幕間 其ノ一
〈外伝二〉竜の魂を持つ獣
海。
荒れ
その身に宿すは、混沌。
飽くことなき
おまえが求めるものとは。
人族が広い大地のうえで住みはじめるより早くから、彼らは暮らしていたと言う。
大地は、人族のものだった。
そして同時に彼らのものだった。
強い身体と、あふれる魔法力と、永遠ともいえる長い時を持つ彼ら。
竜族。
彼らは存在力こそとても強いけれど、魂の――命そのものとしての位置関係は人族と非常に近い。
しかしそれは同時に、暗い
人は竜に憧れるけれど、彼らを恐ろしく不気味な存在として忌み遠ざける。
竜は人を愛するけれど、彼らを
すべての例がそうでないとしても―――。
人と竜は、互いに近しい存在である。
近しいだけでない、知らずに惹きあい、互いが互いに依存するのはなぜなのか。
気づきつつも目を閉じてしまうゆえ、いまだ互いとも理解しない。
きみらの魂は、かれらの魂と結び合っているのだよ。
どちらともが互いなくしては生きられない。
我々は、存在そのものがとても緊密な、ある意味双子の位置関係。
その証拠に、ごらん。
種族の違う互いの間に、生まれてくるだろう?
竜の中から、人の魂を持つ者。
人の中から、竜の魂を持つ者が。
存在力の強さ、それはすなわち竜の魂を持つ証。
***
思い出せる一番はじめからもう、両親の記憶はなかった。
おおきなおおきな、黒い獣。
森の獣たちが恐れ遠のく、
すっくと立って自分を見おろして。
裂けた口の端から暗い赤の舌がちらついて、そこから漏れだす声は、まるで地の底から響いてくるかのように。
あわれな。
言ったのかもしれないし、響いた音がそう聞こえただけかもしれない。
ただそれだけだった。
彼の記憶の一番奥に、残っているひとのこえはただそれだけ。
この世界に恐ろしいものなどなかった。
死ぬことも、――殺すことも。
それが生きるということだった。
血色に染まってもまだなお蒼いおのれの髪。
無機に思えてそれでも深く青いおのれの目。
黒い獣は優しかった。
おのれと同じすがたの人より、よほど自分に近かった。
おまえは強いよ。
なにがとは言えないが、ただその
おまえなら扱えるのだろう。
このよでもっともきょうだいなちから。
竜族の持つ、魔法という力をね。
包む絹のような感触の体毛は心地よかった。
決して温かくなどなかったけれど、そんなことどうだって良かった。
まるで闇そのものに抱かれるような
獣は人と違うから眠る必要などないと知らなかった。
そして死が眠りとは違うということも。
別れが訪れたのはいつだったかわからない。
記憶の底の、ふたつめのこえ。
おおきなおおきな手。絹のような闇色の髪。
ひとの姿をしていたけれどひとではない匂いがした。
かわいそうにな。
哀れむように言われた響きは解らないのに、なぜか意味だけ理解した。
自分の顔の濡れた感触が嫌だった。
血は目からも流れるのだと思った。
伝う感触は同じなのに、目から流れるときそれは透明になる。
なぜとは考えなかった。
そんなことより、ひどく苦しくてならなかった。
いつからか、鏡に映る自分の髪は闇で染めた絹の色になっていた。
***
「……っ! 冗談じゃねえ!」
ちりいんという音がして、銅貨が何枚か歩道にばらまかれた。通行人が驚いたように振り返る。
大きな船が停泊する港町、人の行き来は少なくない。しかし、彼はそんなこと一切気に介さぬふうで、腕を組み船主を睨んで唸るように言った。
「子供の小遣いじゃねえんだ、あれだけ扱き使っておきながら、たったこれだけか? え?」
「おまえこそ、船員たちとあれだけの大揉めやっておいて、駄賃が貰えるだけありがたく思わんか。あれでどれだけの荷物が損害被ったと思ってる」
負けじと言い返す雇い主の言葉に、彼の眉がくいと跳ねあがる。
「うっせえ! ありゃ俺が悪いんじゃねえだろ? 先にしかけてきたのはあんたとこのバカどもだろーが」
「どっちが先だろうと後だろうと、荷物打っ壊したのはおまえだろ? こっちだって労力員の鼻やら腕やらヘシ折られて困ってるんだ。いいからそれを大人しく納めてさっさとどっかへ行っちまえ」
ふんと彼は鼻を鳴らした。そして、船主の眼前で石畳に転がっている硬貨を蹴飛ばした。ちりんと銅貨が光を弾く。
「意地でも受け取れるかよっ! ……こんな、胸糞悪い金なんてよ」
くるりと背を向けて彼は乱暴な足どりで歩きだす。船主が何も言わなかったのが腹立たしかったが、それを口に出すのはなお悔しかった。
陽が陰る。
つられるように彼は空を見上げた。
闇は嫌いじゃないが夜は好きじゃない。
宵闇は昼と夜との
記憶の奥に
懐かしいなどという感傷的な感覚がときどき迫り上がってくるのは、いつだってそういう時間だ。
宵の刻は魔のものが動き始める時刻と言うが、自分にはなにかそういう部分があるに違いない――。
「よう」
不意に声が掛かった。彼は黙ってそちらを振り返る。
陰ったとは言えなお明るい陽光のもと、絹のような闇色の髪を尾のように背に流した、長身の。
ひとであってひとにあらざる。
「あんたは……」
「でかくなったな。元気でやってるか? 十年ぶりじゃないか?」
場違いなほどに気さくに、そう言いつつ彼が早足でそばに来る。
おおきな手をぐいと乱暴に額のあたりに置き、夜空のかけらをはめ込んだような目をつと細めて、彼は。
「――エフィン」
覗きこむように嬉しそうに、そう、呼びかけた。
宵の刻。魔のものの好む時刻。
なぜとかそういう理由など重要ではない。
重要なのは、自分にも同じ感覚があるということ。
魔のもの。
それは結局なんなのか。
難しい表情で麦酒をあおる少年を、頬杖をついて彼は不思議そうに覗きこんだ。
「……なんだよ」
視線に気づいて少年が不機嫌な声を上げる。
「いいや、いや、なんなんだろうな?」
彼はなにげなく呟いただけだろうが、胸中にわいた疑問との共通性に、少年は正直どきりとする。
でもそれを感づかれるのは悔しかった。
だからますます不機嫌な声で答える。
「見世物じゃねえ」
「おまえは強い魂を持ってるな。まるで竜みたいだ」
遮るように彼が言った。ざくり、と、記憶の奥で何かが裂ける。
「強い魂……」
不覚にも声が震えた。幸運だったのは彼が思考に沈んだままでそれに気づかなかったことか。
残像が、またよぎる。
おまえは、存在そのものがとても強いよ。
深紅の両眼の、天を刺す黒い獣。
「竜の魂を持ってんなら、俺は魔術を使えんのか?」
記憶がうながすままに問いが口をついた。彼は驚いたように目を見開く。
答えを用意していなかったとでもいうように彼はかなりの時間
「いいや、無理だ」
「――ッ、なんでだよ!」
ばんとテーブルを叩いて立ち上がった少年の襟を彼はつかみ、無理やり座り直させる。獣のように目をぎらぎらさせて睨む様子に、まあ落ち着け、そう言った。
「どうしてンなこと
息と一緒に悪態を呑み込んだのを確認してから、彼は言葉を続けた。
「確かにおまえは竜の魂を持ってる。だがな、おまえに魔法は使えない。怒んねえで聴け、なぜかっていうとおまえは……おまえの中には、魔が
「魔? なんだよそれ」
怒りと好奇心が入れ替わる。魔というものが何かはよく解っていなかったが、竜というものがなんなのかはもっと解らない。
「魔の力っていうのは、竜の力を
彼はひと息でグラスの中身を空にしてから、付け加えた。
「おまえは竜の魔法力に耐えうる魂を持ってはいるんだが、魔……妖と言ってもいいか、その力がおまえの中に存在している以上、竜の魔法力はおまえの中の膨大な妖力を消滅させてしまうんだ。それは多分、命に関わる」
「へえ……」
言われたことはさっぱり解らなかったが、不思議と納得できたので少年はうなずいた。竜と魔が
竜は魔のものを嫌うのか。
「へ、つまんねえ。優越意識かよ、馬鹿げていやがらあ」
「言ってねえだろ? そんなこと」
諭すように言われた彼の言葉が気に入らず、頭より先に手が動いた。がっと彼の胸倉をつかむ。
首を絞めてやるつもりが、その手は余りにあっさりとほどかれてしまった。
「畜生、テメエも竜族のくせに!」
両腕をつかみ上げられまったく動かせず、どうしようもなくなって少年は声を荒げる。そうしつつも、なぜ自分がこんなに苛ついているのかが解らない。
「なにカリカリしてんだよ、落ち着け」
まっすぐ目を見合わせきつく言われたことばに、少年の瞳に宿っていた暗い
糸が切れたように椅子に崩れた少年の隣に彼も座り直し、
「……かんねえよ」
細い声で少年が呟く。
なにがとも言わず、ほんのかすかな独白だったが、彼は聞き逃さなかった。てのひらを頭に乗せてやる。
慰めになるとは思えなかったが、何かせずにはいられなかった。
「おまえは、魔術を覚えたいのか?」
違う。そういう答えが返る。
「じゃ、竜族が嫌いなのか?」
そうかもしれない、消え入るような答えが返る。
「なぜだ?」
少年が顔をあげて彼を睨んだ。叫ぶように答える。
「俺は魔物だ! 竜は魔を認めねぇ! ……それくらい、知ってるさ」
星を散らした瞳が揺れた。頭上のてのひらに力が込められる。頭を動かすことができぬまま、彼が痛みを映して表情を歪めたのを直視する。
「そんなのばっかりじゃないさ」
否定しなかった答えは逆に
そんなのばかりじゃない。
目の前の、この男のように。
そんなことで心が動くことはなくても、
「あんたは、いいのかよ」
いいたいことを彼は恐らく解らないだろうと思ったが。
「魔物とか竜とか人とか……、いい悪いって言うより存在してるってことのほうが重要だろ?」
穏やかな答えにだいぶ心が解けて、少年の目から怒りが消えた。彼はそれを見てとったのか手を離す。
「おまえ、自分のことを、聴きたいか?」
過去の記憶。
残像ばかりで
「そんなん、いらねえよ」
そうか。彼はそう言ってそれ以上は語らなかった。
過去を言い訳になんてしたくなかった。
それを彼は気づいたのかもしれない。
しばらく、沈黙が流れた。
船荷の運び下ろしなどには役立たない、成長期の中途半端に細くて長い手足を見つめ、ふと、考える。
ふいに思いついたそれは、どこか懐かしい
「なあ、海ってどんなんだよ」
「うみ?」
彼が驚いたような声を上げた。
「海って……おまえ、船に乗ったことあるんだろ?」
「ばあーっか。あんな海の端っけじゃなくて、海だよ」
彼が難しい顔で考えこむ。解りにくかろうとは理解していたが、表現方法が思いつかなかった。
海。
自分の目の色と同じ、深い深いあおいろの海。
それは、竜でもなければ人でもない。
「そうだな、海は……魔物だな」
呟くように弾きだされたこたえは、少年の記憶をも弾いた。自分の中の憧憬が重なる。その様子に彼はちらりと視線を投げて、言葉を継いだ。
「穏やかなときもあれば、猛り荒れ狂い恐ろしい牙を剥くこともある。いくら
でも、奴に魅せられた者は命の危険を冒してでも海に出たがるんだよ。
ため息混じりに吐き出して、彼は苦笑いを浮かべ少年を見た。
「海に出たいのか?」
肯定の返事もうなずくこともしなかったが、その瞳がすべてを示している。
彼はなぜかあきらめたように笑って、天井を仰ぎ見た。
「そうだな。……そのほうがおまえには似合ってるさ」
「飼い慣らしてやるさ。必ずによ」
双眸が決意を映す。
あの獣のように深紅を宿して
海は何の色にも染まらない。
望みを呑み込み祈りを喰い尽くし、飽くことなく
こわいな。
彼に逢うであろうすべての者が、きっとそう思うだろう。
存在を取り去ろうと試みるものもいるだろう。
けれど決して叶わない。
存在そのものの強さに加え、妖の強大な力をその身に宿す。
ひずみがこれ以上大きくならぬよう願うことしか恐らくできない。
けれど。
その魂の強さゆえ、多くの者がまた、彼に惹かれもするだろう。
命の危険を冒しても。
さながら海のように。
「海、か」
独りごちた彼を
***
海。
埋めることも呑み込むことも叶わない。
その強大さゆえに人はただ、そこを無事に過ぎるようにと震えて祈る。
せめて我が身が喰われぬようにと。
海。
それはひとを魅了する。
その大きさに。その美しさに。その強さに。
それがおのれの魂と引き換える関わりだとしても。
逃れ解放されることは叶わない。
命をさしだすならば魂だけは解放してやろう——。
ささやく、そのことばが
終
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