二.風と光の訪れ


 その日は朝から、村中が大騒ぎだった。


 眠い目をこすりつつ起き出してきたアスラに食事をさせている間にも、両親はせわしなく動いて掃除や片付けを進めている。

 なにごとと問えば、例の「偉いひとたち」が今日か明日、村を訪れるのだという。

 ほんのりと興味を覚えつつも、両親と一緒に掃除を手伝う気持ちが起きなかったアスラは、二人の目を盗んで家を抜け出した。その足で、村の高台にもなっている丘へとやって来る。


 年中暖かなこの村は、いつでも濃い緑に満ちている。柔らかな青草が絨毯じゅうたんのように敷きつめられた丘の中腹に両手足を投げ出して、大の字に寝転ぶと、アスラは蒼天を見あげた。

 青く抜ける快晴の空を、小鳥が鳴き交わしながら勢いよくよぎっていく。その楽しげな様子につい、笑いが零れてしまう。


「いいな。あいつら、悩みごととかなさそうで」

「そんなことはないだろう。彼らだってきっと、悩まねばならないことはたくさんあるはずさ」


 独り言のはずだった呟きに返されたのは、見知らぬ声。

 アスラは驚いて飛び上がった。半身を起こして振り返れば、長身の人影が二つ丘の上に立って、自分を見下ろしている。


 そのうちの一人は光を放つような金の髪の、背の高い青年だった。

 緩やかな波がかかった髪は肩ほどまでと長く、無造作に後ろへ流されている。アスラを見る両眼は深い紫水晶アメジスト

 表情に温かさを感じる、大人びた雰囲気の男性だ。


 もう一人、やや後方で笑顔でたたずむ優しげな容貌の––––女性とも男性ともつかぬひとは、濃い青色の髪だった。

 腰より長くまっすぐなそれが風に流され踊るように揺れている。目の色は遠くて見えにくいが、藍か紫紺かおそらく同系色。

 竜族だ、と直感的に気づく。


「あ、あの」


 独り言を聞かれていた恥ずかしさと見知らぬ相手へのわずかな警戒で、口ごもるように返答したアスラに対し、金髪の青年はにこりと気さくな笑みを向けた。


「どうしたんだね、坊や。君は小さいのに悩みがあるようだ。……俺でよければ、相談にのってあげようか?」

「ハル」


 たしなめるように名を呼んで、もう一人が金髪の方に歩き寄る。そのままアスラのそばにくると、困り顔で微笑みながら少しだけ身を屈めた。


「びっくりさせてごめんなさい。初対面だというのに、困りますよね。わたしはリュライオ、彼はハルと言います。あなたと同じ竜族です、安心してください」


 柔らかな話し方で声も優しいが、男のひとっぽい、とアスラはぼんやり考えた。

 竜族、ということは、青いひとはおそらく風竜で、金色のひとは光竜だろう。……とそこに思い至ったところで、アスラの記憶が一気につながる。


 ––––今度来るお二人は、世界を造った風の竜様と、光を統べる長なる方なのよ。


 朝食のときに聞かされた母の言葉を思い出し、アスラは慌てて跳ね起きた。姿勢を正し、服に貼りつく草の葉を叩き落とし、緊張に震えながら二人を見上げる。


「あ、あの、……お二人ってもしかして、光の司竜様と風の司竜様ですか?」

「そうだけど。なんだい? 急に改まって」


 アスラの態度の急変に彼らは驚いたようだった。首をかしげるハルに向かってアスラは、父母に教えられた歓迎の言葉を言おうとした。が、


「ほ、本日は、ようこそこの辺境の、ええとっ」


 練習もせず、聞き流していただけの文言がすんなり出てくるはずもない。

 焦りで頬を紅潮させる少年の様子を二人は不思議そうに見ていたが、やがてハルが苦笑を漏らし、手を伸ばしてアスラの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


「よせよ。我々はそんな偉いものじゃない」


 言葉にほんの少しの苦さを混ぜて、高名な光の竜は人懐っこく笑った。アスラの方はといえば、どうしていいか分からず固まるのみである。

 頭上に重みと温もりを感じながら、アスラは上目遣いにハルを見あげた。


「でも、お二人は特別なドラゴンで、世界を造ったひとだって」

「それは否定しないが、それにしても持てはやされるのは好きじゃなくてね。どこの村でも、まあ、えらく気を遣ってくれるんだが……」


 ため息を一つ吐き出し、ハルは頭に置いた手にぐ、と力を込める。


「君みたいな子供までがそんな、気を遣うんじゃないよ」


 彼らが何を気に入らないのか解らないアスラは、釈然としないままそれでもうなずいた。そんな風に言われてしまったら、両親はじめ村の者たちのやっている事は無駄なのではと思ったが、当人たちが困るというなら仕方がないだろうとも思う。


「はい。それじゃ、ぼくお二人の泊まる場所まで案内します」


 子供の自分にできそうなことを考えて、アスラはそう申し出た。ハルがリュライオを振り返り尋ねる。


「どこだっけ」

村長むらおさの家ですよ。手紙くらい読んでください、地図だってもらってるんですから」


 リュライオの表情は、苦笑いであっても柔らかい。彼が差し出した紙片には、おそらくそうだろうと思った通り、長老竜の家に印が付けられていた。


「長老様のとこですね。案内します」

「いや」


 歩き出そうとしたアスラを押しとどめるように、ハルの両腕が少年の腰に回される。そして、軽々と抱き上げてしまった。

 驚いたアスラは小さい悲鳴を上げて、思わずハルにしがみつく。


「な、なんですか?」

「君の家に泊めてくれよ。せっかく小さな友達ができたんだ、いいだろう? りゅう


 嬉しそうに相好そうごうを崩し、アスラを抱えたまま丘をくだり出したハルを追いかけるように、リュライオも歩き出す。紫紺の双眸はその様子を眺めながら穏やかに笑っているようだった。


「それでは先方に失礼ですよ」

「いいじゃないか、一泊の滞在ではないんだし。……そうだ、君の名前をまだ聞いていなかったね」


 普段より高い視界、肩越しに見える景色が歩みに合わせて揺れている。緊張と少しの興奮に胸を高鳴らせつつ、アスラは答える。


「ぼ、ぼくはアスラっていいます。これでも、時の司竜なんです」

「時の司竜!」


 驚いたようなハルの大声にびっくりして、アスラは身をすくませた。そばまで来ていたリュライオも、目をみはって自分を見ているのがわかる。


「は、はい」


 どきどきし過ぎて心臓が壊れるんじゃないかとアスラは思った。

 外の世界から余所よそびとが訪ねてくることなど今までなかったので、見知らぬ大人とどう接すればよいのか分からない。もっと真面目に両親の言いつけを聞いておけばよかったと思うものの、もう手遅れだった。

 そんなアスラの不安をよそに、ハルは大きな手でアスラの頭をぐしぐしとかき回している。紫の目には嬉しそうな光が揺れていて、紡がれる声は楽しげに弾んでいた。


「そうか、君が時の司竜だったのか。逢えて嬉しいよ。君は竜族の中で最も魔力の強い一人だ。我々なんかより、よほど凄いんだよ」

「そうなんですか?」

「ええ、そうですね」


 比べる相手もなければ基準もわからない。戸惑うアスラを安心させるような優しい声で、リュライオがハルの言を肯定する。そして続けて言った。


「将来有望な小さい司竜殿に、変な影響を与えないでくださいよ、ハル」

「何を言うんだ。私はそんな危険人物かい?」

「ええ、そうです」


 芝居がかったしぐさで大きくうなずくと、リュライオは改めてアスラに向き直り、にっこり微笑んだ。


「こんな変わり者たちですが、しばらくの間よろしくお願いしますね」

「…………」


 仲良く軽口を叩き合う二人に圧倒されつつ、アスラはこくこくとうなずく。高名な立場のあるひとだと聞いていた。アスラにとっての立場がある者というのは村長むらおさであり、厳しく気難しい年長者という印象以外を考えたこともなかった。

 村以外をまだ知らない少年の目に、それはひどく不思議な光景に見えた。

 視線に気がついたのか、ハルの瞳がアスラを見る。そして、柔らかく微笑む。


「君の村がどんなものかは知らないが––––わたしたちはいつも、こんなだよ」

「そうですよ、アスラ。竜族は変わらなくてはいけないんです。誇りで塗り固められた伝統など、てるべきときだから」


 リュライオは含みのある言い方でハルの言葉を引き継ぐと、顔をあげ黙って彼方に視線を向けた。その真剣みを帯びた表情から、彼らが何かを成そうとしているのだ、ということを、幼いながらもアスラは感じ取る。

 そしてそれは自分と、誰より大切な姉にも大きな変化をもたらすものだろう、ということをも。

 ハルとリュライオ、二人の目には、それを予感させるだけの強い決意が秘められていたのである。





 当然のことではあるが、朝から準備に駆り出されている両親はまだ家に帰ってきていなかった。

 家はがらんとしていて、居間にも二階にも姉の姿は見当たらない。


「あの、ごめんなさい」


 お茶やお菓子のありかが分からないため相応のもてなしができず、きまり悪さにアスラはうつむいてしまう。

 この失態は、普段どれだけ母を手伝っていないかを物語っていた。しかし二人は気にする様子もなく、ハルなどは客間のソファに腰掛けて勝手にくつろいでいる。


「こちらこそすみません。気を悪くしないでくださいね」


 リュライオはそう言ったが、ハルに苦言を呈する様子はなかった。彼らの言葉を借りれば、いつもこんな、なのかもしれない。


「大丈夫です。気にせず休んでてください、ぼく、母さんたち呼んでくるので」

「いいよ、アスラ君。それよりせっかくの天気だ、外を案内してくれないかな」


 駆け出そうとしたところをハルに呼び止められたので、アスラは勢いを抑えかねてくるりと方向転換した。


「はい……庭とか、ですか?」

「うん。お願いするよ」


 彼らが村を訪れたのは視察のようなものなのだろうか。

 小さな庭には果樹と芝生と花壇くらいしかないのだが、確かにここでじっと座って待つのもつまらない。ついでに姉を捜してお茶を淹れてもらおう、と思い立ち、アスラはうなずいて扉に手をかけた。


「じゃあぼく、案内します。……姉さんが、庭にいるかもしれないし」

「君には姉さんがいるのかい?」


 興味を覚えたのだろう、ハルが目をみはったが、アスラは扉を開けながら言葉を濁すように呟いた。


「はい、でも、姉さんちょっと変わってるので」


 視界の端で、リュライオはその言葉に首をかしげたようだった。

 アスラは聞き返されるのが怖くて、振り返らなかった。だから、ハルがその言葉にどんな反応を示したのかは分からない。



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