七.精霊の祈り
地平線が
休息を挟みつつも夜通し歩いて足は棒のようになっていたが、その疲れさえ忘れてティルシュは薄明の空に見入っていた。
「夜明けって、見るのはじめて?」
ジュラが人懐っこい目を向けて、問う。ティルシュは乾いた喉に息を飲み込んだ。
「はい」
夕焼けであれば、何度か見たことがあった。
その美しさに感動を覚えはしたが、
しかし朝焼けの紅は同じように見えて、どこか違うふうに思えた。
しんと凍りついた夜の空気を徐々に溶かしてゆく、はじまりの光。ただの感傷に過ぎないとしても、その光はティルシュの胸をも満たしてゆくようだった。
青から白に。白から紅に。色づきながら広がる地平線との境目を、言葉もなくティルシュはただ見つめていた。その壮大さと、自分という存在の微小さ。
託されたものはあまりに大きく、難解だ。
「大丈夫? ティルシュ」
ジュラが心配そうに覗きこむ。それで我に返り、ティルシュは慌てて答えた。
「はい、大丈夫です。すみません」
「謝ることはないけど。でも、そろそろだよ」
そう言って差したジュラの指の先には、なだらかな砂丘と、
「……墓標?」
「そう。ここが、砂漠のはじまりの地」
答えてジュラは首を傾けティルシュを見た。藍の双眸を細め、口もとに優しげな笑みを
「今から会いにいく女性、彼女が、ティリーア。魂の関係で言えば、僕の姉であるひとだ」
その女性は例えていうならば、月の化身だった。
なぜそう思ったかは分からない。
それも、満ちた月ではなく細く欠けた三日月のようだと、ティルシュはぼんやり考える。
やや小柄で、大きな
背に流れる、黒曜石の輝きを持つダーク・ヘア。それが朝の繊細な光を弾いて濡れたような輝きを放っている。
そしてその姿はどこか儚かった。それは例えではなく。
半ば透けた、実体がないように見える姿に、ティルシュは息を詰める。視界に映る景色は彼女を通り抜け、背後に揺れる砂漠の
「
彼の怯えを感じ取ったのだろう、ジュラが振り返って笑う。その言葉に応じるように彼女はふんわり笑い、口を開いた。
「はじめまして。わたしはティリーア、『命の精霊』という形をとっているの」
「セイレイ、とは?」
耳慣れない単語につい、ティルシュは聞き返す。彼女は微笑んだまま、言葉を探すように口もとに手を添えて首を傾げた。
「ええとね。わたし、説明はあまり得意じゃなくて。魔力には、属性があるでしょう? わたしの場合は『癒し』がそうなんだけど、その魔法力を
「んんー、僕も説明あんまり得意じゃないんだけど、たぶん合ってる、かな? 生身じゃないけど、ちゃんと生きてる存在で、人とか竜とかとは別の種族って考えてもいいかも」
「もとは人間なのよ。シエラに頼んで、こんなふうにしてもらったの。……ところで貴方の名前はなに?」
顔も姿も髪色も似たところなど何ひとつないのに、二人が会話する様子はとても自然で、どこか似ていた。魂の姉、という言葉の意味を十分に理解できてはいなかったが、姉と弟という関係性は二人によく馴染んでいるように思えた。
自分が血を連ねる者が彼女から伴侶を奪った、という事実を思いだし、ティルシュは胸が
おのれの名を告げ、彼女の笑顔を曇らせることになったならどうすればいいのだろう、という不安が苦しかった。それでも言わないわけにはいかない。
「私は、ティルシュ。ティルシュ=クルスレード=ローヴァンレイと言います」
心臓の高鳴りを誤魔化すように、一気に口にした。
彼女は一度瞬き、それから目を伏せ囁いた。
「そう、貴方が彼の……」
深い優しさが満ちた声音だった。ジュラが
「あの短剣もティルシュが持ってるって。あとはシエラに会って、刻を確かめるだけなんだけど、こっちが手紙送ってるのにまだ返事くれないんだよね」
「そうなの。でも、シエラに今の時代の巡りはわからないでしょう?
「それもそうだね。ひと足先に
二人は見知らぬ名前を織り交ぜながら会話を進めている。
ぼうとそれを聞き流していると、ジュラが瞳を向けて笑いかけてくれた。安心感を誘う、屈託ない笑みだ。
「ティルシュ、夜中ずっと歩いて疲れたよね。ティリーアさんの家でひと休みさせてもらおうか」
「……家?」
何もかもが理解の
「ひと休みしたら宿に戻って、次の目的地に行こう」
はたして、瞬きひとつの時間でティルシュの視界は変容していた。
古びた小屋は人が居住しているようには見えなかったが、テーブルも椅子も傷んではおらず、勧められるままに旅装を解いてティルシュは椅子に腰を下ろす。
ジュラが、濡らしたタオルとグラスに入った水を出してくれた。
「ここは昔ティリーアさんが住んでた家でね。今は誰も住んでないんだけど、結界領域の中だと経年劣化とか関係なくて」
「ティリーアさんは今、どこに住んでるんですか?」
難しそうな話は聞き流すことに決め、気になったことだけを尋ねてみる。ジュラは話そうとして思い直したらしく、そばに
「わたし? わたしは、普段は眠っているような状態だから。精霊には、食べ物とか水とか必要ないの」
「砂漠化した土地は生身の人間には負担が大きいのと、精霊なら人間ほど時間の感覚に縛られないだろうっていう、銀河の竜の配慮でね」
ジュラが補足し、ティリーアもうなずく。つまり、普段の彼女はあの墓標のそばで眠っているような状態であり、訪問者があるときに覚醒するということらしい。
ティルシュにとっては理解の難しい内容だったが、限られた知識の中でそういうものと受け止めるしかなかった。
そうまでして彼女が待とうと思い定めた相手というのが、ハルと呼ばれる光の竜なのだろう。
「だって、ハルはわたしに約束してくれたもの。だからわたしはここで、あのひとが帰ってくるのを待つと決めたの」
まるで少女のような笑顔でティリーアは言い加える。その姿は可憐で魅力的で、どんなに着飾り化粧を施した貴族の娘たちでも彼女には及ばないのではないかと、ティルシュは思ってしまった。
この素敵な女性にこれほど深く愛されている
彼女であれば、新たな絆を求めて違った幸せを得ることもできただろうに。
そもそも、太古の時代に失われた命を取り戻す奇跡など、信じられようか。不確かな約束で彼女の心をつなぎとめ、気の遠くなるような孤独を強いるのは、身勝手なのではないか、と——、
「……そんなことが本当に可能なんですか?」
胸に満ちた暗雲がこぼれだすように、思わぬ言葉を口にしていた。
ジュラが目を丸くしてティルシュを見、ティリーアにも驚いたように見返され、失言だったと後悔するがもう遅い。
ジュラはしばし思いに
「僕らにも、その辺さっぱりわからない」
「わからない……ですか」
「失われた命が返らないのは
まっすぐな答えはティルシュの疑念を裏打ちするものだった。返す言葉を失う彼にジュラは、でも、と続ける。藍の双眸に強い決意をきらめかせて。
「確信がある、意志がある。だったら思いつく限りの方法を試して、なんとしても叶えてみせるさ」
「そんな」
千七百年の悲願がそれほどに不確かな
「あのひとが約束を
静かな声でありながら彼女の瞳は強く、ティルシュは胸をうたれて口をつぐむ。そして理解した。ジュラに宿った確信は彼女のそれを反映しているのだ、と。
彼女は
これまでどれだけ疑念を投げかけられても砕けなかった信頼が、今さらティルシュの言葉で覆るはずがない、と痛感した瞬間だった。
なぜか胸が痛んだ。願いが叶えばいいと、祈るように思う。
彼女のために、自分にも何かできることがあるというのであれば。
「解りました。私も、協力します」
意を決し口にした宣言を聞いたティリーアは、花が開くように
その時はまだ、彼自身も気づいていなかったのだ。
自分の胸に生まれた感情が何なのか、そして自分の決意がその想いに対しどんな意味を持つのかを。
遠い遠い過去の時代、黒髪の少女がはじめてその心を震わせた、甘い感情と。
この想いは、同じものではなかっただろうか。
ジュラがティルシュを連れて去ったあと、彼女は再びまどろみの中へと沈む。
遮るもののない真昼の砂漠には容赦なく炎熱が降り注ぐが、彼女にとってはそれすらも愛しいぬくもりだ。
帰る場所はここにあるのよ、と。
たゆたう意識に言葉をのせ、彼女は幸せそうに微笑む。
千七百年の歳月を待ちつづけられたのは、ともに時を願い、寄り添ってくれたひとたちがいるからだ。彼の帰還を望み、方法を探ってくれたひとたちがいるからだ。
それがどれだけ
そばにいて、と。
誰もがあたりまえに願うこと。
もうすぐ、そのあたりまえの願いが叶うのよ……?
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