で見る。

 国王と海賊が何かを言い交わしているのが聞こえるが、それはただ彼の耳を通り過ぎてゆくだけだ。

 見あげる子供の濡れた瞳と視線を交わし、ハルは振り返ってエフィンを見た。

 紫水晶アメジストの双眸に揺れる失望感を直視したくなくて、エフィンは視線を逸らそうとするが、身体が金縛りにあったかのように動かない。


「おまえに『制約ギアス』を言い渡す。おまえは命の日の限り永久に、不動の地に留まることはできない。大陸であろうと、島であろうと、決して」

「……冗談、じゃねぇ」

「本気だ」


 言葉に織られた魔力が全身に絡みついてゆく感覚に、エフィンは怒りと悔しさを噛み殺しながら耐える。

 これは呪いだ。ライデア国のみならずこの世界におけるすべてのからの追放を言い渡されたのだ、と理解する。


「クソが、離せっ」


 不満を込めて剣をハルの手から引き抜けば、鮮血が散ってハルが顔をしかめた。

 睨むように一瞥いちべつし、エフィンは逃げるようにその場を立ち去る。

 それを沈痛な表情で見やりつつも、ハルはその場に屈みこんで小さな竜の子に視線を合わせた。


「私のところに来るかい?」


 子供が驚いたように目を丸くする。けれど竜の子はそれにうなずくことはせず、はっきりと首を横に振って立ちあがった。

 戸惑うハルに向かって深く頭を下げ、感謝の意を表して、子供は立ち去った海賊の後を追い走りだす。

 その大きな瞳に涙はもう、浮かんではいなかった。

 

 



 茫然自失ぼうぜんじしつのジェラークは、崩れ落ちるように膝をつき、小さな妹のまだ温かい身体を抱きしめた。嗚咽おえつが込みあげる。

 理不尽な仕方で、今度は妹までをも奪われた。


「ジェラーク……」


 ハルの沈んだ声が耳に届いた途端、激しい衝動いかりが胸にせり上がってきて、ジェラークはそれに弾かれるように顔をあげ彼を睨みあげる。


「どうして貴方は、あんなケダモノを野放しにするんですか! どうしてアイツを殺さないんですか!」

「落ち着いてくれ、ジェラーク」


 ハルが近づき屈みこんだ。妹の様子を見ようとしたのだと頭では理解したが、身体がそれを拒絶した。

 エティカはもう絶命している。

 治癒に秀でた竜族であろうと、失われた命を取り戻せるはずがない。


「近づくな!」


 嫌悪けんおの情が声音に混じる。

 妹に触れて欲しくない。

 エティカは、ただ一人残された家族、最後の宝だった。

 それを奪い去ったのは。


「貴方が、……貴方が妹を殺したんだ!」


 悲しみに裂けた心は、同じ傷を相手に与えることで己を癒そうとしていた。

 自分がどれだけ理不尽な言葉を彼に投げつけているのか、ジェラークは分かっていた。それなのに、止められない。

 逆恨みと分かっているのに、やめられない。


「あんたがアイツらを始末してくれてれば、妹は死なずに済んだんだ! そうだろ、あんたもアイツも同じ、魔物の仲間じゃないか!」

「ジェラーク」


 低い声に打ち据えられた気がして、ジェラークの全身が震える。言い放ったあとでその言葉の恐ろしさを認識し、彼は戦慄せんりつした。

 ハルがひどく悲しげな目で見ている。

 顔を見たくない。

 暗澹あんたんたる感情が胸に満ち、ジェラークは妹の身体を抱えて立ちあがった。振り返ることもせず、足早にその場を立ち去る。

 自分があの海賊と同じことをしているという自覚は、どこかにあった。

 けれど、竜族ハルに対する嫌悪はそれを圧倒し、拭い去ることのできない猜疑さいぎ心を彼の心にませはじめたのである。





 ジェラークは知らなかった。

 彼の放った言葉がハルだけでなく、その場にいた多くの群衆にも、どう聞こえていたのかを。

 いまだ小さな種であるとしても。

 植えつけられたそれはやがて芽を出し、いつしか成長して実を結ぶ。

 それが何をもたらすのか、など。

 彼はこの時、知るよしもなかったのである。




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