二.悲劇の幕開


 ライデア国の首都ライデアの西方に、ティリーアと呼ばれる港町がある。

 ここには遠い昔に竜族の村があったと言われているが、長い年月のうちにほとんどの竜族が他へと移住してしまったため、今はライデア国の一部になっている。


 この町はハルの妻ティリーアの生まれ故郷でもある。

 本来は豊かな自然に恵まれた、海の見える素晴らしい土地なのだが、近頃まで町の近海を海賊が暴れまわっていた名残で、いまだ不穏な空気を拭いきれずにいた。

 その影響のせいか、ひと気の少ない波止場で、二人の男が会話をしていた。

 どちらも大柄な黒髪の男である。二人のうちわずかに背の高い、腰まで届く長髪を一本に束ねた青年の腕には、眠る幼い子供が抱えられていた。


「おまえに期待なんざ、元からしてねえが。……岩山の荒野、そんな場所に連れて行くよりは、海の方がましじゃねえのかって話だ」

「ハルんとこに連れてきゃいいだろ」


 長髪の男が言った台詞に、もう一人のほう、目つきの悪い短髪の若者が投げやりに答える。話題に上った名に長髪のほうは、黒目がちな双眸を険しくして唸った。


「おれの記憶操作は竜族には見破られちまうんだよ。まして、ハルのところなど論外だ……! あいつにどう説明しろって言うんだ。さすがに許されないだろう、……竜殺し、など」

「へっ、所詮ヤツも竜族かよ。人殺しは許しても竜殺しは許さねぇ、か」


 喧嘩を売るかのような物言いに、長髪の男は星を宿す瞳に殺気をともらせる。


「あいつを侮辱するのは、たとえおまえでも許さねえぞ、エフィン。おまえは猶予ゆうよされてるだけだ。ハルとの約束を忘れてるんじゃねえだろうな」

「……忘れてはいねーよ」


 気圧けおされたと言うわけでもないだろうが、エフィンはふいと目をそらして、近くに重ねてある積荷用の空き箱に寄り掛かった。そしてぼそぼそと続ける。


「つーか、アレは約束どころか一方的じゃねぇか。あいつの目が黒いうちは略奪も殺しも許さねぇ、ってことだろ」


 力尽くで誓わせられた、ということだろう。

 不満げな様子だが納得はしているらしい元海賊を見ながら、彼は少しだけ瞳を和めた。ハルのハルらしさも、力負けすれば従うエフィンの素直さも、彼にとっては好ましいのだ。

 それを目ざとく察してエフィンが眉を寄せる。


「なーにが可笑おかしいんだよ、シエラ」

「……別にィ? それより話を戻すぞ。おまえがどうしても嫌だって言うんなら、仕方ねえ。こいつはおれが引き取ることにするさ」


 エフィンは黙って、シエラの腕で眠っている子供に視線を落とす。

 淡い水色の髪に透けるような白い肌の幼子おさなごは、彼には男か女か区別もできなかったが、ひどく儚げに見えた。

 子供を可愛いと思ったことなど今まで一度だってなかったが、竜族といえど子供とは小さく無力な存在なのだなと思う。

 この子竜から父親を奪ったのは、エフィン自身だ。


 この子の父は、少し前に襲った海沿いの村で守護竜をしていた水竜であり、守護結界を得意としていた。殺したのは結界を破るためだったが、私怨しえんもあっただろうと問われれば否とは言えない。

 結局のところ水竜を殺しても結界は解けず、手間どっている間にシエラが駆けつけてしまい略奪には至れなかった。

 遺骸にすがって泣きじゃくる幼子を見て咄嗟とっさに記憶操作を施してしまったシエラは、今思えば相当動揺していたに違いない。


 彼がこの件をハルに知られまいと気を回していることも、分かってはいた。

 それがエフィンを庇おうとするゆえであることも、意味があるかどうかは別にして彼自身気づいてはいる。


「じゃあな。しばらくは本当に、大人しくしとけよ」


 感傷に浸る元海賊には構わず、シエラは手をひらひらと振ってきびすを返す。歩き出そうとするその彼を、エフィンはふいに呼び止めた。


「ちょっと待て、シエラ」


 面倒そうに彼が振り返る。


「なんだ、エフィン」

「やっぱり、そいつは俺が引き取る。親ナシにしたせめてもの償いだ」


 元海賊王の口から発せられた言葉の意味を理解するのに、たっぷり数秒ほどを要してから、シエラは疑わしげに眉をひそめる。


「おまえが?」

「何だよ」


 この男に、償いなどという殊勝な考えがあったことには驚愕きょうがくしかない。そもそもそれが本当に本心だといえるだろうか。


「おまえが? 本当に?」

「ああ」


 つい、繰り返して問いを重ねるシエラを睨み返し、エフィンは肯定を返した。その裏にどんな真意があるのかを、読み取ることはできなかった。





 エティカとジェラークは二人きりの兄弟である。

 両親は、エティカがまだ幼いころに戦争で亡くなったと聞いている。

 当時まだ子供だったジェラークは、幼い妹を連れ戦火のくすぶる故国を捨てて、必死にライデアまで逃れてきた。そしてハルに拾われ、住む場所と職を与えてもらい、今に至る。


 エティカはその頃を覚えておらず、自身の体験談としてはあまり実感がない。しかし兄にとってその体験は、ひどく鮮烈なものだったらしい。

 兄の心の中には当時の記憶が心の傷トラウマとなって刻まれており、今も時々彼をさいなむ。同時にハルに対しては、強い感謝と羨望の念が根づいている。

 ジェラークにとっては、無力な一般市民を蹴散らす兵たち以上に、無慈悲な略奪を働く海賊たちは一層憎むべき相手である。

 だからこそ、敬愛する国王が海賊たちを放免したという事実は信じがたい、いや信じたくないことなのだ。それにいかなる理由があるとしても。


 エティカは兄の気持ちを理解はしている。

 しかし、実感として共有することはできない。

 実際に執務の一端に関わっている兄と違い、エティカには行政や刑罰といった分野は分からない。それでも、国王がこうだと決定したのなら何か考えがあってのことだろうと、信じたかった。


 言葉で言うほど簡単でないことは、実感していた。

 自分の心に生じたわずかな猜疑さいぎの影すら、いまだ払い切ることができない。





「兄さま、今日はお仕事?」


 長引いた海賊騒ぎで買い出しに行けない日が続き、気づけば貯蔵庫の蓄えが底を尽きかけていた。海賊騒ぎが片付いたのならば、気晴らしも兼ねて久々に街に繰り出したいところである。

 それでも一人では心細いので、エティカは兄の様子をうかがってみる。

 広報誌に目を通していたジェラークは目をあげてエティカを見た。


「休みだよ。それが?」

「ほんと? それなら久しぶりにいっしょに買い物いこうよ! 食べ物も、いろいろ切れてるし」


 兄は少し考えたようだったが、すぐに顔を上げてうなずいた。


「そうだな。息抜きにもなるし……一緒に行こうか」

「やったぁ! じゃああたし、買う物メモしてくる」


 満面に喜色をたたえて破顔一笑。エティカは弾む足取りで台所へ向かう。ジェラークが立ちあがり、その後ろ姿に声を掛けた。


「オレも手伝うよ、エティカ」

「ほんと?」


 その気遣いが嬉しくてエティカは思わず駆け戻り、勢いよく兄に抱きついた。





 ようやく海賊の恐怖から解放された港町は、徐々に活気が戻りつつあった。

 魚や果物などを売っている店だけでなく、珍しい異国の品を扱う行商人も店を出している。エティカは目的の食料品よりそちらに心を奪われて、さっきから寄り道してばかりだった。

 今も、貝殻を加工したアクセサリーを並べている出店の前から動く様子のない妹を、ジェラークは引っ張って連れてくる。


「早く行こうって」

「えー、いいじゃないー。見るだけなのに」


 不満げな文句は聞き流し、ジェラークは通りの向こうに指を向けた。


「先にお昼を食べよう。もうこんな時間だし、オレは腹が減って倒れそうだよ」

「そっか」


 出来合いの食べ物を売っている店や簡単な食事ができる屋台は、広場の近くに固まっている。

 言われてようやくエティカも自分の腹具合に気づいたのだろう、両てのひらを打ち合わせると目を輝かせて兄を見あげた。


「じゃ、兄さま! お弁当を買って、広場で食べよ? さっき、広場で手品やってるって聞いたの。あたしも見ていきたいなー、いいよね?」

「うーん、まあ、いいけど」


 これでは肝心の買い物がいつになるか分からないが、はしゃぐ妹の姿を目にすれば駄目と言えるはずもないジェラークである。

 エティカがさっそく屋台の方へ向かってしまったので、彼も慌てて後を追う。


 その時。


「おい! こら待てっ」


 恫喝どうかつするような響きの声に驚いて、エティカは思わず足を止めた。途端、目の前に小さな影が飛びだして、互いに避け切れずぶつかってしまう。

 小さな悲鳴が重なり、尻餅をついた妹に、ジェラークは慌てて駆け寄った。


「エティカ!」


 抱き起こそうとして、ぶつかった相手と目が合う。そして兄妹二人、同時に息を飲んだ。

 淡い水色の髪、水珠玉アクアマリンの大きな目、透けるような白い肌の、驚くほど綺麗な幼子おさなごだった。人間にはあり得ぬ容姿、それが何を意味しているかを二人ともよく知っている。


「竜族……?」

「あのっ、大丈夫?」


 兄がほうけている間に妹はすぐ立ち直った。声をかけ、手を差しだそうとしたその時、ふいに影が差す。子供が怯えたように目を見開き、立ち上がって逃げようとした——が、叶わなかった。

 大柄な男がそこに立っていた。彼は子供の髪をつかみ、身体を抱え上げた。悲鳴をあげないよう口を塞ぎ、歩きだそうとする。


 それをジェラークは見逃すことができなかった。


「待てぇ!」


 耳障りな金属音と威嚇いかくの声。街中で剣を抜いた兄の姿をエティカは見て、蒼ざめる。男が振り返り、冷たく笑った。


「俺様とやるってか? たいして強くもねーくせに、粋がってんじゃねえ」

「貴様、海賊だな?」


 挑発的な男の言葉には反応せず、抑えた声でジェラークは問い返す。男は片眉を上げ、子供を片腕に抱え直して腰の剣を引き抜いた。


「……だとしたら?」

「ケダモノめ! その子を置いて失せろ」


 震える声が罵倒ばとうを吐きだす。ただ事ではない様子に人の視線が集まり、誰かが警邏けいらを呼びに走ってゆく。

 不穏を増す事態に焦ったエティカは、兄を止めるため駆けだそうとし、そして。


 男と、少女の、目が合った。

 駆け抜けた怖気おぞけの正体を認識する前に。


 男が振り抜いた剣の切っ先は、少女エティカの胸を、深く貫いていた。




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