第三章 百刻目の星夜
八.星竜の告知
まだ子供だった時代。今よりざっと二百年ほど前のことだ。
小規模の
当時ジュラは実年齢が五歳。外観年齢はそれより幾らか成長していて十歳ほど。時の司竜としての力に覚醒したばかりで、現世と前世の記憶がまだ統合されていない状態だった。
運良く通りがかりの魔術師に拾われ保護してもらえなければ、砂漠で力つき
彼は口は悪いが、親切だった。まだ幼く外界に出たことがなかったジュラにとっては、強烈ながらも新鮮な出会いだった。
しかし彼はジュラを家に返すことを拒み、関係がこじれた末に記憶を封じる呪いを彼によって掛けられてしまう。
人間の魔術師や妖術師の呪いであれば、幼いとはいえ司竜であったジュラにも自力で解くことはできたかもしれない。だが彼は、人間ではなかった。
初代のシエラが次代に継がせた『銀河の竜』の権能。彼はその幾代目かの継承者であり、星の権能をともなった呪いは強力で、当時のジュラには打ち破ることができなかった。
身体的にも精神的にも未熟であり記憶も不完全だったジュラは、行き先を選ぶことも魔力を正しく制御することもできなかった。それゆえ、時渡りと呪いの反動で記憶が抜け落ちた状態のまま、悲劇の始まりを目撃することになってしまう。
結果的にその出来事は、前世を含めた時の竜が内に保つ記憶を呼び起こす切っ掛けとなったのである。
記憶を多重に
混乱と動揺と怒りを受けとめるまでには長い時間を要したし、関係する誰かを責めたり恨んだりしたこともあった。それでも越えられたのは、助けてくれたひとたちとティリーアの存在があったからだ。
ティルシュの動揺は、ジュラ自身も越えてきた疑念だ。
仮定の過去に意味などない。
どんなに問いを繰り返したところで、答えを持っている者はおらず、であれば満ちた時の先を見届けるしかないのだ、と。
その上で、まっすぐに疑念をぶつけられるティルシュの素直さをジュラは好ましく思ってもいる。
今朝も、隣のベッドでティルシュは死んだように眠っていた。
夜通し砂漠を歩き、ティリーアに会って言葉を交わしたあと、ジュラはティルシュの体力を
どのみちティルシュに真昼の砂漠は越えられない。それに、朝焼けに感動し立ち尽くしていた彼を見て、目的は達したと思ったのだ。
といっても、何かたいそうな計画があったわけではない。
その
昨日は昼過ぎに宿に戻り、湯を借りて身体を洗い食事をとり、二人で夕刻まで勉強会のような討論を交わし、夜は早めに食事を終えて床に就いた。
勉強熱心なティルシュの姿勢は微笑ましいが、正直ジュラは教える役目に向いていない自覚がある。
ハルが帰ってきたら代わってもらおう、と考え、自分の思いつきに表情を緩めた。
「さ、朝だよー、ティルシュ」
声をかけて揺り起こしてみたものの、呻くような返事が返ってきただけだった。
想定通りだったのでジュラはしつこく起こすのはやめ、昨日と同じように二人分の朝食をもらうため階下に向かう。
ティルシュがようやく睡魔を追い払い、身を起こしたのは、その後のことだ。
「うう、すみません……」
「いいんだってば。それとも、料理を覚える? 簡単なものなら教えられるけど」
「それは……面白そうですけど、たぶん無理です。食材の原型を知りませんし」
「ええ、それちょっと箱入り具合がひどすぎるような」
他愛ない会話を交わしながら、ジュラはあら麦のパンをちぎってトウモロコシのスープに浸しては口に運んでいる。ひと口ごとに幸せそうな表情をするものだから、つい気になってティルシュも彼に倣ってみる。
「美味しい」
「ティルシュ、意外に
「それ、褒められてるんですか、呆れられてるんですか」
揚げた魚にかけられた酸味の強いソースを付け合わせの野菜と混ぜながら、ジュラはくすくすと笑った。
「呆れるわけないよ。僕、君のこと好きなんだから」
「…………」
答えに
内陸で魚は貴重品だが、港町であれば海の魚が手軽に食べられる。昨夜ジュラに教わったことだ。
「それで、ティルシュ。今日は人を迎えにいくつもりなんだけど、君はどうする?」
重大告白をさらっと流して別の話題を振ってくるジュラは、自分の容姿の破壊力に気づいていないのだ、と思いつつ、ティルシュは魚を口に押し込む。小振りだが池の魚のような臭みはなく、柔らかくて美味しかった。
食べながら、ジュラの問いを考える。
疲労はともかく、危険を回避するつもりなら宿にいた方が安全だろうか。いや、自衛の能力が低い自分はジュラと行動をともにしていた方が安全かもしれない。
打算は脇に置くとしても、町を散策するという響きは魅力的だった。
体が弱いくせに外歩きが好きだった父王とは違い、ティルシュは城から出たことがほとんどない。
内向きな気質というのもあるが、外見ゆえの気後れも大きかったからだ。
だが、ジュラと一緒であれば。
「ここは、何という町ですか?」
辛抱強く答えを待ってくれていたのだろう、ジュラはその問いににこりと笑った。
「ここは港町ティリーア。町の中を歩いてみると分かるけど、風の島では一番緑が多いんだ」
耳に馴染んだ名前にティルシュは動きを止め、ジュラを見返す。嬉しそうな笑顔には親しみが込められているようだった。
「そう。彼女の名はここに地名として残されてるんだよ。ハルが
「そうだったんですか」
砂漠化をまぬがれている不思議な町という噂は知っていたが、その理由を知ると
こんなところにも、彼女の証は残っているのだと——その事実に驚くとともに、全身の血が逆流するほどの感動が胸に
「どうする? 一緒に来る?」
ジュラがからかうように目を輝かせて答えを促す。その誘惑に、ティルシュが
「行ってもいいんですか?」
「もちろんさ。じゃ、食べたらすぐ出発しよ」
一緒に町を見てみたいという衝動が胸をつき、ティルシュは慌てて残りの魚と野菜を口に詰め込んだ。
急いで朝食を平らげ、ジュラに指導を受けながら宿を発つ準備をする。
食器を片付け荷物をまとめ部屋を軽く整えて二人が宿を出たのは、それから一時間ほど後のことだ。
港町、そのうえ緑地も多い町ということもあり、日中はかなり混雑する市場の片隅で、彼は薬屋を営んでいる。
店を構えたのは両親の代からなので、小さな店ながらも客の出入りは多い。
今日も店番と調合で朝から働きづめだった彼が遅い朝食をとっていると、扉に下げられている鈴が綺麗な音で来客を告げた。
「あ、いらっしゃ……あ!」
入店してきた二人連れを見るや
「ジュラ! すごく久しぶりだね!」
「ラシェ、元気にしてた?」
肩ほどに切り揃えた黒銀の髪、
ジュラに呪いを掛けた先代銀河の竜の息子であり、父からその権能を継承した今代の銀河の竜である。
「元気だよ! ジュラこそ、元気そうでよかった。ずっと音沙汰ないから心配だったんだよ?」
「ごめんごめん」
ひと
「だれ? お客さん?」
「違うよラシェ。ええと、ティルシュ。この子はラシェールっていって、今代の銀河の竜なんだ。ラシェ、彼はティルシュ。彼こそが『ひとつめの鍵』となる人物だ」
ジュラの紹介で概要を悟ったのだろう、竜の少年は目を見開いてティルシュを見つめる。
「もしかしてジュラ、百度めの星の日って」
「うん。次が百巡り目だよ。だからその日をラシェに教えてもらおうと思って。次に巡る星の日って、いつ?」
ラシェールはしばし口をつぐんだ。答えを待つジュラの瞳には、期待と不安が入り混じった光が揺れている。
ひと時の沈黙ののち、彼は口を開いた。
「ジュラ、落ち着いてよく聞いて。次の
途端、場の空気が質を変えた。
ジュラが瞳を瞬かせ、息を飲む。見る間にその両眼に、透明な雫があふれ出した。
「本当に?」
涙にかすれる声でジュラが問う。
「十年後でも、百年後でもなく、本当に一週間後なの? そんなに、間近に?」
「うん、間違いない」
ラシェールが言って、ジュラの手を握る。
こぼれる涙をとどめようともせず、ジュラはうつむき、泣いていた。押し殺したような
悲しみの涙ではなかった。
どれほど強い感情があふれ出したものなのかを、ラシェールも、ティルシュも、分かっていた。誰が言うまでもなく、分かっていたのだ。
海賊船内の通路は狭い。
内側に押入られた時に撃退しやすくするためだとエフィンは言うが、本業が盗賊稼業のシエラには専門外の話だ。だから是非を言うつもりもないが、背丈があるだけに狭い場所は窮屈に感じてしまう。
その狭苦しい通路に海賊王が立ちはだかっていた。正確に言えば、シエラが借りている船室の扉に寄りかかり、腕を組んで
「どの
シエラが何か言うより早く、エフィンが口を開いた。少し考え、聞き返す。
「誰にだ?」
答えは分かっている。あえて聞いたのは、話したいのだろうと思ったからだ。
エフィンは目を伏せる。
「アルトを失って、略奪と殺しを
「アルトは死んでねえだろ」
返答するシエラの声は冷たい。
見守ってはきたが、見張ってきたわけではない。すべてが叶ってハルが戻ってきたとしても、エフィンの所業を報告するつもりなどなかった。
「おまえとハルとの間に、おれが口を挟む理由はねえよ。顔を合わせるのが嫌なら、おまえは陸地を踏まなければいい——違うか?」
シエラの問いに返る答えはない。二人の間に暗黙の禁忌として横たわる過去は、シエラでさえも赦すことのできない海賊王の非道だ。
時の司竜による時間の凍結、永遠の眠りという形で発現した呪いを解くことができる者は、同じ権能を持つ時の司竜以外にいない。
だが今代のジュラとの交渉は決裂したままだ。
今も最果ての地で眠り続けるアルティアに対し、エフィンが謝罪をすることはないだろう。望みを果たしたことを後悔しているとも言わないだろう。
だが、その喪失がエフィンにとって心の一部を失うと同じだったということを、知らないわけでもない。
シエラに対し弁明も居直りも何も語らず、ただ黙々と方法を探っていることも知ってはいた。しかし叶わぬまま、ハルの予言した日は一週間後に迫っている。
それを知ったエフィンの胸に生まれたのが焦燥なのか絶望なのか、それもシエラにはあずかり知らぬことだ。
それでも、会いたくないはずがない、とも思うのだ。
なぜならエフィンにとって
(会いたくない、ではなく、会えない、なのか)
そう思っているのなら、自分が今まで行ってきたことに対し、
「過去を言い訳になんてしたくねえんだろ?」
尋ねれば、エフィンは黙って目をあげた。返るは視線のみ、言葉はない。
それでもシエラは問いを重ねる。
「おまえが生きたいように、生きてきたんだろ? ハルが死ななかったとして、その生き方は変わってたっていうのか? おまえは人並みの真っ当な人生を送れてたのか?」
——そうではないはずだ。
エフィンは海色の目を瞬かせた。彼らしくもないため息とともに、低いつぶやきが暗い通路に落ちる。
この一言を口にするためだけの、幾多の葛藤。
「俺も協力させてくれ、シエラ」
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