七.永訣


 ひとは太陽の光のみで満足できなくなった時、火明かりを手にした。

 闇をも照らしだすもうひとつの光体ひかり。正しく御さねば、それは破壊と破滅をもたらし得る。

 それを今、彼らは手にしていた。


 エントランスホールにて対峙たいじする光竜の王と、人間の群れ。彼らの手には松明たいまつや武器が握られている。

 その先頭に立つ若者はハルもアスラもよく見知った者だ。

 ジェラークは片手に燃える松明、もう片方の手に布に包んだ細い短剣を持って、ハルの前に立っていた。

 全身にみなぎるのは生命力ではなく、暗くよどんだ別の何かだ。ギラギラと松明を照り返す双眸が、瞬きもせず王を睨み据えている。


「——王」


 無理やり声を押しだし、手に持っていた松明をハルの足もとへ投げつけた。

 耐火性の絨毯じゅうたんであるため燃え広がることはないが、ジェラークの挑発的な行為にハルの表情が険しさを増す。


「何が望みだ? 王位を退けというのなら、私は去ろう」


 ハルのそばまで来ていたアスラが、ティリーアが、その言葉に目をみはる。

 わずかの間、凍りついたような沈黙が場に張りつめた。


「オレの、望みは」


 そんなものじゃない。続けようとしたが、声は出なかった。

 身体中がきしむように重い。指の先がひどく冷え切っている。震える指で布を払い、それを王へと差しだした。

 亡き母がエティカに贈った護身用の短剣。

 持ち主を失い、今はもう存在する意味を持たない。


「…………」


 ハルの表情が和らいだように見えた。

 彼がこの短剣にどれほどの意味を見出みいだしたかなど、ジェラークに知るすべはない。そしてそれは刹那せつなの感傷だ。

 顔をあげ見返す瞳に怒りが閃く。


「私に死ねというのか。おまえたちは、私の何が不満だ? 答えてみろ!」


 凄烈せいれつな王者の怒りにジェラークの心臓が跳ねた。

 人の力で、普通の武器で、竜族を殺すことなどできない。彼が腰に帯びた剣をひと振りすれば、あるいは召雷の魔法を行使すれば、ここにいる反逆者たちの命を刈り取ることなど容易たやすいのだ。

 迫りあがる恐怖によって震える声を燃える怒りで抑えつけ、彼は怒鳴り返した。


「バケモノに、国を治められるなんて真っ平だ! オレたちは、オレたちの王は自分で選ぶ!」


 ほとばしるのは虚無を喰らいくすぶる憎悪。正しいのか間違っているかなど今さら見わけることもできず、血を流し続ける心がただただ怒りを駆りたてる。

 ハルはわずかに双眸を細め、問うように言った。


「私が死ねば世界は崩壊へと進むことになるだろう。……それでもいいのか」


 呪いをかける気か、と出かかった言葉を遮るようにアスラが割り込み、ジェラークを睨んで怒鳴った。


「おまえは! 自分たちの守護者を殺す気なのか!」


 守護者……?

 ジェラークの中で誰かがわらう。

 彼が、自分から妹を、奪ったというのに。


「オレたちは人間だ。人間を治めるのは、人間が相応ふさわしいに決まってる。……なにが守護者だ、ドラゴンなんて魔物の仲間じゃないか!」

「貴様!」


 途端、明らかにアスラの顔色が変わった。不可視の魔力が陽炎のように空気を圧して、殺意がまっすぐ向けられるのを感じる。

 殺される、と。冷えた心が思った。

 なのになぜだろう、なんの感傷もわかないのは。

 きっともうこの心は死んでいるのだ、と自覚した、時。


「やめなさい、アスラ」


 静かな声が激昂げっこうした時の竜をとどめた。

 張りつめていた魔力が溶けてゆく。ハルの深い色の両眼が自分を見ていた。

 予感が胸をうつ。

 その本質を理解する時間もないまま。


「わかった。俺の命、おまえたちにくれてやろう」


 王の宣言に、アスラが、そしてティリーアが愕然がくぜんと彼を見る。

 その様子を視界にとらえていながら、ジェラークはなにが起きているのかを理解できていなかった。


「ハル! こんな奴らのために死ぬことなんてない!」


 つかみ掛かる義弟おとうとを落ち着き払った目で制し、ハルは穏やかに笑む。


「もう、これしかないのさ」


 彼がなにを言わんとしているのかが、わからない。

 きっとアスラにもわからなかっただろう。

 ハルは、きっと。


「彼らは竜族われわれが怖いのだよ。分かってあげなさい、アスラ」


 ジェラーク自身にも理解できていない感情のよどみを見ているのだ。

 あの時、凍えるような冬の日、自分と妹を門の中に迎えいれてくれた。あの時と変わらない、優しいひだまりの光で。

 ボロボロの子供らを見捨てたりせず、温かさを与えて凍った心を溶かした。

 記憶が、まわる。

 自分は何をしているのだろう。

 けれども、——だってここには、——あの時と同じではなくて。

 妹が、いない。


「すまない、アスラ。……ティア」

「いや! だめよハル! お願いやめて……!」


 弾かれたように、黒髪の女性がハルに駆けよってすがりつく。涙に濡れた水珠玉アクアマリンの目でまっすぐ訴えかけられて、ハルは心が揺らいだに違いなかった。

 けれどそれは一瞬だけだ。

 ハルが手を伸ばし、ジェラークの持つ短剣をつかみ取る。止めようとするアスラをひと睨みでとどめ、ハルは強く命じた。


「手を出すな。——おまえも、竜族なら」


 何かを言おうとして声にできず、アスラの表情かおが泣きだしそうに歪む。

 ティリーアが、短剣を持つハルの手にしがみついて叫んだ。


「だめ、お願いやめて! おねがい……」


 泣きながら哀願する妻を、彼は強く抱きしめる。


「愛しているよ、ティア。おまえは、俺のあとを追うな」

「ハル!」


 抑えた声は震えを帯びて湿っていた。

 優しく残酷な別れの言葉に、ティリーアの全身が震える。

 しばしの抱擁ののち、ハルはそっとティリーアを突き放した。紫水晶アメジストの光がジェラークをとらえる。彼の大きな手には不似合いな短剣が、ゆるりと持ちあがりハルの喉を指し示した。


 まだ間に合う……! と、意識の中で誰かが叫ぶ。

 今おのれの言葉を撤回てっかいすれば、この先の悲劇は避けられると——思った言葉を、ジェラークは結局、口にすることができなかった。

 ティリーアの絶叫が響く。ハルの伏せた両目から涙があふれた。


「ティア、……せめておまえの故郷だけは、滅びのさだめを回避できるように」


 予言めいた囁きを残し。

 直後。

 彼は短剣で、自らの喉をっ切った。



 

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